子にえたら

 

デスクの上に置かれた握りこぶしほどの黄色い石が、何枚かの原稿用紙の上に鎮座している。

窓辺にはミズナラの葉っぱが見える。

葉っぱは、肉厚の波打つような鋭い鋸歯(のこぎりば)だ。ネコが揺れる葉っぱを手でじゃれている。京都から届いたばかりの一通の手紙が、デスクの上に置かれている。亜子は、京都に移って4年になる。

 

      

 

亜子が送ってきたのは、夏になるまえの去年の亜子の写真と、夫とのツーショットの写真だ。彼は京都が大のお気に入りのアメリカ人で、そこの大学の教授をしている。

教授に昇進したのは、ついさいきんのことだ。この4年、亜子がいなくなって、東京砂漠になったと手紙に書いた。彼女は京都に行ってから、運悪く道の側溝に落ちて、足をくじいたり、置き引きにあって、ハンドバッグを盗まれたりして、いいことが何もないといって手紙を寄越した。

それを読んだぼくは、慰めの電話をかけた。

「盗まれたって? それは京都人じゃないよね。京都人の風上にもおけないやつだな」

「外国人だなんて、考えたくないわ。それはいいんだけど、悲しくって」という。

「パスポートもなくしたの?」

「そうよ! マンションの鍵も、預金通帳も、カードもね。それも、ほんのちょっとしたスキなの。振り返ったら、ベンチにもうハンドバッグがなくなってたのよ。可愛い女の子の乗っている自転車が倒れちゃって、そのときよ!」という。

「だれかに、《おめでとうさん》って、いわれなかった?」

「なぜ、知ってるの? いわれた! ふたりに」

「やっぱりな」

「やっぱりって? 不幸な目にあって、そんなこといわれて、みんな、なんていう人なのかっておもったわ。そんな気になれないもの。京都の人って、意地悪だわとおもった。夫だけ、なぐさめてくれた。お父さんに電話すればよかったかしら? 心配するっておもったの」

「そうすればよかったのに。……ぼくも京都に支社があったので、京都人のことはよく知ってる。京都の人たちはね、悪いことがあれば、次は、いいことがある! そう考えるんだよ。だから、これからいいことが起きるといって、先まわりして、おめでとうっていうんだよ。ぼくにも経験がある」

「そうなんだ、知らなかったわ。だって、そうでしょ?」

「さいきん京都で、抹茶わらび餅食べた? 抹茶でなくてもいいけど、……」

「まだ」

「まだか。……」

「それって、おいしい? わらびって、おいしそうね」

「名前から想像すると、おいしそうだ。たしかにね。《赤ん坊の耳》と聞いて、おいしそうにおもう?」

「え? 赤ん坊の耳? なに、それ?」

「ベルギーだったかのスープに、赤いかぶらがぷかぷか浮いているやつさ。《尼さんのおなら》と聞いて、おいしそうだとおもう? 料理の名前で日本人は感じるんだね。もちろん、京都のわらび餅は有名だからさ。濃いグリーンの、トロンとしたやつで、そこにかけるてんさい糖はうまいんだ」

「お父さんは、京都で食べたの?」

「あちこちで食べたよ。なかでも京都が最高だな」

「だったら食べてみます」

「かける砂糖は、てんさい糖にしなさい。店にかならずあるから。わらびの味と合うからね」

「てんさい糖ですか。――食べたことないわね、たぶん」

「食べただろう。いつかの浅草の店、おぼえていない? ほら、お汁粉屋の店でさ。亜子が高校生のころだから、もうわすれちゃったかな」

「そうなんだ。知らなかった」

「京都の町家にはかならずある。中京区あたりだ。――こんどだんなと行ってみるといいよ。お父さんはね、子どものころ、北海道でビートを煮て甘味を食べていたんだ。それがてんさいなんだよ。さいきんビートっていっても知らない人が多いね。甜菜のことだよ」

亜子は自分の姪にあたり、東京ではただひとり血のつながった女の子だったが、彼女には父親がいなくて、自分が父親がわりになっていた。

亜子の母親はいつも忙しくしていて、大森で炉端焼きの店を出し、仕出し屋を経営し、人を使って、ひとりがんばってきた。母親は北海道には住んだことがない。彼女は沖縄の琉球舞踊をやっている劇団の家の生まれで、幼いころからびんがたを着ては踊っていたらしい。亜子は、そういう踊りには興味がなく、京都の外語大を出て、都内でОLを数年やり、大学時代の留学生とつきあい、結婚した。

ぼくは、しあわせな毎日を送っているだろうとおもっていたが、亜子は流産が二度もつづき、子どもができないからだになってしまった。それでも亜子は、自分が不幸だとおもっていなかったらしい。

それから数年して、夫に女性がいることがわかった。

おなじ大学の女性で、相手は長身のノルウェー人だった。彼女は講師として日本にやってきた。彼女もまた京都のすばらしさに圧倒され、町家から離れた古民家にひとり住むようになり、吊り床のある旧家に惚れこみ、ふたりはそこでしばしば逢引きを重ねるようになったという。

手紙には、それしか書いていない。毎日、楽しめない暮らしに憂鬱な気分でいると書かれていた。そして、ハンドバッグの置き引き事件。

ぼくは電話口でいった。

「こんど京都に行くよ。京都駅のなかにある《吉兆》で会おうよ」

「ほんと? きてくれるの? いつ?」

「そうだな、夏になる少し前になるかなあ」

ぼくは亜子に、嫌なことを忘れるなんてしないで、からだの細胞が喜ぶことをするようにといいたかった。このままでは、亜子はうつ病になってしまうかもしれない。まず、亜子と食事をしようと考えた。

古代ギリシアの人はこういった。「人は考える、なぜなら手を持っているからだ」と。考えるまえにすることがある。それは食事をすることだという。食事をしてから考えるとよこしまな考えから身を守ることができる。肚を落ち着かせる効果があるらしい。

日本のヌーベル・キュイジーヌ時代は去り、あたらしいネオビストロの料理を食べる時代になった。それを亜子にも体験させてやりたいとおもった。

そしてぼくは、ミズナラの葉っぱを見つめながら、亜子に手紙を書いた。

亜子は、「お父さん」にならって、けっしてメールなんかしてこない。封筒に切手を貼って送ってくる。それも手づくりの封筒なのだ。

封筒には、うっすらと京都の町家らしい絵が描かれている。その封筒には、香水の匂いが浸みこんでいる。こんな手の込んだ便りをする亜子が、30歳になっても可愛いとおもっている。

デスクの上に置かれた握りこぶしほどのごろんとした黄色い石は、よく見ると、白い筋が3本横ななめに走っていて、もしかしたら、何億年という時間をへてきた石かもしれない。花崗岩というべんりなことばがあるが、石の肌は、とても美しい。自然の光のかげんで、その色影が変化する。

亜子がこの石を手に入れたのは、鬼怒川へ行ったときのことだった。「これ、お父さんにあげる」といってくれたものだ。あのときの高校生の亜子の嬉しそうな顔を想いだした。