宇宙でイットマンの感に打たれて! WALT WHITMAN

 

2024年は静かに音もなく訪れました。そして、ある詩人の霊感がじぶんの頬を掠め飛んでいきました。

日本初の月面着陸を果たした宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小型実証機「スリム(SLIM)」が、宇宙への技術開発の歴史に新たな名を刻みました。月面着陸はインドにつづいて5カ国目。日本独自の技術でさらなる壁に挑み、目標地点との誤差を100メートル以内に抑える世界初のピンポイント着陸を行なったのです。

この快挙を詩人ウォルト・ホイットマンなら、何ていうでしょうか?

 

ウォルト・ホイットマン

ホイットマンの「草の葉」は有名ですが、ほんとうに「草の葉」をわれわれは読んでいたのだろうか、そういう疑問がまず浮かんできます。ホイットマンを口にするけれど、ほんとうのホイットマンをぼくらはまだ知らないのではないかしらと。

ポーなんかよりももっと厄介なテーマを持っていて、もっと俗悪なやり方で詩作しています。翻訳不可能なくらい、粗野で猥褻な詩が多い。

そこでぼくは、ここではウォルト・ホイットマン、一個の宇宙、マンハッタンの息子」(Walt Whitman, a Kosmos, of Manhattan the son)という作品を取りあげようと思います。「草の葉」はむずかしすぎて、ぼくの手には負えません。

詩のタイトルを見てもわかるとおり、自分の作品に麗々しく自分の名前を出すというずうずうしさや慎みのなさは、かえって挑発的に見えます。

タイトルからして高踏的な印象を与えます。ちょっと考えれば、露骨な自己宣伝のようなこういった「名乗り」も、ホイットマンらしい自己宣揚のほんの一部だということを知るだけでも、ホイットマンが、どんな詩人なのかがおよそ見当がついて、おもしろいのではないでしょうか。

タイトルの「Kosmos」はもちろん「宇宙」という意味の「コスモス」ですが、ちょっと見ると「cosmos」の間違いではないか、と思われますね。ところが間違いではなく、彼は気取って、ギリシア語みたいに、わざわざ「Kosmos」と書いているわけです。

「コスモス」とはもともとギリシア語です。語源のギリシア語を意識して、このようないかめしいタイトルにしてしまったわけです。ギリシア語でも、ピュタゴラス学派によって用いられた元来の意味は、「秩序と調和のとれたシステムとしての宇宙」というものでした。

その宇宙の一部である自分もまた小宇宙なのだといわんばかりに取り入れているわけです。ちょっとむずかしそうな詩に見えます。ところが、つぎに「マンハッタンの息子the son of Manhattan」というべきところを「of Manhattan the son」ということばの倒置を行なっています。マンハッタンのこの土地をインディアンのことばに置き換えますと、『ウェブスター英語辞典(第3版)』によれば「Mannhatta」となります。「Mannhatta」と題された詩。

 

 もの狂おしく、肉づきよく、好き者で、食って飲んでは子をつくり、……

 Turbulent fleshy, sensual, eating, drinking and breeding,……

 

ここには3つの形容詞のあとに、現在分詞3つがならびます。

「Turbulent」というと、お天気なら「荒れ狂う」、世情なら「騒然とした」、群衆なら「無法をはたらく」という意味で、要するに混乱して動揺ただならないという意味になります。感情的には「心が高ぶった」「思い乱れる」というような意味にもなります。「fleshy」は「ふっくらとした肉づきがいい」、「sensual」は「享楽的な」「放縦な」、食べ方や性的な快楽に目がないというような意味にもなります。

そういう人間が食べて、飲んで、さかんに子どもをつくるというのです。

子どもをつくるの「breed」は、あまりいいことばではないようです。ふつうは動物の交接に使われている言葉のようです。

「あいつもよく子をつくるね!」などと、悪口をいうときなんかに使われます。その動物とは英語ではなぜかウサギです。「ウサギみたいに、よく子どもをつくるなあbreed like rabbits」という表現があります。ホイットマンは、わざわざこういういい方をしているわけです。

