■バブルと資本主義経済の歴史。――

式会社初登場のころのランダがおもしろい

(服部龍二「高坂正堯――戦後日本と現実主義」、2018年)

 

 

ぼくはこれまで、高坂正堯氏のさまざまな著作を通して、約束手形の考案、近代のヴェネチア経済のなりゆき、オランダの資本主義経済誕生について学んできました。

オランダの世界初の「株式会社」誕生についての話は、駆け足でざーっと書いたに過ぎません。きょうは、その具体的な話をもう少し掘り下げて書いてみたいとおもいます。

株式会社のしくみを発明したのはオランダ人です。

世界初の株式会社は、1602年――慶長7年、徳川家康が江戸幕府をひらく一年前のこと。Vereenigde Oostindische Compagnie、(略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれています。アジアの支店は、現在のインドネシアにつくられました。

インドネシアは、オランダ語で「インドの東」という意味です。

当時そこは「マレー諸島」といっていました。そうして1602年、オランダの「東インド会社」が設立されると、世界のあちこちに支店ができました。イギリスの「東インド会社」と覇権を競いました。

はじめて会社組織にして貿易事業に乗り出したのはオランダ人でした。

「会社」の当初の取締役には代表者がいなかったため、72人という多数におよびました。のちに、執行機関である重役会(17人)を置き、会社は国家による特許制としたため、国の仕事も独占的にできました。

会社が行使できる国家的な事業としては、他国との条約をむすぶ権限、自衛のために戦争する権限、要塞を構築する権限、貨幣を鋳造する権限などがふくまれるところから、会社とはいえ、その機能は国家そのものだったといえます。

 

田中幸光。2000年、ぼくらは都心の文部官僚たちの街で、まるでかつてのオランダ人のように25人乗りの小さな小舟を操ってスタートしました

 

 

オランダの「東インド会社」は正式には「連合された東インド会社(Vereenigde Oost Indische Compagmie)」で、その頭文字のVOCを組み合わせた社章は、あらゆる場所、あらゆる器物、――たとえば大砲などにも刻印されました。

当時、日本の人口は、およそ1000万人。オランダは小国で、人口はわずか200万人にすぎず、ろくに資源もありませんでした。

オランダは貿易で食べていく以外に生きる道はなかったので、盛んに貿易を行ないました。

胡椒貿易で儲けたオランダ商人は、アムステルダムに集まって、共同して船をつくりました。

胡椒を輸入し、売上げの1パーセントを利益として受け取ることを条件に、仲間に投資を呼びかけます。

このビジネスは、最初は船が難破してあまり儲かりませんでしたが、その後おなじようなしくみを考えたオランダ人のグループのあいだで競争が起こり、6つのグループが合併して「東インド会社」ができました。

これが、はじめての株式会社です。

オランダの商人たちが設立した「東インド会社」は、オランダとインドネシアのジャワ島の両方に本拠を置き、インドネシアで手に入れた胡椒、紅茶、コーヒーなど希少価値のある嗜好品をヨーロッパに持ち帰って大儲けをしました。

インドネシアまでの航海には多額のお金がかかり、船が無事に帰ってくるかどうか分かりませんでした。

当たれば大儲けをしますが、船が難破すれば出資したお金は消えてしまいます。リスクがとても大きかったので、大勢の人間がお金を出し合って、リスクをそれぞれ分担し、ひとりではできない大きなビジネスのしくみを考え出したわけです。

出資する投資家は損を出しても、せいぜい出資額だけですみ、かりに首尾よく大儲けを出したら、巨額の分け前にあずかることができます、――つまり、有限責任のしくみが考案されたわけです。

当初は、航海が終わるごとに精算して、分け前を分配していましたが、やがて取引は継続的な取引となり、1回ごとに精算するしくみを廃止し、事業は継続することになりました。

出資した人間がじぶんの権利を売買できる流通のしくみとして、株式を発行して流通させる株式組織の会社につくりあげました。この結果、株式の持主が入れ替わっても、事業がつづけられるようになったわけです。

東インド会社は、その後の200年間で、出資したお金の36培という、とてつもなく大きな配当金を手にすることができました。――かりに100万円出資すれば、3600万円の儲けとなります。株主は、10年間株を売ることは禁じられましたが、10年後にはたっぷり利益が分配され、さらにつぎの10年間に出資する権利が与えられました。《リスクは小さく、分け前は大きく》というわけです。この株式会社のしくみを原型にして、複数の株式を複数の人間で分散して所有する投資信託が誕生します。

不動産投資信託(REIT)は、複数の不動産を複数の人間で分散して所有するしくみです。これを考え出したのもオランダ人です。このことが、ライバルであるイギリスの東インド会社を大きく引き離しました。

