ニュートンとケプラー
こんにちは。――ぼくはときどき短編小説を書いているのですが、人間の人体について思いをめぐらすことがあります。
「万物の尺度は、人間である(Man is the measure of all things)」といったのは、プロタゴラス。
「万物の尺度は、人間?」
人間がすべての尺度になっていることを、ぼくは高校生のときに知りました。
いわゆる「人間尺度命題」のことで、命題の「人間」は,しばしば人類という意味に置き換わります。
ほんらいは,個々の人間をさしていて,同一の事物,事象に対する感覚的知覚、ないしは判断,それは個々の人間によって異なるけれど,あるいは対立する可能性があるけれども、すべての判断の基準は,個々の人びとの考えるうちにある、と説いたわけです。
まあ、この考えに、若かったぼくは、えらく感動してしまったのです。
生まれたままの人の体が、いつまでもその形をとどめているのは、なんという幸せなことかとおもいますが、不幸にして、からだの一部が欠損したり、あるいは手足が曲がったままになったり、傷ついたりします。
ぼくの友人に、学生時代に輪禍にあい、唇を半分失いました。
彼は大学を卒業したばかりのころだったので、形成外科はまだまだ途上にあり、メンタル面のセラピスト制度すらなく、そのときの大きなダメージを背負ったまま、彼は生きるしかありませんでした。現在もまだまだこうした弱者にたいするちゃんとしたシステムはあるのでしょうか。
人間は、感情の動物といわれます。
いかにも感情の動物で、彼はおかしな顔をしてずっと生きてきたわけです。
大学を出ると、彼は通産省に入り、役人生活を終え、いまは広島で公益団体の理事をしているそうです。20年ほどまえに会った際に、ぼくは彼の人生がすばらしいものにおもえました。唇が半分なくても、いまは自信をもって生きているのだと知りました。
が、ぼくはそのときおもい出しました。
ニュートン 1689年のニュートン(ゴドフリー・ネラー画)
プロタゴラスのいう「万物の尺度は人間である」という、そのことばを。
日本では、一尋(ひろ)が単位となって、家を設計するときの基礎的な単位である180センチ=「間(けん)」という単位ができ、たたみや、窓枠・サッシ枠の寸法となっていきました。
西洋もおなじです。
ギリシャのパルティノン神殿がその規準となり、カノンがつくられていきました。ギリシャでは人間を八頭分して、美しさは人間の頭が身体の「8分の1」に近づけば近づくほど美しい、均整のとれた人体美をかたちづくると考えたわけです。
これは数学でいう幾何学です。比を使って表現したところがたいへんすばらしいとおもいます。イギリスには、スピリット・レベル(水準器)ということばがあります。人間の精神を測るというわけ?
それはそれとして、やがて幾何学は宇宙の物差しになりました。アインシュタインの「相対性理論」のなかに、なんと古典幾何学を持ち込んでいるところなどは、数学的にいっても、ひじょうに美しい計算法であるとぼくはおもいます。
ぼくはときおり小説を書くので、人間とはいったい何だろうかと、いつもごくごく自然に考えてしまいます。人間の内面というのは、数学的な解(かい)はなかなか得られないもののようです。十人十色で、まちまちです。つまり解がいろいろと存在するわけです。
ゲーデルの「不完全定理」でいうとおりです。
美は絵画にもなり、音楽にもなり、いずれも数学から出発しています。
音楽と数学がかつてはいっしょだったなどといっても、いまはだれも信じようとはしないでしょう。
しかしギリシャ時代には、いっしょでした。音楽は七進法の言語です。8で位があがります。
音楽は教会音楽として発達してきました。オラトリオ、コラールなど、バッハ音楽はキリスト教を中心にして、神に近づくための祈りのための音楽として作曲されていきました。「マタイ受難曲」は、その代表作でしょうか。
2進法のことばを最初に使ったのは、おそらくニュートンとライプニッツだったでしょう。
彼らは手紙でやりとりしていますが、秘密に属する内容だったこともあって、人が見てもだれにもわからないことばをつくりました。2進法でできたことばです。
数字とアルファベットでできています。これはやがてコンピュータ言語となります。現在のコンピュータ言語は、2進法と16進法でつくられています。
コンピュータの青写真をつくったのは、イギリスの数学者アラン・チューリングです。この人の名前が、かつてあまり知られていなかったのには、理由があります。1975年くらいまで、イギリス政府によって、エニグマの暗号を解読した人物として、国家の最高機密となって、彼の名前がずっと隠されていました。
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さて、もとにもどって、このような理由から、キリスト教的世界観は、近代科学が成長していく上で欠くことのできないものだったことがわかります。
ヨハネス・ケプラーは、とりわけ重要な位置を占めます。
もちろんガリレオやニュートンも、きわめて重要な存在なのですが、しかし彼らがもしあらわれなかったとしても、早晩だれかが彼らがやったような仕事をやり遂げただろうとおもわれます。
しかし、ケプラー以外の人に、ケプラーのような仕事ができたかといえば、決してできなかっただろうとぼくはおもっています。ふしぎなことです。
とりわけ、ケプラーが発見した惑星の運動にかんする3つの法則は、当時おそらくだれにも発見することはできなかったに違いありません。
ガリレオがイタリア人であるのにたいして、ケプラーはドイツ人であり、ガリレオがカトリックであるのにたいして、ケプラーはプロテスタントでした。
このふたりは、まったく同時代人であり、お互いに著書を送ったり、送られたり、手紙のやり取りをしています。ケプラーは、もともと牧師になろうとしてチューリンゲン大学に入り、神学と哲学を勉強しています。当時は大学を出ると、聖職者になるか、それとも法律家や医者になるか、そのどちらかでした。
ケプラーは牧師の道を選びました。
ところが、チューリンゲン大学でコペルニクスの「地動説」を教えられて以来、天文学に一生をささげることを決心します。
