リーの「インド艦隊」

マシュー・カルブレイス・ペリー

 

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年-1858年)についてすこし考えた。アメリカが世界政治に向けて台頭する前夜、なぜアジアにやってきたのかを考えてみた。

ニューヨーク。――1851年、その初秋の海は、潮風に吹かれていた。

ハドソン川を遡ると水面をすべるように入港する。船体は黒く塗られていた。全長101フィート(約31メートル)、排水量170トン、2本マストのスクーナー船だった。正式な名称は「アメリカ号」を名乗った。

1851年8月22日、第1回万国博覧会の記念行事としてロンドンで開かれたヨットレース。そこに招待された「アメリカ号」が、予想に反して優勝してしまった。ハドソン川を優勝凱旋する姿は凛々しいものだった。そこに海軍大佐マシュー・カルブレイス・ペリーがいた。

彼はもう57歳になっていた。晩年といっていい年になっていたのだが、そのペリーが、その後、「黒船」に乗って日本にやってくるのである。

黒船来航については多くの本に描かれており、ここでは省略するけれど、ペリーが、中国寄港を蹴って、日本に向かった理由をいますこし考えてみたい。

ここに、米国務長官ウェブスターとペリーの会話がある。

「現にアメリカ号は勝ちました。昨年はわれらがオリエンタル号が、イギリス-上海間の航海日数で97日という、どんなイギリス船をも上回る新記録を出しています。ぎゃくに今こそ、イギリスを打ち負かすときではありませんか!」

「かんたんにいってくれるね、ペリー大佐」

「かんたんです。われわれには勝利のカギが与えられております」

「勝利のカギだと?」

「それは、ニッポンです」

アメリカの東インド艦隊を指揮したオーリック司令官は、インド以東のアジアを管轄するために、アメリカ船の寄港地開設を命じられていたが、出発したきり、何の音沙汰もなかった。何の成果もあげられなかったことが発覚し、オーリック解任が正式に発令された日、ペリーは電報を受け取った。

とり急ぎワシントンの海軍省に出頭すると、「東インド艦隊を指揮せよ」という辞令を受け取った。妻ジェインにたずねられると、肩書としては東インド艦隊だが、「実際の遠征先はニッポンだ」といった。

ペリーが日本にこだわる理由は、いったい何だったのだろう?

 

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サスケハナ号。

サスケハナ号は、アメリカ合衆国海軍のフリゲート艦。ポーハタンは準同型艦。黒船来航時、旗としてマシュー・ペリー提督が搭乗していたことで有名。船名は、主にペンシルベニア州を流れるサスケハナ川から取られた。サスケハナは、インディアンの言葉で「広く深い川」を意味している。 この艦はサスケハナの名がつけられた最初の艦で、その後第一次世界大戦時、第二次世界大戦時それぞれに「サスケハナ」の名がつけられた艦が就役している。

 

いにしえの史書には「黄金の国ジパング」と書かれている。

文字通り金を産出するらしい。

このジャパンという国を、中国向けの寄港地にすることができ、なかんずく石炭と水の補給を受けられるようになれば、理想的な太平洋航路が開かれるのである。イギリス-上海間が97日ならば、ニューヨーク-上海間はわずか25日という計算になる。

カリフォルニア-上海間ならばもっと短い。

日本さえ押さえられれば、イギリスに勝つことができる。ペリーはそう考えた。

イギリスは、目下のところ、インド洋航路には日本を必要としていない。だが、アメリカにはぜひとも必要な国である。

そのうちに、アヘン戦争で勝利したイギリスだが、日本に関心を向けはじめた。イギリスとアメリカの共通する関心は、日本近海の捕鯨に深くかかわるからだった。クジラを追いかけて、いったいどんな意味があるのだ?