もとより、イギリスの東インド会社は、王立でしたから、現在の株式会社とは無縁です。オランダはこうして小国でありながら、アジアに30ヶ所の拠点を持つグローバルな存在となりました。オランダの東インド会社は、1796年(寛政8年)には政府の管理下におかれましたが、この間、4785艘の船をアジアに送り、イギリスの2690艘を大きく引き離していました。

オランダ商人は、やがて日本にもやってきました。1609年(慶長14年)のことです。

長崎の出島のオランダ商館は、東インド会社の拠点のひとつで、商館長(カピタン・甲比丹)は、その支店長というところです。よく知られているように、日本からは、金・銀・銅を大量に買いつけ、胡椒や紅茶、コーヒーとは違う巨額のビジネスが行なわれました。

しかし、日本人は、まだこの株式会社のしくみは、だれも知りませんでした。株式会社のしくみを最初に紹介したのは、福沢諭吉です。1866年に書かれた「西洋事情」においてです。

明治以降、福沢諭吉と渋沢栄一は、会社設立についてのテキストを発行して、積極的に起業することをすすめました。

明治維新によって、3000万人の人口のうち、約7パーセントにあたる200万人の武士が、とつぜん失業してしまったのですから、何か仕事をつくることが急務でした。

福沢の門下から経済界で活躍する人材がたくさん輩出しました。渋沢は財閥はつくりませんでしたが、さまざまな事業を残しました。第一勧銀、東京海上、王子製紙、清水建設、一橋大学、日本女子大学など、渋沢は生涯に設立した事業は500を超えます。

株式の売買は、1611年にアムステルダムの商品取引所で、さまざまな商品とともに売買されたのが最初といわれています。

そこは、証券取引所でもあったわけです。このような歴史を振り返って、いつも思うことですが、島国日本の、外界に目を向けなかった歴史がなんと長かったか、とおもいます。

日本がオランダの東インド会社の存在をちゃんと知ったのは、じつに200年後でした。

出島にオランダ商館をつくって、オランダ商人から世界の情報をかき集めていたとはいえ、幕府は、株式会社である東インド会社については、何も知りませんでした。日本の金、銀、銅が、世界最大の産出国であるデンマークの金、銀、銅の市場価格を、大きく左右していた事実も知りませんでした。日本はオランダのたくみな商魂にさえ気づきませんでした。

イギリスの東インド会社やフランス東インド会社も、オランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退し、イギリスはインド経営に専念することになります。

それよりもむかしのヴェネチア共和国経済の隆盛にあっては、日本人は驚くほど無知でした。「海国日本」と呼ばれながら、日本は海の経済にはほとんど無頓着で、一度も目を向けませんでした。

チューリップ・バブルが起きたころも、日本人は資本主義経済の名前さえ、知りませんでした。オランダで1637年に起こった世界最初のバブル経済事件です。

オスマン帝国から輸入されたチューリップの球根に人気が集中し、異常な高値がつきました。チューリップの1個の球根が、家1軒を建てるほどの価格に高騰します。

オランダの投資家たちは、家庭の奥さんまで巻き込んで、株券市場を大きくしました。配当金が投資額の36培にもなるのですから、だれも黙っていません。とうとうチューリップの価格が、とんでもないバブル価格となり、これ以上ない天井価格となって、1637年にバブルがはじけました。

1個の球根が1万ギルダーを超え、約3億円という値をつけ、バブルがはじけたのです。

資本主義経済になって、はじめて起きた最初のバブルの崩壊です。

いっぽうイギリスは1720年に南海バブル事件が起きましたが、ウォルポール政権下で、この経済国難を容易にかたづけました。

南海会社は、政府が貿易独占権をあたえる見返りに、国債を自社株に転換させるかたちで引き受けることになり、事業は、なんら成果がなかったにもかかわらず、南海会社の株価は異常な高値をつけ、1株が1000ポンドに高騰し、ロンドンのシティはアムステルダムに次いでヨーロッパ金融界の中心的な力をつけていましたが、それも見事にはじけました。

「資本主義経済」って、とてもふしぎだなとおもいます。

多くの人はバブルを嫌っているけれど、300年まえの欧州における投機バブル以来、たびたびバブルを体験し、ふしぎなことに、そのつど国の経済的な体力をつけて大きくなりました。資本主義経済のみごとな復活を見てきたわけです。

なかでも、オランダの巨大なチューリップ・バブルの崩壊は、歴史的な出来事でした。人類はじまって以来の大型バブルの崩壊。この投機熱は、はからずも資本主義経済の基盤をつくったのです。――以前もチューリップ・バブルの崩壊についてくわしく書いたので、きょうは、バブル崩壊後の世界を見てみたいとおもいます。

 

このチューリップ・バブルの崩壊は、とても奇妙な事件でした。

1636年11月には、一個のチューリップの球根が、平均的な労働者の賃金10年分の値段がついたのです。その上昇率もすさまじく、数週間で3培に値上がりしたことがわかっています。

