■現代アメリカ文学の行方。――

Hemingwayの儀、スリートの流儀

 アーネスト・ヘミングウェイ

 

――日ごろ、ぼくは余計なことを考えているわけじゃないのだけれど、ときどきヘミングウェイならどうするだろう? とおもうことがある。

 

「おまえがその顔を改めるなら、おれも素行を改める」

「おい、おれの顔がおまえに迷惑かけてるかよ!」

北海道の先輩、柳瀬尚紀氏の「日本語は天才である」より

 

オリンピック東京大会が無事幕を閉じた日、アスリートの一言が忘れられない。

あるアスリートは報道インタビューの「無観客」に答え、「悲しい」といった。

すると、ネット上では轟轟(ごうごう)たる非難の集中砲火を浴びた。「開催されるだけでもありがたいと思うべきでは」といって。

そして「観客の前で、感動させる走りをしたかった」といったのだった。

すると、「思い上がりだ!」といわれた。アスリートは、何か悪いこといったのだろうか? とおもう。

考えてみれば、アスリートにとって五輪は、けっして「4年に一度」の舞台ではない。「一生に一度の晴れ舞台」なのだ。その青春のすべてを懸けてきたことへの真摯な努力にたいして敬意を表すべきではないだろうか、とおもう。

たとえば、「空間はまさに世界と一をなしている」といった中江兆民とか、「世界は容器だ」ともぼくは考えないのだが、「どんな川でも世界と一をなしている!」といったらどうだろうか。世界はつながっているとおもえる。4年に1度はこうして世界がつながるのだ。

明治の時代は、そういうことを深く考えようとした時代だった。

かつて、野上豊一郎はこういった。

明治文壇の四大家は「紅露遥鴎」であり、紅葉は若死にし、露伴は隠退し、逍遥は学者となり、鴎外ひとりが文壇をささえたと絶賛されている、と。

芥川龍之介は、漱石の葬儀の受付をしていたとき、「霜降(しもふり)の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありというべきか、滅多にある顔ならず」と書いた。

その顔が鷗外だったのである。

だが、森鴎外は「切腹を許されなかった軍医」である。

鷗外はどこに行くにも軍服と軍刀姿だった。45歳で陸軍医総監となり、55歳で帝室博物館総長となった。いくら文学的教養の才があっても、あんまり偉すぎるため、作家としてのイメージは一般にはほとんどなかったらしい。

鷗外の話をすると、さいきんはみんなが煙たがる。

だから、さいきんは、ヘミングウェイの話をしている。たとえば、こんな話を。

 

「お洒落名人ヘミングウェイの流儀」(今村楯夫・山口淳著、新潮文庫、2013年)という本を読み返して、たいへん教えられた。

 

何年かまえ、ガートルード・スタイン女史とヘミングウェイの話を書いたけれど、そのときにはわからなかったことが、この本を読んでいろいろわかってきた。ヘミングウェイって、ホンモノへのこだわりの強い男だったということが――。

調べてみると、今村楯夫さんという人は、日本ヘミングウェイ協会の会長さんをしている人のようだ。ヘミングウェイのファッションについてもかなりのウンチクを披露していて、ある部分は、出石尚三さんの文章を読んでいる感じがした。

ぼくがヘミングウェイを好きになったのは、学生時代だった。中田耕治先生の指導で、ヘミングウェイの作品を読んだのがきっかけだ。

初期のヘミングウェイの作品の多くは中田耕治さんが訳されていた。

講義ではヘミングウェイの話はめったに聴けなかったけれど、友人とともにレストランで食事をしていたときなど、先生の話は弾み、ヘミングウェイの話をよくなさった。

「これから、ニューヨークへ行ってきますよ」といっていた。

ニューヨークにはレストラン「21」があり、そこで、パパヘミングウェイは、むかしの仲間たちと、よくおしゃべりを楽しんでいたらしい。仲間というのは、文学仲間というのじゃなくて、文学とはまるで無縁の連中だった。そこがおもしろい。

