■「英和辞典うらおもて」秘話。――

足欣四郎さんと「Calender」の話など

 

きのうの夜、寝るまえに忍足欣四郎さんの「英和辞典うらおもて」(岩波新書1982年)を読んでいて、なつかしくなった。この本は、昭和57年、じぶんが胸椎のがんで入院し、病院のベッドの上で読んだものである。あれから、41年が過ぎた。

自分は当時、39歳だった。

その本は感動して読んだ。

辞典編纂で名をなしたサミュエル・ジョンソンの話がおもしろかった。ある伯爵にあてた資金援助の断り状が紹介されていて、辞典をいよいよまさに上梓する寸前になって、「援助」の申し出をしてきたという後援者に差し出した断り状である。

「閣下、後援者(パトロン)とは、人が水に落ちて必死にもがいているときは、素知らぬふりをし、いったん陸にたどりつくと、おせっかいにも助けてやろうとするような人間ではございませんでしょうか。閣下が私の労苦を早くお認め下さいましたならば、それはご親切というものでございましょう」と書かれている。

 

 

田中幸光

 

資金不足で困っているときには門前払いをくわせたくせに、いよいよ出版のめどが立ったというウワサを聞きつけると、ようやっと、「援助しよう」といい、推薦文も書いてあげようというわけである。彼はその申し出を丁寧に断ったというのだ。

そうしてできたジョンソンの辞典は、あまりにも有名である。辞典といえばジョンソンの辞典を指すくらい名が知られるようになった。

その忍足欣四郎さんの「英和辞典うらおもて」も、40年にもなると、本はくすんでくる。

シミもあり、ページのあちこちが汚れている。人間とおなじだなと思う。40年前に読んだ本は、札幌に置いてある。傍線や書き込みがしてある。

手元にあるこの本は、平成4年に、上京して間もなくどこかで手に入れたものである。

忍足欣四郎さんは、「岩波新英和辞典」(1981年)の編纂責任者だった。

彼はそのとき49歳。自分は39歳だった。彼は東京教育大学の教授だった。

そこで、辞典編纂者の苦悩というものを知った。

この方は中世英文学を専攻する学者で、中島文雄先生の弟子のような存在だったとおもう。もともと辞典編集の分野で活躍した人ではないらしい。岩波英和大辞典(1970年)の仕事で、1958年ごろから参加した人であるらしい。

そういうわけで、この人の文章に接し、自分は英語のむずかしさを思い知った。辞典などあてにならないというくだりを読んで、ほんとうにそうだなと思ったものである。――そんなことをつらつら思い出しながら、眠くなるまで読んだ。

――手元にいつも置いている英和辞典は、1965年に出た研究社の「New English-Japanese Dictionary」である。この辞典は市川三喜が編纂したものである。その後いくどか改定されているが、この辞典のほうがずっと見慣れているためか、かたわらにずっと置いている。成句の訳文は、このふるい辞典のほうがなじんでいる。

岩波文庫のシェイクスピアの「ハムレット」は、市川三喜訳だったこともあって、学生時代、この人の名前によくお目にかかっていた。また「英語青年」にも何か文章を書いておられた。時代をつくっていったお偉い先生方は、つぎつぎに亡くなられ、鬼籍(きせき)に入られた。

Stone dead hath no fellowということわざがある。

「石は死して仲間なし」。――これを日本語になおせば、「死人に口なし」ということになるのだろうけれど、しかし、こう訳すと意味は微妙にずれる。――こういうことばは、けっこうおもしろいと思う。その意味がずれるところが、なんともはがゆい。切歯扼腕(せっしやくわん)。隔靴掻痒(かっかそうよう)なのである。……だから、辞典など、あてにできないというわけである。

自分がなぜ、こういうことにこだわるかというと、ほんらいの語義がずれるからである。忍足欣四郎さんの文章を読んでいて、その正確無比な文章に感動した。冷徹な文章である。そのなかで、多少の瑕疵を発見し、自分は岩波書店へ手紙を書いた。

