「若い」と石の話

 

昼食は揚げ炭火焼き料理

 

きのう、ぼくはあろうことか、ある会場で登用試験を受けていた。1時間30分、頭をしぼった。すると、去年、多摩御陵・昭和天皇陵、深大寺などのバスツアーに出かけたことを想い出した。ヨーコは行かなかった。

「お父さんだけ、行ってらっしゃいよ」といって、早朝、じぶんを送り出したのだった。なにしろ旅行は、久しぶりだった。きのうのことは早々に忘れるのに、高橋是清邸をのぞいたときの感動は、ふたたび脳裏の奥で生き返る。それをいうと、ヨーコは

「あたりまえでしょ!」という。若いころなら、あたりまえだったが、この年になると、どんどん忘れていく。

 

高橋是清

 

みんなの前で、高橋是清は学生のころ、アメリカ留学とはいうけれど、「ほんとうは人身売買で売られたんですよ」といったら、「うっそー!」とだれかにいわれた。

「ほんとうなんですよ。高橋是清の日記にもちゃんと書かれていますよ」といった。

そして、この人の人生もすごいのだ!

「わたしはアメリカに売られて、奴隷になったのだよ」とじぶんでいっている。「高橋是清自伝」(上下2巻、上塚司編、中公文庫、1976年)にはそう書かれている。

彼は、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、「ヘボン塾(現・明治学院大学)」で学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿とアメリカ合衆国へ留学した。

しかし、横浜に滞在していたアメリカ人貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を奪われ、さらにホームスティ先である彼の両親にも騙されて、あろうことか、年季奉公の契約書にサインをし、オークランドのブラウン家に売られたのである。

牧童やぶどう園で奴隷として扱われるのだが、本人は、じぶんが奴隷になっているとは気づかず、キツイ勉強だと思っていたようだ。

で、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ね、この間、英語の会話と読み書き能力を習得したと書かれている。――こんなことをして、よく勉強などできたものだとおもう。

まるで、フィクションのように聞こえる。

その高橋是清が、日露戦争の戦費9億円を調達するためにヨーロッパ、特にロンドンへ赴く。あるユダヤ人から9億円を調達するメドがたったのである。

そして二・二六事件において、赤坂の自宅2階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年83。――その高橋是清邸の2階にあがり、寝室で眠っているところをたたき起こしたのはこの部屋か? とおもいつつ、じっくりながめてきた。

尾崎紅葉

 

さて、若干19歳の山田美妙(1868-1910年)が、読売新聞に書いた出世作が「武蔵野」だったという話は、ほんとうだが、のちの明治31年発表の国木田独歩のおなじ「武蔵野」とは雲泥の差だ。前者は、戯作の範疇を超えていない。

むかし、――といっても500年ほどむかしは、東京は「武蔵野の原」と称していた。その山田美妙は、江戸が東京と改められた慶応4年、――9月から明治元年――その7月8日、――つまり新暦では8月25日に生まれている。

父親は山田吉雄。――南部藩士で、武をもって藩中で鳴らしていた男なのだが、維新まえ、ちょっとしたことで、主家を出て浪人になってしまった男だ。そして盛岡より江戸に上って、千葉周作道場に入り、皆伝を受け、近藤勇ともまじわった。

そのころ、千葉周作道場には新島襄がいた。

新島襄といえば、数え年14歳から剣術をやっている。

のちに幕府の海軍伝習所に入り、藩の軍艦に乗ってこっそり箱館(函館)にむかい、あろうことか、脱藩して、上海を経てアメリカへわたり、アマースト農科大学、――現在のマサチューセッツ農科大学――の当時のクラーク学長に会ったばかりか、クラークを洗脳し、北海道開拓のためにクラークを日本に連れてくるのである。

その帰国の船上で、新島襄に英語を教えていたアメリカ人が、新島襄の理解の遅いのに腹を立て、彼を殴った。

「何をするか!」

といって、腹を立てた新島襄は、船室にもどって隠し持っていた日本刀を手にしてあらわれた。北辰一刀流である。武士の面目を傷つけられた新島襄は、一刀のもとにその乗客を斬り殺そうとした。

日本刀を手にした彼は、

「新時代を生きねばならぬ!」と、こころにつぶやいた。

もしも船上で客を斬り殺せばどうなるか、密航を企てた意味がないではないか! そうおもった。

そして新島襄は、抜刀した刀を振り上げると、

「こんなものは、もう用無しだ。えいーっ!」といって、海に投げ捨てたのである。新島襄にはこれができた。

 