男性服飾評論家の出石尚三さんと出会ったのも、大学を出たばかりのころだった。

評論家の小林秀雄先生の事務所に男性ファッションの原稿依頼に訪れると、先生はおられなくて、出石尚三さんが相手をしてくれた。いろいろ話し合ってから、ぼくはいった。すると、

「小説ですか。……ぼくに書けますかどうか、……」といって、出石尚三さんは困った顔をされた。

「短い枚数ですから、ウィットをきかせて」というと、「そうですね」といって、「2週間ください」と出石尚三さんはいった。2週間後、2編の小説ができた。「どちらか、いいほうを」と出石尚三さんいった。「センス」の編集長に打診をすると、2編とも採用になった。

出石尚三さんとは、それ以来のつき合いだった。

 

「ふたりは船具店で売っている漁師が着る縞模様のシャツにショーツ姿で、真っ黒に日焼けしていた……そんなファッションが流行するのはずっと後のことで、このシャツを女性が着ているのは見たこともなかった」

(ヘミングウェイ「エデンの園」)。

 

こう書かれている。

まさにこのふたりはたいへんユニークなおしゃれを楽しんでいたらしい。

この小説の舞台となっている南フランス、グロ・デュ・ロワという小さな漁港の村の風景を描いている。

運河のほとりに立つホテルもそのままの姿でいまもとどめているらしい。

漁師が着ていた縞模様のシャツは、ヘミングウェイのさまざまな時代を写した写真を通じて見ることができる。

たとえば、そのシャツは、つぎのように書かれている。

「シャツをお揃いで買ってきたのは妻の方で、ホテルの部屋の洗面所でごしごし洗って柔らかくしたのだ。ごわごわしていて酷使にも耐えられる生地でできていたが、洗いざらしにして着ているうちに柔らかくなり、ふと見ると、着こなした生地が妻の乳房の形をきれいに浮きだたせていた」と書く。

――うまいものだなあと思う。女の乳房の形が見えるようだ。

ヘミングウェイ亡き後、妻のメアリがキューバにもどり、革命政権を樹立させたばかりのカストロ首相と交渉し、ヘミングウェイの遺品の持ち出しを要請している。邸宅はキューバ政府に寄贈するかわりに、原稿やらゲラ刷りなどヘミングウェイの著作に深くかかわるもの、宝石や美術品とともに、おびただしい衣類や、それらの領収書の類などを持ち出すことに成功している。

1980年にボストンにジョン・F・ケネディ・プレジデンシャル・ライブラリー&ミュージアムが建てられ、ケネディの妻ジャクリーヌ・ケネディからの要請を受けて、それらの貴重な遺品を寄贈した。その数は膨大で、それから30年以上も過ぎているのに、まだ整理がついていないというのである。

今村楯夫さんは、その博物館に納められているヘミングウェイ所蔵の品々を目のまえに取り出して、300枚を超える領収書をコピーし、ひとつひとつ照合したのだそうだ。

それらのモノをながめるいっぽうで、1万枚を超える写真にも目を通し、ヘミングウェイ文学とかかわっている品々を取り出し、一冊にまとめたのが「ヘミングウェイの流儀」という本である。

あらためて、ヘミングウェイの品々を目にすることができた。興味のある方は、ぜひこの本をご覧になるといいと思う。

さて、――。

ふたたびヘミングウェイの資料を読みたいと思っていた。ヘミングウェイがスタイン女史のすすめで、画家のセザンヌの絵に触れたときの衝撃を、もういちどたどってみたいと思った。

スタイン女史が兄のレオとともにセザンヌの絵をパリの画商から最初に買ったのは1904年と書かれている。つまりセザンヌが亡くなる2年前ということになる。そのころは、セザンヌはほとんど無名だったようだ。

彼は、南フランスのエクス・アン・プロヴァンスに引きこもって鬱々と暮らしていたらしい。スタイン女史はセザンヌの風景画を買ってから、セザンヌのヌード画や、マネ、ルノワール、ゴーギャンの絵をつぎつぎに買いあさり、そしてついに、あこがれのセザンヌの「セザンヌ夫人像」を手に入れている。