忍足欣四郎さんはしきりにOEDをすすめておられる。

世界最高の英語辞典である。全20巻。

近年、これにはありがたいことに図版が載っているという話だ。じぶんは東京・港区の図書館で、このOEDにけっこうお世話になった。ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」の翻訳をめぐる原稿を書いていたころだった。ページをくり、その文例の豊富さにびっくりしたものである。

「キス(kiss)」の項目は、20ページぐらいにわたって解説されている。作法までいろいろと書いてある。

むろん、女王陛下の足元にキスをするやり方など。……船と船がちょんと触れるのもキスならば、ビリヤードの玉と玉がちょんと触れるのもキスなのだ。

多種多様なキスがあることを知った。創作のヒント、比喩のヒントはいっぱいある。読めば読むほど、人生をたのしくさせるもののようだ。全巻を読むほど、人生は長くない。

OEDの「Dictionary」の項を見ると、「人生は、われらが辞書である(Life is our dictionary)」という文章が目についた。自分が経験したことは、そのまま自分自身の辞書になるというわけである。そのとおりだなと思った。

自分が学生のころ、英和辞典はけっこう出ていた。当時、ベトナム戦争がはじまって、見慣れない軍事用語がふんだんに新聞に登場していた。インターネットのない時代、それらの語を辞典に網羅しきれずにいた。だから自分は他の辞典を見てしらべた。それにも載っていなくて、軍事用語辞典などを見ていた。

ははーん、そういうことか、といちいち納得しながら英字新聞を読んだりした。

辞典というのは、たった一度しか使われなかった語まで、ちゃんと載っているので、けっこうおもしろいと思う。出典も出ている。いつ、だれが書いたのかがわかる。だからといって、それらの語を覚えようとは思わなかった。

忍足欣四郎さんの本には、そういうエピソードがいっぱい書いている。

「青銅の腸をもった亜種」homo lexicographicusということばがあり、このことばは、「オクスフォード英語辞典」(全20巻)の「新補遺(1972年版)」に載っている。

これは「ニューヨークタイムズ・ブックレビュー」の1972年11月26日号に載った記事で、「辞書編纂家は、どんなに特殊な言葉だろうと、どんなに不愉快な言葉だろうと、次々に呑み込んで消化しなければならない」と書かれている。辞典をつくる人はたいへんな苦労をしているのだなと思う。

作家としても有名なアンブローズ・ビアスの「悪魔の辞典」を見ていて、その「引用(quotation])」の記事に、こう書いてある。「他人の言ったことを不正確に繰り返すこと、不正確に繰り返した言葉」とある。この「悪魔の辞典」は、辞典として有用であるばかりでなく、読み物としてもおもしろい。

ヨーコが帰依している教会から毎年カレンダーが送られてくる。

それはいいのだが、そのカレンダーには、「Calender」と書かれている。これは「Calendar」の間違いではないかとヨーコにいったことがある。まさか中世英語を採用しているとは思えなかった。

去年の暮れにもおなじCalenderが送られてきた。けっして「ツヤ出し加工」なんかじゃない。

そういえば、イギリスの大詩人、エドマンド・スペンサー(1552?-1599年)の処女詩集に「羊飼いの暦うた」という作品がある。このタイトルは「Shepheardes Calender」である。彼はケンブリッジ大学在学中に、イタリアのペトラルカのソネットなどを翻訳している。もともとの英語は「Calender」だった。

ニュージーランドのクライストチャーチは、いつか大地震に見舞われ、たいへんな被害を受けたことがあった。自分が学生のころ、クライストチャーチ市に住んでいたバーバラ・ウォーレンという女性と文通していたのを思い出す。彼女もまた、カレンダーを送ってきた。彼女の手紙には「Calender」を送りますと書かれていた。こっちのほうは、たんなる間違いだったかもしれない。

――そんな話をしてから、別の日に、別の人に膝の話をした。

「《膝にのせる》ということばがあるけど、膝になんか物をのせられない。のせられますか? 赤ん坊を膝の上にのせるといいますが、あれは膝じゃないですよ」とぼくはいった。

