■ベル・エポック時代。――

リはえていた

 

 

エミール・ゾラのことばを借りれば、そのころ、「パリは燃えていた」。

むかしフックスという人の書いた「風俗の歴史」に、メゾン・ド・ランデブーの話が出てくる。早い話がつまり、素人売春斡旋所のこととわかる。

メゾンは、ごくふつうの民家の屋敷で、なりは街中に溶け込んでいながら、ひそかに男女の出会いの場を提供していたというわけである。

それが、人のあつまるパリのデパートの近くにあったというから、当局もその営業を認めていたということだろう。それも、メゾン・ド・ランデブーの近くに10年住んでいても、隣りの家で何をやっているのか見当もつかなかったと書いてある。

19世紀のベル・エポック時代、パリはふしぎな街である。

大革命とその後の混乱時代、ナポレオンの登場と敗北、そして普仏戦争とパリ・コミューン、やがてパリは壊滅状態となる。そういうさなかにあっても、メゾン・ド・ランデブーは繁盛をつづけていたようだ。

まさにパリは燃えていたらしい。

バルザックは書いている。

「王冠をいただくこの都市は、豊満な肉体をもち、心におさえきれない激しい欲望をいただく女王なのだ」と。「霊感で充満し、人類の文明をみちびく頭脳であり、偉人であり、不断の創造をつづけるアーティストであり、透徹した見通しをもつ政治家なのだ」と。

アセチレン・ガスの毒々しい灯りが夜景を彩り、そこに群がる男も女も、やけに楽しみをむさぼるかのように、一夜のアバンチュールを求めて蛾のようにやってくる。

むかしぼくは、バルザックの小説に夢中になったことがある。

仏文学者の飯島耕一氏に出会ってから、バルザックのおもしろさを知った。「快楽は死を征服する」というわけである。平和がよみがえったベル・エポックのパリはまさに人生讃歌の完熟期だったというわけである。

その時代は、金と地位にとりつかれた時代だった。

社会の変遷は、人びとの価値観さえ変えてしまう。19世紀のブルジョワは金持ちになったが、浪費は悪徳と見なされた。つまり、放蕩と浪費は貴族のすることであり、労働と貯蓄はブルジョワのすることと見なされた。その結果はご存じのように、貴族の敗北となった。

ああ、じぶんは貴族でなくてよかった! とおもった人が多かったかもしれない。

いっぽう金もないのに、金を借りて、しこたま浪費をした人びともいた。その代表的な人物といえば、さっきのバルザックである。彼は終生、借金地獄にいながら、名作を描きつづけた。

しかし、彼には10指にのぼる愛人遍歴をくり返し、女の尻を追いつづける人生をあゆんだ。なかでもベルニー夫人から4万5000フランも借金をし、返す見通しがなくても彼はいっこうに平気だった。彼女から催促されたことは一回もなかった。えらいのは、夫人が亡くなるまで14年間も彼女を愛しつづけたことだ。

 

イタリア人画家モディリアーニの「肩越しに見る裸婦」

ベル・エポックの文化・風俗といえば、パリのモンマルトルのキャバレー「黒猫(シャ・ノワール)」、「赤い風車(ムーラン・ルージュ)」と相場がきまっているかのようにいわれる。それは事実ではあるけれど、ロンドンの「ミュージック・ホール」のほうが、パリのキャバレーよりも早くお目見えした。

ロンドンのミュージック・ホールの起源は、資料によれば1843年の「劇場法」によってつくられたという。

それまでのパブはお酒を提供するだけでなく、ちょっとした芸能を見せることも多かったらしい。この法律制定以来、大衆芸能はミュージック・ホールと姿を変え、独立することになったという。それが1870年代には300を数えたそうだ。

料金も安く、1階のホールが2ペンス、2階の桟敷席が4ペンスというから、お手ごろな値段である。

いっぽう、「パレス・オブ・バラエティ劇場」の入場料は、大衆席で3ペンス、特等席はその82倍の1ポンド6ペンスもした。

劇場型のミュージック・ホールは、2000席を誇っていた。イギリスはむかしからこの劇場にはなじみがあり、シェイクスピアの時代から芝居小屋がいろいろお目見えしている。

ミュージック・ホールが繁栄した世紀末のイギリスは、帝国主義の真っ最中だった。それが国威高揚の場となり、それは大英帝国の産物として生まれたといっていい。

作家ジョージ・ムーアも書いているように、かつてルネサンス時代に人びとが陽気に演劇を楽しんだように、ベル・エポック時代のイギリスの人びとも、人生を愉しむことを知りはじめたのである。

あの高級ホテルの「リッツ・ホテル」も、しばしば「妻からのがれる場」、「浮気をかくす場」として利用され、昼間は「ラブ・ホテル化」した。そのころのイギリスの「ナイト・クラブ」は、いかがわしいクラブだった。ナイト・クラブとはいえ、実態は売春組織であったと書かれている。

ほんまかいな!