ぼくは、セザンヌの画集で「セザンヌ夫人像」を見てはいるのだが、この絵のどこに興味を抱いたのかわからない。

で、スタイン女史は、この絵に着想を得て「三人の女」という作品を書いたというのである。一見して文学と絵画は、似ても似つかぬジャンルである。だが、スタイン女史にはおなじなのだと思ったかもしれない。「ジャンル横断」という、なにやら新鮮なイメージが湧いてくるじゃないか。

空間芸術である絵画の技法からインスピレーションを得て文字媒体による創作をおこなう。この手法は、しかしけっこうむかしからある。

モームの「月と六ペンス」はゴーギャンの生涯をなぞりながら、文学としての奥行きのある空間芸術をこころみている。そのパースペクティブのおもしろさを描いた。その発展した姿が「モダニズム」と呼ばれる運動である。

そこには絵画と文学の垣根が取り払われて、文学としての固有の限界を突き破る勢いがあったらしい。キュビストの画家たちが3次元の立体を展開図として平面上に描くことで2次元のカンヴァスの限界を打ち破ったように、モダニストの作家たちは言語そのものがもつ制約、――時間的継起にしたがって語るという――制約からのがれ、過去、現在、未来の時制を超えた語り方を展開した。

視覚芸術によって実現されている空間性というか、つまり同時性は、過去と未来をつなぐ絵にもなったわけである。

絵のなかにも時間的な過去をになった人物を描くことになる。

スタイン女史がセザンヌの絵に刺激されて「三人の女」という小説を描いたのは、そこに意味があると思われる。これはモダニストとしても実験的なこころみであるには違いないのだが、まさに、その彼女の影響下にあったのがヘミングウェイだった。

ヘミングウェイの文体は、これまでになかったスタイルである。

たとえば短編「ふたつの心臓の大きな川(Big Two-Hearted River)」は、センテンスはだいたい12語から成り立っているという統計的な分析がある。ひとつの動詞に、ひとつの形容詞。――それ以外は使わないという単文形式である。平均より10語以上多い文章は全体の12パーセントしかないといわれている。

いっぽう、平均より5語以上少ない文章は全体の43パーセントにおよぶという。また全体の73パーセントは単文で書かれている。この「単文」というのが彼の特長である。

実例をひとつあげてみたい。

 

The was no underbrush in the island of pine trees. The trunks of the trees went straight up or slanted toward each other. The trunks were straight and brown without branches. The branches were high above. Some interlocked to maks a solid shadow on the brown forest floor. Around the grove of trees was a bare space. It was brown and soft underfoot as Nick walked on it. This was the over-lapping of the pine needle floor, extending out beyond the width of the high branches.

盛りあがった松林の中には下生えが全然ない。松の幹はまっすぐ上へのびたり、たがいに傾きあったりしている。それらの幹は褐色の直線を描いて、枝をつけていない。枝はずっと上にあるきりだ。その枝の地面に濃い影をつくっている。林のまわりは地面がむき出しで何も生えていない。ニックがそこに踏み入ると、足の下は褐色でやわらかい。松の落葉が一面に散り敷いているためだ、そしてこの落葉は、高い枝のおよばない遠くまでひろがっている。

(谷口陸男訳)

 

この短いセンテンスを、たとえば2つつなげてみると、どういう印象になるだろうか、とおもう。――The trunks, which were straight and brown without branches, went straight up or slanted toward each other.としてみる。

原文との違いは一目瞭然である。

瞬間描写が弱まり、リズム感が破たんする。

その結果として文字から受ける字面の視覚的効果も失われることは明らかだ。

ヘミングウェイのもとの文章は、まるで絵画のように、ひと筆ひと筆、色のタッチが一文ごとに塗りこまれていることがわかる。ヘミングウェイがガートルード・スタイン女史の口を借りて出てきたセザンヌの絵の描き方とおなじ文章が、ここに出現しているようだ。ワン・センテンスごとに、絵のような情景が立ち上がってくる。