しかし慣用句としていまも使われている。友人は「なるほど、……」といったきり、うなってしまった。

「《コンサイス・オクスフォード辞典》をつくったヘンリー・ワトソン・ファウラーという男は、序文にこんなふうなことが書いているそうですよ。――だれもが一日に何回も何回も使っている平凡なことば、だれにでもわかるので、語義の説明をかんたんにすましてしまう。

ところが、それは、ほかのことばと協調し合ったりして、かんたんではないんですよ。そういうことが書いてあるそうですよ」と彼はいった。友人はかつて高校の英語の教師をしていたが、いまはリタイアして、本ばかり読んでいるらしい。ときどき彼とサミュエル・ジョンソンの話をしている。

たとえば動詞は予期せぬ働きをして、ときに面食らわせるという。

「set off引き立てる」と「set out」はほぼおなじ意味だが、give upは「あきらめる」、give inは「屈服する」、give overは「譲る」という意味だし、辞典を引かなくてもだれでも、偏と旁であらわす漢字の表現に似ているところがある。偏を部首とする漢字は、すべての漢字の過半数を占めている。

ところが、こんなかんたんに見えることばが、コンサイス・オクスフォード辞典では語義の説明は、なんと1ページも当てられて詳しく書かれている。語義の定義は20を超えるのだ。

たとえば「何かをput outする」というのは、たとえば火を消す、(肩の関節)をはずす、「だれかをput outする」のは、人をいらいらさせることだし、不都合を起こしたり、競争相手を卑怯にも競技からはずすことにもなり、患者の意識を失わせることにもなる。はたまた人が「put out」するというのは、貞操のタガをゆるめたり、身持ちのわるい、性にだらしのないことを意味したりする。その他、さまざまな定義がえんえんと書かれているそうだ。

しかし友人とぼくは、あることで意見が一致している。

「ジョンソン辞典」は、たんなる辞典ではなく、あれは芸術作品であるという点でだ。彼の語義の定義はなにしろ吹き出したくなるほどすばらしい。詩人としてのジョンソンは、辞典づくりにおいてもじゅうぶんに発揮された。

「to hiccoughしゃっくりする」は、「胃の痙攣とともにむせび泣く」ことであり、「embryo胎児」は「胎内で未完成の子」であり、「thumb親指」は「短くて強い指で、他の4本の指に答えている」と定義している。「uxorious恐妻家の」は、男は「夫婦間の溺愛という病毒に冒されている」ことなのだそうだ。

「backbiter陰口をたたく人」は、「こっそり誹謗する人、その場にいない人を非難する人」。「ガヴェストン」、これは人名なのだが、いろいろ書いてあって、最後に「とかくお追従をいうしか脳(のう)のない卑劣漢」と定義している。ここを翻訳した文章は「能のない」ではなく「脳のない」と書かれている。辞典を翻訳するのだから、まちがいは極力避けたいが、この場合、あえてそうしたとも読めておもしろい。

文豪ジョンソン(Dr Samuel Johnson 1709-84年)は、たいていドクター・ジョンソンと呼ばれている。「ジョンソン辞典(A Dictionary of the English Language 1755年)」を出した人として知られている。

ジョンソンの辞典は文学界に多大な影響をおよぼし、当時Dictionaryといえば、ジョンソンの辞典を指した。当時庶民が使っていたことばは乱れていて、ジョンソンの辞典に載っていることば以外はだんだんと使われなくなった。それほど画期的な辞典だったらしい。

こうもいっている。

「可愛い女の子と1時間いっしょにいると、1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。(When a man sits with a pretty girl for an hour, it seems like a minute.But let him sit on a hot stove for a minute - and it's longer than any hour.That's relativity.)」といった。

「出ましたね、相対性が、……」と友人がいった。

「そういう意味では、相対性は非常識から生まれた?」

「そいつは、おもしろい!」と友人は賛美した。

のびやかに暮れていく2024年2月1日は、能登地震のままならない復興の掛け声を聴きつつ、静かに暮れていく。