れてきた

 

ぼくは高校生の頃から小説を書いていた。

上京して銀座に住んでいたころ、そのときの小説「ミネルヴァの梟」は、ずっと持ち歩いていた。原稿用紙100枚。星野龍男さんと何か別の話をしていた折りに、この「ミネルヴァの梟」の話におよんだ。

「そのタイトルは、どういう意味?」と、質問を受けた。

ぼくは高校生のころ、ヘーゲルの「法哲学」を読んでいた。読んでいたとはいっても、なんとなく開いてみただけだったけれど、その序文にあるキーワードが「ミネルヴァの梟」だったのである。「ミネルヴァの梟は、たちこめる黄昏(たそがれ)とともにようやく飛び始める」という文章だった。

ミネルヴァの梟は不吉な鳥ではなく、知恵の女神ミネルヴァの寵愛する鳥で、新しい思想を意味するのだが、深い反省をともなった新生哲学を象徴することばとして、ずっと記憶していた。

つまり、「たそがれ」とは、1日の終わりであり、月の終わりであり、年の終わりであって、人生の終わりでもあり、世紀末思想を象徴しているとぼくは考えていた。

現実の世界がまず形成され、その後に哲学が形成されるのだというヘーゲルの思想が、ぼくにはとても甘美なことばとして、すなおに脳裏に刻んでいた。

 

ホロヴィッツ

 

じぶんの小説作品の出来、不出来はともかく、ぼくは、哲学は反省の学であるとするならば、ヘーゲルがいみじくもいうように「遅れてやってくる」のが哲学の宿命なのだと思っていた。

文学もまたおなじではないか、そう思った。

「飢えた子供のまえで、文学は可能か」という哲学的な命題が、自分の頭のなかを駆け巡った。

当時、35、6歳の星野さんと19歳のぼくとのあいだには、超えることのない決定的な世代的な乖離があった。今次世界大戦が勃発したとき、星野さんは15歳だった。ぼくはその翌年の4月にやっと誕生しているのだ。

この差異は縮めようもないと感じながら、ぼくは、星野さんのいう「飢えた子供のまえで……」の話が、とてつもなく巨大なテーマのように思えた。

ぼくは明治大学文学部に入学し、ヨーロッパ文学を専攻した。当時、流行していた「実存哲学」を、まったく勉強しなかった。

パスカル、キルケゴール、ニーチェ、サルトルなど、いくつか目ぼしいものは読んだけれど、真剣には読まなかった。仲間たちから質問があって、何かの拍子に、少しは下調べをして話したことはあっても、自分から積極的におしゃべりしたことはなかった。

実存主義については、星野さんのほうがずっと詳しいのではないかと思った。ぼくは、人から質問を受けると、かならず原稿用紙に書いて返事するクセがある。

実存主義って、何だろう?

これを一言でいうと、人間存在のあり方を明らかにすることを中心課題とする哲学的な主張。――つまり、理性や科学によって明らかにされるような事物存在とは違って、理性ではとらえられない人間独自のあり方を認め、人間を事物存在と同視してしまうような自己疎外から解放していこうという哲学だったように思う。

しかしぼくは、実存主義をちゃんと理解しようとは思わなかった。

ある朝、グレゴール・ザムザはなにか気懸かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒蟲に変っているのを発見した。

高橋義孝訳

 

カフカの小説「変身」はこうしてはじまる。ぼくがこの小説の冒頭の文章を読んで、強烈なショックを受けたのは、その頃だった。「審判」、「城」、「流刑地にて」などは、その代表作である。

アルベール・カミュの「異邦人」も同様である。

この作品は、ぼくが生まれた1942年に発表されている。「異邦人」が日本に紹介されたのは1951年。文芸雑誌「新潮」にその全訳が掲載された。

海外の文学、思想に飢えていた当時の日本において、たいへんな反響を巻き起こしたらしい。作家広津和郎と批評家中村光夫とのあいだで激しい「異邦人論争」が繰り広げられたことはよく知られている。論争の中身については、ここでは触れないけれど、それほど強烈な刺激と興奮を提供してくれたのだが、後年、実存主義が台頭する背景には、こうした作家たちの作品があったことを知った。 

