ゃん

 

                                     

 

きのう、遠来の方から、懐かしいメールをいただいた。

北海道のいなかで過ごした幼な友だちで、悦子ちゃんは、中学校を出ると村の元ロシアの軍人の男といっしょになった。その幼妻(ようさい)の顔を、ぼくはいまでも忘れない。

小学校に通っていたころ、ぼくは彼女といっしょに通学した。

ある日、ぼくは馬に乗って学校に向かう途中の道で、彼女を見つけた。その子を馬の背の後ろに乗せて、小学校の校門をくぐり抜けるとき、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。仲間のみんながいたからだった。

ぼくはなぜか、誇らしい気分になった。馬に乗って通学する生徒はひとりもいなかった。そのとき以来、ぼくは悦子ちゃんのことを好きになった。

ぼくがはじめてラジオを聞いたのは、彼女の家だった。ぼくの家にはラジオはおろか、電気がなかった。わが家はホヤつきランプの灯りの下で、みんな集まって食卓を囲んだ。音の鳴るものは、ヴァイオリンだけだった。ぼくは小学校にあがるまえからヴァイオリンを弾いていた。

母屋の外にある薪小屋で、ぼくは薪(まき)に腰かけてヴァイオリンを弾いた。そのとき、悦子ちゃんがいちばん熱心に聴いてくれた。彼女の父親は村の郵便局に勤めていて、農繁期になると、父親が田んぼの仕事に精を出した。ヒマになれば、郵便局の仕事をしていた。

そのころは、新聞は1日遅れで配達され、朝早く、27キロにおよぶ三谷街道は、新聞を配るだけで5時間はかかるといっていた。それをおじさんは、雨の日も雪の日も、ひとりでやっていた。ふだんの三谷街道は砂利道で、ほこりだらけだった。

ある日、ぼくは近くの家から、音をたてて生け垣を捷(はしこ)く逃げる男と街道の真ん中で、鉢合わせになった。

そのあとから、

「泥棒 泥棒!」と叫びながら人がやってきた大柄な家主の駆けるようすをながめ、ぼくは犬をたたきつけた。

「ほら、あの男を追え!」といったが、大型犬で脚の速いボルゾイは、ぼーっとして、ぼくを見つめるだけだった。

「やつを追え!」といって、遠ざかる男を指さした。

犬は走って行った。

たちまち男に追いつき、やつの膝あたりをくわえた。男は何かいったが、観念したとみえて、道の真ん中で膝をかかえて、ひっくり返った。敏捷この上ないボルゾイ犬の腕力に男はひるんだようだった。やがて家主がやってきた。

「おまえ、3人組のひとりだな!」と叫んだ。

泥棒は、まだ幼い少年の顔をしている。

「ぬすんだものを、出せ!」といっている。彼は、ごめんなさい、といって、地面に顔を摺(す)りつけた。

「はやく出せ!」と家主はいった。

男はズボンのポケットのなかから、変なものを取りだした。仏壇にあった仏具だった。小さな蝋燭(ろうそく)立てがひとつ出てきた。

「こんなことをすると、死んでも、成仏(じようぶつ)できんぞ! どこの子だ。名前は?」といった。

「それだけはかんべんしてくれ。……この犬に、やられた」といっている。

「どこをやられた?」

少年は、ズボンの裾をたくしあげ、ふくらはぎを見せた。歯跡が食い込んで、血が出ていた。

「おまえ、犬にあやまれ。そうしたら赦(ゆる)してやってもいいぞ!」といった。

「ごめんなさい。……」といった。

ボルゾイ犬は知らん顔をしていた。

犬の顎に手をのばすと、犬は舌を出して少年の指をなめた。

「それならいい! もう、こんな悪さはしないこった」と家主がいうと、

「坊や、すまんな。あんたの名前はなんという?」といった。

「田中です」

「おう、タナカのカズオさんのところの子か?」

「はい」

「犬は?」

「ぼくんちのです」とぼくはいった。

「顔は三木のり平に似てるじゃないか」といった。

ぼくはこの少年の顔をいまでもおぼえている。

おぼえているばかりか、昭和44、5年ころ、東京・中央区の銀座教会の近くにあった日本建築士会連合会というところで偶然会っている。彼はとうのむかしに忘れているとみえ、初対面の挨拶をし、名刺を交換した。