 

 情に溺れず、男や女の上に立つことも、ひとり遠ざ

 かることもせず、……

 No sentimentalist, no stander above and women or

 apart from them,……

 

「sentimentalist」の「感情的な人間」ではないということは、やりたい放題の人物像で、粗暴な人間のイメージから見ると、男らしい意志の強さ、行動のたくましさを意味しているようです。あとにつづく文脈からみると、感傷に惑わされないたしかな目、透徹した判断力を強調しているとも思われます。「no stander above and women」は福沢諭吉の「人の上に人をつくらず……」云々ではありませんが、「相手が男だろうが女だろうが、自分は誰の上にも立たない」。そして「(no stander) apart from them」の「彼らに距離をおいて、超然と遠ざかることもしない」といい、自分はあらゆる人間と平等であり、しかもその仲間のひとりだ、というのです。

 

 慎ましくもなければ、不謹慎でもない。

 No more modest than immodest.

 

「modest」でも「immodest」でもないといいます。これは駄洒落の一種です。この調子からして、語り手は謙遜ぶかい人物でもなければ、慎しみのないずうずうしい人間でもないのだと、自分でいっています。どんなに放縦に見えても、決して人間の品位や節度を踏み外したりはしない、というのです。

 

 すべてのドアから錠をねじり取れ!

 ドアそのものを戸柱からねじり取れ!

 Unscrew the locks from the door!

 Unscrew the doors themselves from their jambs!

 

「screw」は「ねじこむ」だから、「Unscrew」はその反対で「ねじを弛るめて錠(ドア)を取り外せ」となります。「jambs」というのは「脇柱」の意、入口や窓などの両側を支える垂直のフレーム枠のことです。そこからドア自体も取り外してしまえ。人を狭い空間に閉じ込め、他人との自由な交流を防げる障壁などは、さっさと取り除いてしまえというわけです。

まず錠を、つぎにはドアも取り外せという、この2行の展開のしかたには、音楽のクレッシェンドのような、勢いがあります。

クレッシェンド(crescendo)は「だんだん大きく、しだいに強く演奏せよ」という意味のイタリア語。その反対は「デクレッシェンド」で、「だんだん小さく、しだいに弱く演奏せよ」という意味。詩の場合も、演奏気分で、クレッシェンドしていくように読むと、気分も出てきます。

 こうして調子を高めておいて、節をあらため、さてそれがどこへいくかといいますと、

 

  誰であれ、他人を貶(おとし)める者は、私を貶める者だ。

  どんなことばも行ないも、結局は私にかえってくる。

  Whoever degrades another degrades me,

  And whatever is done or said returns at

  last to me.

 

 というのです。

「他人を辱はずかしめる者は誰でも、私を辱めるのと同じことだ」。どんな理由であれ、おなじ人間仲間を卑しめるような人間がいたら、私は黙っていないぞ、と。その不当さは、その人のみならず、自分自身の尊厳をおびやかすものですから、私が抗議にいくというのです。そして、「何であれ、この世で行なわれたり、いわれたりすることは、まわりまわって、ついには私に帰する」と。

 人間の行為は、何であれ直接自分にかかわってくる、けっして他人ごとではないというわけです。

 ホイットマンの場合は、このようにあらゆる人間は人間として同等なのだというだけでなく、この世で巻き起こっていることは、すべて自分をその一部とする宇宙の出来事なのだけれど、冒頭でいうように、じつは自分自身が「宇宙」そのものであって、自分はそのなかで起こることはすべてに責任がある――だから、どんな些細な悪や不正も放ってはおけないのだという、壮大な気概がこめられているように読めます。

 ここでまた節が変わって、こんどはたった1行で独立した、したがって、かなり力こぶの入った節がきます。

 

  私を通して霊感の波が押し寄せ、潮流と指針が押し

  寄せる。

  Through me the afflatus surging and surging,

   through me the current and index.