ひるがえって、スタイン女史の「セザンヌ夫人像」は、どういう意味を持っていたのだろうか? スタインのインタビュー記事のなかに、それを発見したのでご紹介したい。

「わたしのこれまでの作品はすべてフローベルとセザンヌの影響を受けて書いたものです。ふたりから影響を受けた結果、わたしは構図についての新しい感情を抱くようになりました。

以前は、構図にはひとつの中心的な主題があり、それ以外のものは、その中心的主題に付随するもの、いわばひとつのものと、もうひとつのものは同じぐらいに重要だと考えたのです。ひとつひとつの部分が全体と同じぐらい大切であると。この考えにわたしはひじょうに感銘を受け、あまりに感銘を受けたので、その影響のもとで《三人の女》を書きはじめました」といっている。

スタイン女史は、物語の時間的な叙述を、いまという瞬間的な描写のなかでとらえようとする。つまり、「永遠につづく現在(continuous present)」形のセンテンスを構築した、というのである。

ちょうど音楽的な効果と似ているかもしれない。

切れ目なく奏でる音響は、現在進行形としてすすむ。

こうしてみると、スタイン女史のいう絵画的な文章というのは、鑑賞する側の産物というより、創作者の産物としての意味合いが強い。

おびただしいセンテンスは、それらを絵の具のように塗りこめられたセンテンスであり、カンヴァスに置いた絵の具そのものといえるかもしれない。

ぼくにはよくわからないのだが、セザンヌの遠近法やぶりは、たんに構図においてというだけでなく、考え方においても、人間中心の視覚を通したままを描いている点である。「見たまま」「見たとおり」というわけである。

ヘミングウェイの文章でいえば、「彼は駅に向かおうとしていた」とはけっして書かない。「駅に向かって歩きはじめた」と書く。「彼女は悲しんでいた」とは書かず、「彼女は悲しんでいるように見えた」と書く。セザンヌ同様に、ヘミングウェイもまた神の目を通さないのである。この一歩は、永遠の一歩であり、偉大な一歩といえるかもしれない。

ふつう文章を書くとき、われわれは語数を数えたりしない。ヘミングウェイは簡素化した英語をさらに可能なかぎり単純化して書いている。韻文ではよく見られることだけれど、散文ではめずらしい。

さらに、行動と情動の区別さえなくなる。

たとえば、fine(ファイン)とかnice(ナイス)といった単音節語が文節のあちこちに見られる。「町はとても素敵(nice)で、われわれの家はとてもりっぱ(fine)だった」という具合に。

それと、初期の短編集「われらの時代に」では、語り手の口上である「there was」ではじまり、最後の短編では「there were」で終わっている。

むかし読んだ「武器よさらば」ではほとんどワン・センテンスおきにこうした形式をとっていたのを思い出す。そして、「there being」という少し厄介な構文を持ち出すのである。ふしぎなことに、動詞を動名詞形にすることで、ほんらい動きのあるものをカンヴァスの上に、動かないものに固定させてしまうのである。

その文章が巧みで、印象ぶかい。

ヘミングウェイは「彼らは戦った(they fought)」とか、「われわれは感じなかった(we did not feel)」と書くようなとき、「そこには戦いがあった(there was fighting)」、「そこには嵐のやってくる感じはなかった(there was not the feeling of a storm coming )」と書いている。こうすることで、感情を非個性化して暗示させる効果が生まれる。

「秋には戦争がつねにそこにあったが、われわれは戦争にはもはや行かなかった(In the fall the war was always there, but we did not go to it any more.)」という具合に。

この文章は「武器よさらば」のやや冒頭に出てくる。

主人公のフレディリック・ヘンリーの負傷したいきさつを記録したあとの文章に、勇敢にもはじめて負傷した傷に目をやって、「ぼくの膝はそこにはなかった(My knee wasn't there)」と書く。……

もう一度、読んでみたくなった。