コペルニクスの書いた「天球の回転について」(英語訳では On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books 1543年)が出版されてからすでに50年ちかくたっていました。しかし地動説はかんたんには受け入れられていません。ケプラーは、教授からこの地動説を教わったのでしょう、
すると彼は、この説のすばらしさにすっかり魅了されてしまいます。
従来の地球中心説では、惑星の逆行のような複雑な動きを説明するために、地球を中心とする円運動のうえに周転運動を重ねるという複雑な体系を考えなければならなかったのですが、もしも惑星が太陽を中心に円運動し、地球も惑星のひとつとして太陽のまわりを円運動しているのだとしたら、地球から見る惑星の複雑な動きが、この単純で美しい構造によってみごとに説明されてしまうからでした。
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――つまり、宇宙という書物が、まさに数学のことばでみごとに読み取ってしまった瞬間だったわけです。
むかしから、惑星は目に見えないそれぞれの「天球」と呼ばれる球のうえに乗っかっていて、その「天球」が回転しているから惑星が回転するのだと考えられてきました。これとちょうど反対の考えをもつコペルニクスの理論的な説を、学生だったケプラーが読んで、今日のような太陽系という概念に近い考えに到達していったわけです。「ケプラーの3法則」は、つぎのようになっています。
第1法則(楕円軌道の法則)、――惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動いている。
第2法則(面積速度一定の法則)、――惑星と太陽とをむすぶ線分、その単位時間に描く面積は、一定である。
第3法則(調和の法則)、――惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。
まず先に、第1の法則と第2の法則が発見されて1609年に発表され、のちになって第3の法則が発見され、1619年に発表されました。
第1法則は、惑星の軌道が円ではなく楕円であるといいました。そして太陽の位置は、その楕円の中心ではなく、ある焦点のひとつであるとのべています。しかし、もう片方の焦点には何もないというのです。また、惑星の軌道が太陽を含む一平面上であることも暗示されました。のちのニュートン力学では、中心力の作用する2体問題の解として、束縛運動であるならば楕円運動になることが示されます。
楕円運動の発見のエピソードとして、当時、惑星の運動は円であると信じられていましたが、それにしたがわない火星のデータを、ティコ・ブラーエが困ってケプラーに担当させたため、という話が伝わっています。
第2の法則は、太陽に近いところでは惑星は速度を増し、太陽から遠いところでは惑星は速度を落とすとのべています。これは、惑星が軌道上を移動するときの面積速度が一定であることを意味しており、これを「面積速度一定の法則」と呼ばれますが、面積速度というのは、惑星の位置ベクトルと速度ベクトルの外積にほかなりません。そのため、ニュートン力学における角運動量保存の法則に相当した考えなのです。
第3の法則は、公転周期の長さは、楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味しています。楕円軌道の離心率に依存しないので、楕円軌道の長半径がおなじならば、円運動でも楕円運動でも周期は同じということになります。この法則も、のちのニュートン力学で正しく導くことができます。ケプラーの法則にしたがう運動を「ケプラー運動」といっています。
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ニュートンについては、あらためていうまでもなく、恐らくこんにちだれでも知っていることでしょうから、謎めいたものは何もありません。母親恋しさに、「死ね、死ね、死ね」とノートに書いた以外は。
ニュートンと神の出会いについては、よく知られています。
アイザック・ニュートンは、1642年のクリスマスの夜、ケンブリッジ北方80キロほどのところにあるリンカンシャー郡ウールズソープ村で生まれています。
一クォート(約1・14リットル)の木桶に入るほどの未熟児だったといわれています。
自営農の父親は3ヶ月まえに死亡していて、上流階級のジェントリー出身で聡明な母親(ハナ)は、半年間の新婚生活を送っただけで、乳飲み子を抱えたまま未亡人となります。
ニュートンの生まれた1年まえに力学の基礎づくりに貢献したガリレオ・ガリレイが死んでいます。
また5年まえに「方法序説」を著し、座標幾何学を創始したデカルトは、移住先のオランダで「哲学原理」を執筆中でした。3年まえには「円錐曲線試論」を16歳で著した神童の名をほしいままにしたパスカルは、フランスで史上初の計算機を製作中でした。
ライプニッツは4年後にドイツのライプチヒで生まれます。レンブラントの「夜警」がニュートン誕生の年に描かれています。
イギリス国内では、ピューリタン革命の内乱がちょうどニュートンが生まれた年からはじまり、国を王党派と議会派に二分する混乱が数年間つづきます。ジェームズ一世、およびその息子チャールズ一世の王権神授説を盾にした権力濫用に、国民が怒ります。
表面的にはイギリス国教会対ピューリタンでしたが、国教会を代表する王党派は、貴族のピューリタンを代表する議会派でジェントリーを中心とする新興市民層の利害と対立していました。
ケンブリッジ選出の国会議員オリバー・クロムウェルが議会派の主導権を掌握すると、戦況は一変し、クロムウェルはみずからの鉄騎隊を率い、ネーズビーの戦いで王党軍を壊滅させ、1649年にはチャールズ国王の首をはねています。
イギリス史上ただ一度の牙城であったけれど、それでも両派の小競り合いや民衆にたいする略奪が、ニュートンの時代に絶えませんでした。
それから15年ほどのちに、ニュートンは神のことばを研究し、神のことば、――すなわち数学で、月の引力を発見しました。それが「1666年の奇蹟」といわれる年です。