 マーク・ピーターセン元教授

 

だが、南部藩士の山田吉雄には、これができなかった。この差は歴然たる事実である。

廃藩置県によって藩を追われた600万人の元サムライたちの約半数は、新時代の波をくぐりそこねたのである。ある者は刀を捨て、鍬(くわ)をもって北海道にわたり、開拓農に従事した。

それが仙台藩に組していた旧南部藩のサムライたちだった。

彼らは明治3年から10年間に2700人もの移住を実現し、北海道にわたって二度ともどらぬ覚悟を決め、砂糖工場の経営に成功し、いまの伊達市をつくった。

そしてある者は、ちょんまげを切り、スーツを着て、革靴を履き、カバンをぶら下げる銀行員になった。夏目漱石のように、ロンドン留学を果たした男が小説家になろうなんていうのは、万にひとりもいなかった。のちに福沢諭吉はいう。

「ペンは剣よりも強し」と。

――その時代をくぐりぬけた人びとは、経験したことのない時代の変わりように目を見張った。「ご維新」ということばは、庶民の語りのなかによく聴かれたが、庶民には皆目、何が何だかわからなかった。

600年つづいたサムライの時代が終わったとだけしかわからなかった。だが、世界がどんなに変わろうとも、春になれば桜が咲いた。多くの人びとは自然の息吹に、なぐさめられた。

田中幸光

 

Non-fictionということばがある。

すこし前、吉田直哉の「テレビ、その余白の思想」とか、吉村昭・和多田進の「小説とノンフィクション」、ノンフィクション・クラブ編「大宅壮一と私――追悼文集」、中西新太郎編「1995年――未了の問題圏」などを読むと、「そうだな、そのとおりだ」とおもってしまう。新越谷の図書館をのぞくと、さがしてみたが、「世界ノンフィクション全集」(全50巻)の類いの本はそこにはなかった。

草加の中央図書館には洋書があるが、新越谷の南部図書館には洋書はない。けれども和書は草加よりも多い。絵画・映画芸術の本となると、八潮図書館にはかなわないだろうとおもう。書架にならんでいない本は、レファレンスコーナーでしらべるか、端末で検索する。書架にならんでいない本がけっこうある。けっこうどころか、山ほどあるにちがいない。

そのとき、ぐうぜん目についたマーク・ピーターセンの「英語で発見した日本の文学」(光文社、2001年)という本を書架から拾いあげ、ちかくの椅子に座って読んだ。彼は明治大学の教授をしていたことがあるらしい。この人の本はたいがい読んでいるが、この本は知らなかった。

「――まるで、つばめ気分だ」という章を読みはじめた。

抱腹絶倒。

大学1年生の教養科目の授業で、アメリカ映画の題材を使ったのだそうだ。あるとき、Dirty Rotten Scoundrelsというコメディ映画を教材にとりあげ、原題は「最低な奴ら」という意味なのだが、邦題はいかにも邦題らしく、「ペテン師とサギ師――だまされてリビエラ」1988年)となっている。

そのなかのセリフ、話しているのは裕福なご婦人の相手が専門の、一流の詐欺師である主人公なのだ。

女性から金をもらったとき、彼はこういった。

I feel like a kept man.(まるでヒモのような気分だ)と。

ところが、英語の決まり文句のこのa kept manは、日本語の字幕では「つばめの気分だ」となっていたそうだ。

学生にkeepという動詞のそれぞれの使い方、――たとえばkeep a mistress=情婦を囲う、keep a cat=ネコを飼う、などを説明する。ところが、「そういうわけで、つばめの気分という字幕は悪くないかもしれない」と付け足したところ、意外な反応が返ってきたという。

前列のひとりの学生は、「この字幕、わかりません」といったという。

「若いつばめ」といってみても、いまの学生にはわからないようだ。

マーク・ピーターセン教授は当時72歳のはず。このことばを、いつごろ、どこで覚えたか忘れたけれど、……と書いてある。「初老のつばめ」になった気分だと書いている。

じぶんの会話には「つばめ」はけっして出てこない。女性には、じぶんより若い男の愛人がいることを、わざわざ隠語で、婉曲(えんきょく)にいう必要も、いまではなくなってしまっていることに気づかされる。