友人で小説を書いている岩城励三郎氏と会っていた折りに、奇しくも「異邦人」の話に触れた。あの50年代に書かれたという時代的な背景のなかでのみ評価される作品だ、と彼はいっていた。確かにそうだろうと思う。

ソルジェニーツィンの「イワン・デニソヴィッチの一日」もまた60年代に書かれたことと、作者がロシア人であったことによる評価であって、このふたりのノーベル賞受賞は、そういう意味で、首肯できる歴史的価値を持つだろう。しかし、今日的な価値は、ずっと希薄になった。その証拠に岩波文庫以外には、絶版になったままである。しかし「異邦人」だけは、依然として読まれつづけている。

1960年代は、しかし、自分にとっては青春そのものだった。

太陽がさんさんと夏の盛りを過ぎても輝きを放つように、60年代の自分の青春は、頬が焼けるような熱気のなかにあった。しかし、大学はときに退屈だった。

図書館で本を読んでいるときが最高に幸せだった。銀座は、めくるめく変革の嵐のなかにあり、ビルも道路も破壊と建設の槌音でかまびすしい響きを奏でていた。まるで狂気めいた熱気が、いたるところで充満していた。

東京オリンピックを控えて、昭和通りの地下では地下鉄工事がはじまり、銀座通りは、全面石だたみになって、都電が廃止された。この年、東京都の人口が1000万人を超えた。

世界の大都市でも1000万人を超えたのは、東京だけだった。同時に、NHKのテレビ受信契約者数も1000万を突破した。普及率も50パーセントに近づき、マス・メディアのあり方も変わりはじめた。

そして息のながい繁栄をつづけてきた岩戸景気が、前年のピークから一挙に転落の道をたどりはじめる。常磐線の三河島脱線事故で死者160人を出すなど、世情を騒がす出来事が起こった。

しかし、ぼくは銀座という街が、すこしずつではあるけれど、好きになりはじめていた。銀座2丁目に「え・ちゅーど」という名曲を聴かせてくれるクラシック音楽専門の喫茶店があった。これも星野さんに紹介された。

当時は、金広信雄さんという、これまたぴっかぴかのクラシック音楽ファンがいて、よくいっしょに聴きにいったものである。好みの曲をリクエストすることができ、渋谷の「ライオン」とともに、その名が知られていた。

ベートーヴェンやモーツァルト、ブラームスといった曲がよくかかっていた。ときにバッハなどもかかるが、バッハについてはふたりとも話には出すけれど、敬遠していたように思う。

ぼくはバッハの曲では「マタイ受難曲」が彼の最高傑作であると思っている。

いまでも変らない。「マタイ受難曲」については、ぼくには、別の思い出がある。これを最初に聴いたのは、「え・ちゅーど」ではなかった。銀座2丁目の銀座通りに面したところにあった「ラ・ボエーム」という喫茶店だった。これには苦々しい思い出がひとつともなっている。

ベートーヴェンといえば、やれ「運命」、やれ「田園」、やれ「合唱」、やれ「皇帝」などと、決まりきったような返事が返ってくる。

そのひとつふたつを自分はこの店で聴いて知るようになる。やがてベートーヴェンではないけれど、「パンのために書くのはつらい」と思うようになる。何しろ、すきっ腹をかかえながら、ぼくは小説原稿をしこしこ書いていたのだから。ベートーヴェンにしても、すきっ腹をかかえながら、あの幽玄な曲趣をひねり出していたのだろうか?

のちに、ウルヘルム・ケンプはいう。

ベートーヴェンが新境地を開拓したのは、アダージョにおいてだったというのである。アダージョでベートーヴェンほど深淵に達する曲を草した作曲家はいないと彼はいっている。ぼくもそう思う。彼のピアノソナタは、深淵そのものである。

ずっとたって、グスタフ・マーラーの「交響曲第5番」で、アダージェットを聴いた。ハープと弦楽器だけで奏されるアダージェットである。まさにアダージェットのために書かれたシンフォニー、そういえるかも知れない。

もともとベートーヴェンは、ピアニストとして楽壇に登場している。作曲家としてのベートーヴェンは、ずっとたってからのことである。

ぼくはピアノ曲がひじょうに好きである。たぶん学生の頃からだろう。それでも、名のあるピアニストでも聴いていないものがとても多い。なかでも、ポーランドのピアニスト・パデレフスキーがそうだ。いちどぜひとも聴いてみたいと思っているピアニストである。