のちにできた「サパー・クラブ」も「ミッドナイト・サパー・クラブ」も、実態は「ナイト・クラブ」と50歩100歩。

ある日ぼくも、うわさを聞いて、新宿の某「サパー・クラブ」に足を踏み入れたことがある。椅子もない、赤じゅうたんを敷き詰めた床に、女たちが長い脚をのばして、談笑していた。ぼくがそこにやってくると、ひとりの女がぼくの手を引っ張って、床に座らせた。

「お飲物は、何を?」

と女はいい、メニューを広げる。

適当にオーダーする。レモンスカッシュか何か、ふたりで飲んで、ちょっとおしゃべりして、女はどこかで、食事をしたいといった。これが、夜を共にする合図だった。なんというお手軽な! とおもった。ものの30分で女をゲットしたわけだが、銀座のトリスバーで、何回も熱心に口説いて、やっと手に入れた女とはケタ違いに安い。

本場の「ナイト・クラブ」には、かならす休憩をするシテイング・アウト・ルームというのがあり、男女のささやきは、そこでおこなわれる。まあ、日本のサパー・クラブは、そのシテイング・アウト・ルーム(休憩室)のようなもの、といえかもしれない。

そのころのフランスの小説には、貧乏なお針子がよく描かれる。

たとえばウージェーヌ・シューの「パリの秘密」には、貧乏なお針子の娘が登場し、じゃがいもとミルクだけの食事をし、着る物にはできるだけ気をくばり、精一杯のおしゃれをして街に繰り出す。それが唯一の彼女の愉しみなのだ。

パリ人は階層を問わず、「趣味(グー)」にはうるさい。

そこに、「シックchic」という言葉と、「エレガンスélégance」という2つの言葉が出てくる。

貴族階級の追求した美の様式、それはエレガンスなのだ。庶民の追求したおしゃれは、シックなのだ。

この「パリの秘密」という新聞小説は、あのバルザックもドストエフスキーも嫉妬させたという名作で、ぼくは近年、小倉孝誠の書かれた労作「《パリの秘密》の社会史」という本に、ひじょうなおもしろさをおぼえる。

ロシア人がパリに亡命した20世紀初頭、そして世界のあちこちからやってきた1920年代は、祖国を捨ててパリにやってきたアーティストばかりだ。舞踏家のニジンスキー、ストラヴィンスキー、イタリアのモディリアーニ、ポーランドのキスリング、ブルガリア人のパスキン、日本人の藤田嗣治たちだ。

のちに彼らは「パリ派」と呼ばれるようになった。

イギリスからやってきた作家ヒューバンド・クラカンソープは、セーヌ川に身を投げて自殺しているし、パリにやってきたボヘミアンたちも、あのリルケも、パリのカルチエ・ラタン地区に足をのばし、モンマルトルは、ベル・エポックのパリを象徴する地域となった。

かつて、そこは敬虔な僧侶たちが入植した「殉教の丘」なのだ。

そのモンマルトルの歴史を一変させたのは、ロドルフ・サリという画家である。

ぼくは彼の絵を見たことはない。

彼はブランデー製造業者の息子で、画家としてのアトリエを、なんと「芸術酒場」に変えてしまったのである。1881年11月18日に店は開店した。

するとシャンソンが歌われ、政治の話が飛び交い、音楽はピアノ演奏となり、詩人たちは自作を朗読するステージともなり、カルチエ・ラタン地区の魅力がなくなったころ、みんなここに集ってたちまちキャバレー化してしまった。

それがのちに、「黒猫」と呼ばれる店になったのである。

シャンソンの歌の歌詞も、ブルジョワなどをやっつける、当時の権力者たちを批判する歌となり、歌えば歌うほど喝采を浴びる場となった。

 

 犬も残らずしょうべんを引っ掛け、

 おまえらのつぶれた赤ら顔に

 マッカール銃の弾を食らって

 倒れたおまえらの腐肉に!

 

と歌われ、パリの正当な娯楽に飽き飽きした連中は、こぞってこの店に繰り出したという。「黒猫」の人気はかなりのものだったようだ。それからというもの、「赤い風車」、「大使」、「黄金境」、「葦笛」、「日本の長椅子」、「深夜族」、「にくまれ口」、「天国」、「地獄」……などなど、キャバレーが目白押しにできた。

「日本の長椅子」というのは、ちょっとわからない。

「黒猫」が閉店したのは、1897年2月で、それも賃貸借契約が切れたことと、オーナーのサリが病気になったことだった。閉店して4週間後、彼は死んだ。

少なくとも、1960年代には、まだ日本にもキャバレーがあり、銀座の雨降るビルの麓で、東海林太郎さんとならんで、いっしょに雨宿りをした愉しい夜もあった。そういうときでも、彼は直立不動の姿勢だったことを想いだす。

大学では、古賀政男指揮でマンドリンを弾き、御茶ノ水の楽器店でギターを手に入れ、こんどは古賀メロディーを弾いていた。新富町界隈では、柳のふちを人力車が通り、夜の芸者たちの姿を見ながら、ぼくは京橋小学校のプールのそばで、ひとりヴァイオリンを弾いていた。

米海兵隊員が数人やってきて、

「銀座はどこか?」ときいた。

「ここが銀座だ」というと、

「ちがうだろ!」と、ひとりは吠えた。

そうだ、銀座通りはこの先、5ブロック先! というと、彼らは喜色をうかべて、夜の銀座通りにむかった。

そばで旗屋を営む主人がいて、たばこを吸いながら、ぼくのヴァイオリンを聴いてくれた。そうした夜、銀座のエレベーター・ガールとのデートを楽しんだ。彼女はぼくの愛人ではなかったが、彼女のほうが、ただちょっと、寂しかっただけだ。

それが、ぼくのベル・エポック時代である。

 

※そうした話は、山田勝氏の「回想のベル・エポック 世紀末からの夢と享楽」(NHKbooks  平成2年)と、「世紀末の群像――イエロー・ブックと世紀末風俗」(創元社、平成6年)にたいへんくわしく書かれている。ありがたく参考にさせてもらった。