ぼくは、その年のクリスマスの日に、今年最後の校正刷りのすり合わせにやってきたのだった。ぼくは、同連合会の記念誌発行の仕事を請け負っていた。

事務局長とは親しくなり、そのとき茶を飲みながら、彼と話し込んでいた。

「北海道の人でしたら、会えば即座にわかりますよ」とぼくはいった。

「そうですか。……うちにもひとりいますよ。ほら、彼ですよ」といい、そこで出会ったのが、かつての少年だった。

ぼくよりひとつ学年が上で、足の速い生徒だった。

「田中さんがね、北海道の人なら、会えばわかるというもんだから、きみを呼んだのさ」と、事務局長は嬉しそうにいった。

「田中さんは、北海道のご出身だそうですよ」といって、ぼくを紹介してくださった。彼の名刺には、Kなにがしと書かれている。ぼくは当てずっぽうで、こういった。

「北海道は広いですが、お生まれは、北空知のほうですか? 雨竜とか、北竜とか、……滝川方面じゃないですね? 滝川、新十津川は、別系統でしょうね、……」などと勝手なことをつぶやいた。

彼の顔が急に青ざめ、

「え? そう見えますか? ……どうして、おわかりなんですか?」ときいてきた。

「いえ、なんとなくです。Kという姓は、たぶん北竜でしょう」と、ぼくは断言した。事務局長は、どうなの? という顔をして彼を見つめる。

「まったく、そのとおりです。北竜町の出身です」と彼はいった。

「――それも、むかし合資会社倍本社があった、やわらといいましたか? そこの第2次か第3次入植者のなかに、たしか、Kという方がおられたと記憶しています。そうじゃありませんか?」とぼくはいった。

たしかにKという人はいた。

そういう方なら、倍本社にいるはずだと咄嗟(とっさ)におもったわけである。倍本社というのは、当時の合資会社の名前である。

明治26年5月17日、千葉県印旛郡埜原村から21戸の農民を引き連れて、北海道へ渡ってきた第1次入植者たちだ。その後、明治40年まで北海道への移民がつづいた。

最初は、農民たちは会社員として給料の支給を受けて生活していた。現在、「培本社」は地名として残っている。

「どうなの?」といって、事務局長は男にきいた。

そのとおりだった。ぼくとはあれ以来、一面識もない人だったが、なんとなくわかった。

「たまげたなあ。……どうしてそんなことがわかるの? じゃ、ぼくはどこの出身か、当ててみてください」と事務局長は、身をのり出して、いい気分になっていった。そんなの、わかるわけがない!

たまたま偶然、そういうことになったまでのことだった。

それ以来、K氏は、事務所で顔を合わしても、挨拶をするぐらいで、何もいわなくなった。あのころのじぶんの秘密まで知っているのではないかと、あるいは恐れていたのかもしれない。薄気味悪い人間だとおもわれていたかも知れない。

その後は、おしゃべりをしようなどということもなく、自然に別れた。

偶然のいたずらは、おもわぬ出来(しゅったい)をもたらし、座をげんなりと白けさせてしまった。

その後、彼のことも、悦子ちゃんのこともわすれてしまっていた。

先年、北海道で中学校の同期会があり、58年ぶりに出席して、みんなの顔をながめてきた。悦子ちゃんは出席しなかった。その彼女から、いまごろになって、とつぜんメールが送られてきたのである。同窓会のメンバー全員の住所や連絡先、写真などがみんなに配布されていた。

「ご無沙汰しております。先日、田中さんのこと、札幌の展子さんから聞きました。でも、わたしは病気で、同期会には行けませんでした。いまも病院にいます。

やわらのこと、懐かしいです。兄は10年ほど前に亡くなりました。田中さんは、いまでも、ヴァイオリンを弾いていらっしゃるのかしら? お元気な田中さんに、お会いしたいと思っておりましたが、ある事情で、どこへも行くことができなくなりました。いつまでもお元気で、ご活躍ください」

この文面を読んで、ぼくはひどく落ち込んだ。

99人のむかしの仲間は、いま、半分の49人になった。50人は、レイ・ブラッドベリの描く宇宙船に乗って、別の惑星へとワープしてしまったのだとおもった。

まだ生きている人といっても、ボケた人、がんを患っている人、歩けない人、耳の聞こえない人、目の見えない人、事業に失敗して失踪してしまった人など、いろいろだ。「自由」と「解放」を夢見て海外へと旅立った人、信じがたいような時代の変化に翻弄され、みずから命を絶った人もいた。

北海道に居残って、農業に精を出し、一途にがんばった人もいる。

なかでも悦子ちゃんは、だれよりも速く人生のスタートを切った。

カラフトからやってきたロシア人の夫は、土地を持たず、海産物を商う仕事に精を出し、水産加工会社を興した。そして悦子ちゃんはその男と結婚した。まだ18だった。そういう悦子ちゃんを見て、仲間のだれもが羨ましいとおもったものだ。

ぼくはその青年実業家を、一度だけ見たことがある。背が高くて口ひげを生やし、年齢は30と聴いていた。

そして、悦子ちゃんのことを密かに応援していた。――あれから60年になろうとしている。ぼくには想像もできない、目くるめくような人生だったろうとおもった。

イタドリの道で撮った悦子ちゃんの写真は、いまも古いアルバムの中にある。あのころは、みんな幼かった。