しかし、この20世紀は、音楽の世紀だったという人が多い。

さいわい、ぼくはホロヴィッツやルービンシュタイン、グレン・グールドを聴いている。

この100年で、ホロヴィッツを生んだのは、画期的な出来事だったと思う。鍵盤上を自由に走りまわる奇怪な指遣いと巧緻をきわめたぺダリングは、独自の音の世界を築いた。デモニアックなといえるほど、吸引力の強いカリスマ性を持つ音だった。

いっぽう、ルービンシュタインは20世紀の絢爛とした華やかさに彩られる彼独自の色彩を放った。彼こそは「世紀の巨匠」と呼ばれるにふさわしいかも知れない。しかし、ぼくは、これを聴いた後には、ふしぎなことに何も残らなかった。

何が違うのか、よく分らない。

ホロヴィッツが老いを感じさせたとき、ルービンシュタインの音は、まだ健康美に溢れたように感じられた。ホロヴィッツのほうが若いというのに。それだけのような気がする。

いっぽう、グレン・グールドはホロヴィッツに近い音づくりをしていると思う。ホロヴィッツは技巧に長けていて目障りだと評する者が多かった。そうした彼らにとって、グールドはホロヴィッツほど無遠慮に音楽を塗り替えようとしない謙虚さが好感を抱かせたのだろうか。ぼくは、グールドにはホロヴィッツ的なファンタスティックな音楽性をしばしば感じる。

20世紀には、まだまだ多くのピアニストを輩出している。ホフマン、ラフマニノフ、コルトー、フィッシャー、ケンプ、ゼルキン、ミケランジェリ、リヒテル、ギレリスなどなど。

「え・ちゅーど(ētude)」とは、もともとフランス語である。音楽の世界では「練習曲」と訳されているが、なかでもショパン、リスト、ドビュッシーなどが多くの練習曲作品をつくっている。
 

 

映画「ウエストサイド・ストーリー」

 

ぼくらは、さまざまな思いを練習曲よろしく、即興的に仲間たちにぶつけ合って過ごしていた。「え・ちゅーど」という喫茶店は、自分らの激しい思い入れを満足させるにじゅうぶんな装置と舞台を提供してくれた。

その店では、毎週「音楽のしおり」のようなものを発行していた。

定番演奏の曲目を解説入りで案内していた。新曲が入荷されると、その案内も出ていた。いずれもレコード盤である。分厚い2冊の音楽アルバムが用意されていて、リクエストをする客は、それを見ながら好みの曲、好みのオーケストラ、好みの指揮者、または演奏家の名を紙に書いて申し込むのである。

たいがいは、すぐにかからなくて、忘れた頃にかかる。

ぼくはオペラもよく聴いていて、好きなものを全曲通して聴いてみたいところだが、たいがいはムリだった。あまりにも長いからだ。他の客が退屈してしまうらしい。店では「何幕になさいますか?」と、きいてくる。

4幕もので1幕だけ聴くとなると、これがなかなかむずかしい。

ぼくの第2の故郷は、銀座であるといって憚らないのには、理由がある。あのころ、銀座にはアメリカ兵がうようよいた。

有楽町の朝日新聞東京本社ビルのなかにあったピカデリー劇場の入口に、ジュークボックスが置かれていた。そこで、リズミカルな音楽に合わせて腰を振ったり、ステップを踏んだりして踊る若者がたくさんいた。

なかには黒人兵が、日本人の女の子たちの腰を両手で抱きながら、軽快に踊っていた。街をそぞろ歩く人びとは、ちょっと珍しいサウンドを聴きつけると、そこで足を止めて彼らを取り巻き、ながめるのである。

ぼくもそのひとりだった。ぼくは角帽をかぶり、詰襟の学生服を着ていた。下は濃いベージュの替えズボンで、足もしぜんに動きだす。そういう銀座は、いまはもうない。

ピカデリー劇場では、「ウェストサイド・ストーリー」がロングランをつづけていた。別の劇場では「ニュールンベルグ裁判」、「野いちご」、「怒りの葡萄」などが上映されていた。