それは、日本側から見た中国戦略の盲点だった。

アメリカ側に目を転ずれば、アメリカは、灯火用、工業用鯨油の需要が急激に高まっていたからだ。乱獲が原因で、大西洋にはじゅうぶんな捕鯨が得られなくなっていた。油がなくなれば、工場を稼働させることはできない。都市も村も、真っ暗闇となる。

クジラの供給を安定させるには、日本がカギになる! それはだれの目にもあきらかな喫緊の大問題として差し迫っていた。

そのころ、日本における先達であるオランダの協力を取り付けることが急務だった。

ペリーは1852年、フィルモア大統領の国書をオランダ政府に送付させ、アメリカの日本遠征計画をつたえ、これを成功させるために正式な協力要請をおこなった。オランダ政府はこれを受諾した。

ブルックリンの海軍基地、東インド艦隊司令官ペリー大佐の部屋には、民間の日本関係資料が山積みになっていた。そのなかにはマルコ・ポーロの「東方見聞録」もあった。やがてオランダ政府が国外持ち出し禁止の資料もあつまってきた。

オランダ政府は素早い対応で、在バタビア東インド総督に、アメリカ人の便宜をはかるようにと伝えたことがわかった。長崎の出島の商館にもこれが伝えられ、アメリカ艦隊を迎える準備がすすめられていることもわかった。

そのころの日本政府は、オランダと清国以外の立ちよりを認めていなかった。オランダの協力があっても、日本政府がアメリカと条約を締結するとはかぎらない。

オランダといえども、日本と正式な国交を樹立したわけではない。国交樹立という点では、オランダとアメリカは一線に並んでいる。ペリーはそう考えたのである。

長崎にどうやって入港するか。

――多くのアメリカ人は考えたにちがいない。

だが、ペリーはちがった。

オランダのウラをかき、日本の首都エドに直接入港する。浦賀水道を突破して、エドにいたる湾内にどうやって入港するか、それを考えていた。

ペリー司令官の卓上には、戦艦11隻、乗組員総数2000人、艦載砲200門を超える数字が書きこまれた書面ができあがっていた。ケネディ海軍長官は、これを見てうなった。

「戦争する気かね?」

「いいえ、そうではありません。じぶんが指揮したメキシコ艦隊のほぼ半分でしかありません。オランダはアメリカ艦隊の流言を勝手に吹聴しています。《戦艦10隻を超す大艦隊》だと。だからやるのです」

じぶんたちが有利な条約を結ぶために、オランダも日本を脅している、とペリーは読んだのである。これには蒸気船3艘、――サスケハナ号、ミシシッピ号、プリンストン号の3艘が含まれる。

「帆船ではダメです。日本遠征だけは蒸気船でなければならない」

「日本を威嚇(いかく)する気かね?」

「そのとおりです。威嚇します」

そのときペリーの頭のなかに去来したのは、アヘン戦争でイギリスの蒸気艦船が見せた活躍だった。それはすばらしいものだった。だが、ウェブスター国務長官との面談の際、日本政府と交渉する権限は、ペリー司令官に与えようとは考えていなかったらしい。

「ペリー司令官、これだけは忘れてほしくない。貴君は全権代表とはいえ、あくまでも軍人であり、外交官ではないのだ。国務省としては異例の事態と理解してほしい」と。

1852年11月、ペリーはヴァージニア州ノーフォークに移動し、チェサピーク湾を眺めたとき、そこに西インドから帰還したばかりのポーハタン号が停泊していた。ポーハタン号は蒸気船である。海軍省の正式な認可がおりる前に、ポーハタン号を日本遠征に組み入れることを考えた。

そして同月24日、ペリーはノーフォークを出港した。そのまま針路を東にとり、大西洋に漕ぎ出した。

ポーハタン号は、準備がととのい次第、後追いさせて、出港させることにした。艦隊の旗艦となるサスケハナ号その他数隻は、東インドを航行中であり、香港で合流させることにした。

だが、艦隊出港となっても、見た目にはミシシッピ号ただ1隻で、さびしいものだった。

ノーフォーク港での見送りも、これといって式典がおこなわれることもなく、メディアの記者団が詰め寄るわけでもなく、桟橋で手を振ってくれたのは軍関係者だけだった。フィルモア大統領や、ケネディ海軍長官はアナポリスまでは姿を見せたが、それきりだった。