 

「ウェブスター英語辞典(第3版)」によれば「afflatus」はもともとラテン語で「息を吹き込む」という耳慣れない語で、「霊感inspiration」とほぼ似たような意味です。――ついでにギリシア神話に出てくるピュグマリオンの話をしますと、ピュグマリオンは自分がつくった象牙の像に恋をします。

そこで、アフロデーテのパワーを借りて象牙の像に命の「息を吹き込んで」もらうと、彼はその像を妻に迎え、結婚してしまいます。つまり、ここでいう命の「息を吹き込む」とはそういう意味です。

余談ですが、この話をもとにして、バーナード・ショーは、『ピグマリオン』という作品をつくりました。のちに映画になって、それは、コヴェント・ガーデンの野菜市場で花をあきなう花売り娘の「ちょいとだんな方、花はいらんかねぇ?」という、聞くにたえないような英語を、ちゃんとしたことばに替えていくドラマでした。ヒギンズ教授は、淑女に変身した彼女にとうとう恋をしてしまうという物語です。

映画「マイ・フェア・レディ」でおなじみの物語。

しかし、この「afflatus」を、たとえば辞典を引いてみると「神が知識や力を授けること」「超自然的な、または圧倒的な衝撃」とあって、この「霊感」は、ときには猛烈な勢いで人を突き動かすこともあるようです。

「surge」は波のように「うねる」、あるいは「打ち寄せる」という意味ですが、「surging and surging」というのは、つぎからつぎへと大波が押し寄せてくることをいい、ちょうど強い電流が通るとからだがしびれるように、「私」は押し寄せる「霊感」のなすがままになっているというわけでしょう。

 それと同時に、「current」の「流れ」「潮流」と「index」が「私」のなかを押し通るというのですが、この解釈はちょっと厄介です。――「index」はもともと「人差し指」のことで、そこから何かを指し示すもの、つまり計器や時計の針、指針=ガイドライン、指標ないし徴候、最後に「索引」などを意味するようになりました。

あらためてこの行の対句的な構成を見ると、前半の「the afflatus」と後半の「the current and index」は、どうやら同じものを指すらしいと見当がつきます。

後者がただひとつの「the」でくくられていて、「current」と「index」が分かちがたい不可分の一体として扱われていることです。

押し寄せてきて、からだのなかを通っていく「霊感」は、「流れ」と「指針」からなっているらしい。この流れは、ただ猛烈に人を突き動かすだけでなく、ある種の方向性というか、向かうべき方角の適切な指示を含んでいるらしいことがわかります。まさに霊感とはそういうものであって、天来の衝動とともに、あるひとつの方向指示が「私」を通して伝わってくるというのです。

つぎの行からは、霊感の具体的なあらわれをうたったものでしょう。

 

  私は太古の合言葉を唱え、民主主義の合図を送る。

  誓っていう。私は何ひとつ受け入れはしない、みんな

  が同じ条件で、そっくり同じものを入手できる限り。

  I speak the pass-word primeval, I give the sign of

  democracy,

  By Good! I will accept nothing which all cannot

   have their counterpart of on the same terms.

 

「太古の合言葉pass-word primeval」は、「民主主義の合図the sign of democracy」をそのまま指しています。

「pass-word」とは、「山といえば川」というぐあいの合言葉で、聖書ではこれを「試し言葉test word」といっています。合言葉は聖書から使われてきたのかも知れません。

しかし「pass-word」と「test word」の具体的な違いについてはわかりませんが、聖書で使っている合言葉は、有名な「shiboleth」です。これを正しく発音できたら通すという合言葉になっていて、それで見破られて殺された人びとが4万人を超えたという記事が『士師記』にはでています。

 詩では「私」が口にする合言葉は、原初のはじめからの、太古の合言葉であり、それは「民主主義」なのだというのです。「民主主義」は太古以来の人類の原理であり、「私」の仲間とそうでない人間、人類の敵とを区別する合言葉であるというわけです。

ここではむずかしいものは何もないと思います。