それともうひとつふしぎなことは、この投機に参加したのは、金持ちだけでなかったことです。現金以外に、物納でもゆるされていたからでした。――たとえば、牡牛、豚、羊、ぶどう酒、バターなど、なんでもよかった。

さらには、取引き総額の頭金に相当する金額を用意すれば、決済するときに、儲けた金でやりくりすることができたので、画家もじぶんの絵を投機にあてることができました。ですから、小金を溜めているおかみさんたちも喜んでこれに参加することができました。売ったとき、元金の36培にもなり、投機熱がいっそう過熱します。そして最後には、その頂点でバブルがはじけたのです。

いかにもバカげた数字のようですが、これが真実の歴史です。

 

 京都大学教授だったころの高坂正堯氏

 

歴史に学ぶ話として、針小棒大にいろいろいわれていますが、このたび読んだ高坂正堯氏の「世界史の中から考える」(新潮選書、2010年)という本によれば、1630年ごろから、加熱するチューリップという商品に企業の実利的なチャンスを見つけ、さまざまな企業が誕生した経緯が書かれています。

この需要は、ますます増大し、やがて先物マーケットが誕生します。そこで、株式市場に見合う取引きマーケットが拡大し、売買契約書というフォーマットが生まれ、1635年ごろにはオランダ人の可処分所得が大きくふくれあがります。

そのころ、オランダだけでなく、多くの国で疫病が蔓延し、人が亡くなって人口が減少する傾向を見せていますが、ふしぎなことに、経済活動はこれまでになく熱を帯びてきます。この現象は、のちに欧州で絵画が投機の対象になっていったことと似ているかもしれません。

絵画とチューリップは、けっして同じではありません。

チューリップは絵画とは違い、うまく育てれば株をいくらでも増やすことができ、値のはる人気のある球根は、栽培していくらでも増やせることから、オランダ人は、一個の球根だけに目を奪われていたのではありませんでした。

栽培業者があらわれ、国内のチューリップ生産に拍車をかけました。

オランダはこうして、17世紀に世界最大の金融センターになりましたが、その中心的な組織は、1609年に設立されたアムステルダム振替銀行でした。この銀行ができたことで経済は大きく変わったのです。

しかし、西インド会社は融資を受けることができず、東インド会社に先を越されるかたちになります。アムステルダム振替銀行は、のちにアムステルダム銀行となり、世界初の為替取引銀行として知られるヴェネツィアのリアルト銀行に倣って設立されたものです。

それまで、多様な通貨が流通し、市場の混乱が日常的に発生していたので、これを打破するために設立されました。あらゆる種類の貨幣を預金として受け入れ、預金者への払戻しを法定換金率で換算した銀行通貨グルテンでおこない、オランダの通貨を安定させることに役立ったのです。

けれども、1732年ごろから東インド会社への貸付額の累積赤字など、しだいに経営状況が悪化し、のちにフランスがオランダを占領した際に、預金者が逃げ出して、1819年にとうとう倒産してしまいました。

しかし、1613年に「取引所」というものができ、ここであらゆる取引きがおこなわれるようになりましたが、現在でいえば、銀行であると同時に、証券取引所の性格をもっていました。

質実剛健なオランダ人は、きわめて質素な暮らしに耐えていましたが、彼らはこの「賭ける」ということの大好きな国民で、商船を送り出すために、多くの人びとから資金をつのり、この取引所を通じて、多くの商船が世界の海に羽ばたいたのです。

投資した資金は、うまくいけば儲かり、失敗すれば損をする仕組みですから、ひとりではできないことを、多くの人から資金を集め、事業を遂行することになります。

これを可能にしたのは、アムステルダム振替銀行のはたらきにあったといえます。その結果、多くの商船はインドやインドネシアを目指して送り出されたのです。100年におよぶスペインとの戦争に終止符が打たれたのは、1609年です。それは「休戦条約」と書かれていますが、その後スペインは衰退し、オランダの時代がやってきます。

この年は、オランダにとっては事実上の、スペインからの独立の年となり、ちょうどその年、日本との通商条約が結ばれました。日本との通商を、これほどまでに急いだのは、なぜなのでしょうか。

日本の金、銀、銅が欲しかったわけです。

多くの商船が、アジアの東インドを目指したのは、胡椒貿易が目的でした。

オランダ商船の多くは、胡椒貿易を目的に活動しましたが、ある商船は日本を目指しました。金、銀、銅を生産する日本に目をつけたのです。胡椒貿易と、金、銀、銅貿易を牛耳ったオランダは、破格の貿易高を示し、世界に君臨していたデンマークの金相場に大きな影響力を与えました。

この歴史は、ヴェネチア共和国の地中海の経済発展と合わせて考えると、たいへんおもしろいとおもいます。