ウェブスター国務長官は、10月24日に急逝していた。

多くのアメリカ国民の関心は、つぎなる大統領選挙に向けられていた。

多くの国民は、日本遠征にはほとんど無関心だった。次期大統領ピアースが日本遠征をどう考えるか、ペリーは気を揉んだ。数年後にこの計画を仕切りなおされても、ペリーはすでに60歳になり、退役しているだろう。中止命令がとどかないうちに、どうあっても出港しなくてはならなかった。

航海は順調だった。

1853年1月3日には赤道を越え、あっけなく南半球へとすすんだ。

途中のマデイラ島で補給したとき、このまま一気に喜望峰まですすめるはずであった。計画より早い汽走の再開を強いられたため、途中で石炭が切れてしまうのではないかと恐れた。

ペリーは二度目の補給を決断した。そこに見えてきたのは火山島だった。

セント・ヘレナは、1502年にポルトガル人によって発見されたが、ついでオランダ人の領土とされた島である。そのオランダが1651年、喜望峰を手に入れるかわりに手放して、こんどはイギリス東インド会社の持ち物となった。そして一時手放したが、ふたたびイギリス王室の領有となった島である。

ジェームズタウン入港は、1月10日だった。

そこはセント・ヘレナ島唯一の都市だった。そこで水と石炭を補給した。

セント・ヘレナを出たのは11日。24日にケープタウン、2月18日にモーリシャス、3月10日にセイロン、25日にシンガポール入港。そしてミシシッピ号は4月7日、マカオに入港。同日夕刻、香港に投錨することができた。

「――ここは中国!」

中国は4億5000万人という人口を抱え、世界最大の国だ。世界人口の4分の1を占めていた。

ところが、そこにいるはずの旗艦となるサスケハナ号の姿がない。

アメリカ東インド艦隊の旗艦、――全長76メートル、排水量2450トン、乗組員300人のサスケハナ号の姿がない!

2週間まえから上海にいることがわかった。駐中国弁務官のマーシャルの強い要望で、ペリーには無断で上海に向かわせたことがわかった。サスケハナ号が帰還し、そこで、マーシャル弁務官とペリーが交わした会話は、最初から最後まで擦れ違いだらけだった。

「急ぎ出港? どこへ?」

「決まっているじゃないか、ニッポンですよ!」

「ええ、聞いております。ニッポンとの友好関係を樹立したいという話は。通商条約を締結したいという話も」

「うむ」

「だが、風雲急を告げる中国を差し置いて、ニッポン遠征にどれほどの意味があるというのですか、ペリー司令官?」

このとき、マーシャル弁務官は、日本を「中国の属国」ということばを使った。

「ニッポンは中国の属国ではありませんぞ! ニッポンはれっきとした独立国です。しかも小国でもない。3300万人を擁し、わがアメリカよりも多い。中国、インド、ロシア、フランス、オーストリアに次ぐ世界第6位の大国ですぞ! あのイギリスよりも大国ですぞ!」

なかでも首都エドは、人口からいえば、パリ、ロンドンにも匹敵する世界最大級の都市ですぞ、と付け足した。

「――だから何です?」という顔をして、マーシャル弁務官はプイッと横を向いた。

当時、日本はまさに、マーシャル弁務官のいうように、国際社会に顔を出さない、不気味な鎖国の国、アジアの小国と見なされていた。

それは確かだった。

国務省の人間と軍人とは、このように理解しがたい垣根を互いにもっていたが、ペリー司令官は、軍人らしくない、アメリカの将来を見据えた政治的にも戦略的な見識を持っていた。

そしてほどなくして、艦船は戦列を組んで琉球王国を訪れた。当時は「リューチュー」といっていた。

そして、嘉永6年(1853年)、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻をふくむ艦船4隻が、日本に来航した。

当初は久里浜に来航したが、とうじ久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかった。幕府は江戸湾浦賀、――現在の神奈川県横須賀市浦賀――に誘導した。アメリカ合衆国大統領の国書が幕府に手渡され、翌年、日米和親条約を締結した。