――先日、ぼくは記事に平塚らいてう(雷鳥)の話を書いた。

森田草平との心中未遂事件の話を書いた。

平塚らいてうは後年、若い奥村博史と同棲し、同棲するまえ、奥村の書簡のなかで、じぶんのことを「若い燕」と書いたことから、このことばができたのである。

知られているように、平塚らいてうは、ロンドンの婦人参政権運動の一派、the Blue Stocking Society(青鞜会)にならい、雑誌「青鞜」を出した。そのことから、「bluestocking」ということばが生まれ、「学問好きの女、文学かぶれの女」ということばが生まれたことは、知っている人は多いはず。

もうすたれてしまったが、「女流作家」ということばも、もう使われなくなった。――そういうわけで、この本も借りることにした。あとで調べたら、マーク・ピーターセン氏は、いまは退職されて名誉教授になっているようだ。

本は楽しい。――先日は、漱石の話を書いた。

ぼくが「漱石全集」(岩波書店)を全28巻読んだのは昭和40年ごろだった。

大学の単位論文にも漱石のことをすこし書いた。英文学者の西村孝次教授はもとより漱石ファンである。東北大学で文学博士号を取得された。

漱石の「文学論」を読んで、英文学者になることを決めたそうだ。

それは、西村孝次氏だけではない。多くの研究者が漱石を読んでいる。

ぼくがロンドン大学に行ったとき、漱石のことをおもわない日はなかったくらいだ。漱石ってやつは、根は暗いのに、クレイグ先生の個人指導を1年間も受けている。先生は「頗(すこぶ)る妙な奴」で、「systemも何もなくて口から出まかせを夫(それ)から夫へとシヤべる奴」と日記には書かれている。

でも、きっと漱石は感謝していたにちがいない。

清水一嘉氏は、漱石の日記をしらべる専門家である。

なかでも「自転車に乗る漱石 百年前のロンドン」(朝日選書、2001年)という本は、読んでけっこうおもしろい。漱石の日記「小便所ニ入ル」は、とくにおもしろい。いや、漱石が小便所に入ったからといって、それがおもしろいわけじゃない。

「漱石全集」にも、1901年5月16日の日記としてそのまま「小便所ニ入ル」の話が載っている。清水一嘉氏は、それはちょっとおかしいのでは、とおもわれたそうだ。日記はこうなっている。

「小便所ニ入ル。宿の神さん曰く。男ハ何ゾト云フト女ダモノト云フガ、女ハ頗ルusefulナ者デアル。コンナコトヲ云フノハ失敬ダ、ト」。

そんな話をしている。

これでは、漱石が小便しながら宿の神さんとおしゃべりしている感じがする。いくらなんでも、とうじの紳士社会のイギリスで、便所で男が用を足しながら女性と会話をするなんて、そんな話は聞いたこともない。

男同士ならやっているかもしれないが。

おかしいと気づいた点は、冒頭の「小便所ニ入ル」という文章だ。「小便所」があれば、「大便所」もあるのか? 

ということだが、そう考えてみたところで、「小便所ニ入ル」のだから、漱石は入ったのだろう。小便所に入ってからの話が、つながらないのだ。

入ると、そこに神さんがいたのか? 「宿の神さん曰く」と書かれている。――これが80年間にわたって、漱石の大いなる疑問とされてきた。

清水一嘉氏は、漱石自筆のほんものの「日記帖」をしらべた。すると、「小便」の文字が、「小使」とも読めるのだ。漱石の文字には特徴がある。そこを「小使所」と読むと、女中部屋という意味になる。たぶん、これではないか、と考えたそうだ。

それにしても、おかしい。

漱石がなんで女中部屋なんかに入ったか、という疑問である。こっちのほうがさらに大きな疑問だ。

それには納得できる解釈はなかったが、それを清水一嘉氏は、1999年12月号の「図書」(岩波書店)に「小便所ニ入ル」と題して発表されたのである。

なんと、屁みたいで、ゴミみたいな些細な話なのだが、もう1901年のロンドンの話は霧みたいに霞んでいる。だが、読書は楽しい。

帰るころ、日が落ちてちょっと寒かったので、どぶろくを飲ませる屋台が出ていたので、ちょっと引っかけた。それがいけなかったらしい。

ほろ酔いで帰宅すると、ヨーコがいった。

「お父さん、お買い物は?」

あっ、すっかり忘れていた。