ぼくは銀座について、これまで何か書いたという記憶はない。ぼくの小説には、たびたび出てくるけれど、そうでない文章には銀座はけっして出てこない。ぼくはそのころ、いつも「恋」にたいしてつよい憧憬を抱いていた。

夢あわき青春時代である。青白い顔をしたニキビ面の大学生だった。勉強もしたけれど、そういう銀座の街全体にたいして、北国出身の朴念仁としては、異常なほどコンプレックスを抱いていたように思う。

たとえば、2丁目の銀座通りに面したところにある「銀座トラヤ帽子店」では、大恥をかいた。2丁目の昭和通りに面して、こじんまりと構えている旗屋の主人がよく被っていた帽子に、何かしら、品格のいい紳士らしいものを感じて、それとなく帽子店に興味を持ったのだけれど、手に取った山高帽が、殊のほか気に入った。

「これを下さい」といってみたけれど、数字の桁がひとつ間違っていた。たしか数1000円と思った帽子が、1万円以上だったのだ。

「こんな帽子が、1万円以上!」

ぼくは、都会はどうかしていると思った。

だれがこんな高価な帽子を買うのだろうと思った。というよりも、そこでぼくは恥をかいたのだと思い知らされて、そのうちに腹が立ってきた。そのころから帽子にあこがれていた。詩人中原中也があこがれたように、ぼくもあこがれた。

その「銀座トラヤ帽子店」の隣りに「ラ・ボエーム」という喫茶店があった。ラ・ボエーム(La Bohēme)は、プッチーニの4幕もののオペラである。

19世紀中ごろ、パリの屋根裏部屋に住む4人の芸術家が、おなじ建物にいる病弱の娘ミミを中心にあやなす友情が主題になっている。プッチーニの代表作である。なかでもアリア「わたしの名はミミ」は美しい曲だ。この名曲喫茶「ラ・ボエーム」では、自分はプッチーニはおろか、オペラなるものをほとんど聴いたことがない。

喫茶店の入口のドアはセピア色で、うっすらと中がほの見える。ドアの内側に、ひとりのきれいな背の高い女性が立っていて、来客があると、「いらっしゃいませ」といってドアを開けてくれる。

当時は、どこも自動ドアではなかった。

なかから出てくる客のなかには、当然のごとく、ベトナム帰還兵のアメリカ人もいた。兵役を終えて帰還する兵士たちは、しばしの休暇を、この東京で過ごす。欧米の観光客ももちろんいた。とおりを闊歩する人びとは、どこか洗練されて見えた。新しいスピリットを感じた。なかには、単なる軽薄なディレッタントにすぎないものもあったようだけれど……。

そんな銀座の石だたみのうえを、なんと腋毛も剃らないノースリーブの若い娘が、手に洗面器を持って銭湯へと腰を振りふり歩くのである。

しかも、その腰に巻きつけたスカート地は、シースルーだった。当然下着が、西日に透かされて見えてしまう。

ついでだけれど、大学では文学部に籍をおいていたから、女子学生が多い。彼女たちはだいたいが腋毛を処理していない。なかには男みたいなフサフサした、とうもろこしヘアをかこっている女の子もいた。

ぼくは、そんな女たちの匂いがむんむんする教室で、講義を聴いた。

ぼくはたぶん銭湯へと向かうであろう女のすぐ後ろから、まるで尾行するみたいについていく。自分が行く方向へと、相手が勝手に歩いていくのである。

このとき浮かんできた単語が「洗練」ということばだった。

ソフィスティケーションsophisticationとは、よくいったものである。辞書を引けば、当然「洗練」という意味もあるけれど、莫連(ばくれん)、――つまり世間ずれして悪賢いヤツという意味もある。すれっからしなヤツ。ソフィストケーテット・レディなんて「イカした女」という意味にもなれば、ときに「あばずれ女」、「世間ずれした女」、めずらしくは「詭弁を弄する女」という意味にもなるのだ。

ぼくはその女を見て、日本語にたいするインド・ヨーロピアン言語の意味を痛く実感した。自分はたぶん、田舎人だったからだろう。田舎人から見れば「あばずれ」は、すなわち「洗練」なのである。すくなくとも「洗練」に見える。いい意味も悪い意味も、大きく異なる背中合わせの意味が、混在している理由がそこにあると思った。