この話は公式に伝えられ、教科書にも載った。

――さて、日本との交渉に入って、具体的な展開について触れる余裕はないが、ただ条約交渉にのぞみ、アメリカ側は、ペリー司令官、息子で秘書官のオリバー・ハザード・ペリー、参謀長のアダムス、それに通訳のS・W・ウィリアムズとポートマンの2名をつけてのぞんだ。

これに対して、日本側はハヤシ・プリンス・オブ・ダイガク、イド・プリンス・オブ・ツシマ、イザワ・プリンス・オブ・ミマサカ、そして財務部の高級官僚ウドノの4名がつき、ペリーの予想を超えて、日本側には英語を解する通訳が2名つけられた。2名はモリヤマとタテイシと名乗った。

そのときの模様に少し触れておきたい。

英語のわかる日本人の通訳官が2名いたとは、ペリーには驚きであった。ということは、小声でささやくことも向こうには筒抜けというわけだった。

これでは不利と考えたペリーは、話し合いにはオランダ語でおこないたい、同時に筆談もオランダ語と中国語でおこないたいと申し出た。

これに対して、日本側もそのようにしたいと即座にいった。だからといって、通訳官が入れ変わったわけではなかった。これはどうしたことなのだろうと、ペリーはいぶかった。

モリヤマ、タテイシも、オランダ語、中国語を解するということなのだろうか? 

日本人は漢文が得意なことはペリーは知らなかったと見える。 

応接係り筆頭のハヤシは「それでは、……」といい、彼の懐中から1本の巻紙が取りだされ、ヒモが解かれ、卓上に転がされると、まったく理解できない縦書きの文字が見えた。それは中国語だろうとおもわれた。横書きはオランダ語で、そのとなりには英語で書かれていた。末尾にはモリヤマのサインが見えた。

これを見たポートマンは、「昨年のアメリカ合衆国大統領親書に対する返書のようです」といった。そしてハヤシはいった。

「――われわれは石炭、薪水、食料、および遭難した船とその乗組員の救助に関する貴国政府の申し出について、これを全面的に応じます。云々」と、モリヤマはオランダ語で通訳した。「ただし、最後の通商に関する一用件は、これを拒否します」といった。ペリーは信じられないという顔をした。

補給オーケー、救助オーケー、通商ノー・サンキューというわけだ。

なぜだ?

ペリーは日本を誤解していたことを知った。容れるべきところは容れる。断るべきところは断る。日本は対等な話し合いを望んでいることがわかったのだ。これまでの小国は、欧米列強を向こうにまわして選択の余地はなかった。だが、日本はちがったのである。

日本開国の大任を果たしたのち、体調不良に悩まされていたペリーは、帰還の途についた香港で、本国政府に帰国の申請をし、許可を得た。艦隊の指揮権を後任のアボット大佐にゆずって、ミシシッピ号を去り、1854年9月11日に、イギリス船に便乗し、西回りの航路、陸路をへて、ニューヨークへの帰国の途についた。

そして、インド洋、紅海、地中海を経てヨーロッパ大陸を鉄道で移動しウイーン、ベルリン、ハーグらで保養をとり、イギリスへ渡ってリヴァプールから大西洋を航海、翌1855年1月12日にニューヨークに帰着した。1月24日ミシシッピ号上でペリーの東インド艦隊司令長官の退任式がおこなわれた。

ペリーの活躍は、じぶんでも書いている。「日本遠征記」(岩波文庫、全4巻、1948~55年)という膨大な本である。

ペリーが日本に滞在していたとき、黒船に乗り込んできた吉田松陰とは会わなかったが、彼の書いた書簡を受け取り、これを大事に本国に持ち帰っている。いまでも見ることができる。

その後、アメリカの東インド艦隊は、日本にはあらわれなかった。本国アメリカで、黒人の奴隷貿易の是非をめぐって、南北が激しく戦う南北戦争が勃発したからだった。

 

※参考資料:佐藤賢一「ペリー」(角川書店、2011年)、三谷博「ペリー来航」(吉川弘文館、2003年)、小島敦夫「ペリー提督」(講談社、2005年)ほか。