■「三国志」はすごい!――1

かること久しければ必ずし、合すること久しければ必ず分かる

 

おはようございます。

さて、「三国志」の真骨頂といえば、これでしょう。

「分かること久しければ必ず合し、……」

「うん?」

「合すること久しければ必ず分かる」

近年のイギリスのEU離脱や、米ロの確執、米・EUの対露制裁のニュースや、イギリスにおけるスコットランドの分離独立問題など、きな臭いニュースがあちこちに巻き起こっています。この物語の中国古典の掉尾(とうび)をかざる「三国志」きっての出典は、やっぱりこれでしょう。

すなわち、――

 

  分かること久しければ必ず合し、

  合すること久しければ必ず分かる

  (「三国志」より

 

――ということばです。

国と国とはくっついたり離れたりしています。それは古代中国にかぎったことではありません。分裂が長ければ必ずいつかは統一され、統一が長ければいつかは必ず分裂するというわけです。

これを「一治一乱」というわけです。

周王朝末の春秋・戦国の分裂時代。そして秦の統一時代。楚()と漢の対立時代。漢王朝の統一。そして三国鼎立(ていりつ)としての分裂。ふたたび晋(しん)によって五胡十六国・南北朝の大分裂。隋の統一。五代10国の分裂。北宋の統一。南宋と金との南北時代。元・明(みん)・清(しん)の統一へとつづき、時代は大きく流れます。

この分裂と統合――乱世と治世がくり返しおとずれるという考えは、すでに孟子(もうし)によって説かれています。孟子は「天下の生ずるや久しきも、一治一乱たり」といっています。

「一治一乱」ということばは、この孟子のことばです。

ここにあげた、「分かること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かる」ということばは、「三国志」の全編最後に登場することばです。そして、最初に出てくることばは何であったかといえば、「天下の体勢は、合すること久しければ必ず分かれ、分かるること久しければ必ず合す」、――つまり、ここにあげたことばが書かれているわけです。

この物語の冒頭で、乱世の到来がちかいことを、みごとに暗示させ、物語を首尾よく完結させていることがわかります。

戦国の乱世の覇()をきそった7国、――韓、魏、趙(ちょう)、斎(さい)、燕(えん)、楚()、秦(しん)――は、秦に併合され、秦の滅亡後には項羽(こうう)の楚()と、劉備の漢が争いを起こしますが、けっきょく漢が楚を併合し、天下を統一します。――その漢もいったん滅亡し、後漢の光武帝(こうぶてい)によって再興されたものの、献(けん)帝の代になって滅び、魏、蜀、呉の三国に分裂します。

この物語は、後漢末の乱世から三国分立をへて、西晋(せいしん)による天下統一にいたるまで、ほぼ100年にわたる物語です。

その後の歴史を見ると、その西晋もわずか37年のみじかい期間をのぞいて、隋がふたたび統一するまでおよそ300年間、大分裂時代がつづきます。

ぼくはときどき、宮城谷昌光氏の「三国志」を読んできました。

長期にわたり、「文藝春秋」に連載したものが本になりました。それが、とてもおもしろいのです。「三国志」について話す人は多いけれど、ほとんどは「三国志演義」に拠った話ばかりです。

それもおもしろいことはおもしろいのですが、ちょっと欲をだして、正史「三国志」に拠った小説を読むと、これまた、ずっとおもしろいのです。

日本の作家たちは、吉川英治をはじめ、たいていは読物としての「三国志演義」を下敷きにして書いています。もちろん、読物としてはこっちのほうがおもしろいからでしょう。

なかには、歴史に一度も登場しなかった人物を考案して、物語をいっそうおもしろく書いている作家もいます。

楼桑村の一青年、劉備(りゅうび)・字玄徳(げんとく)は、天下のために関羽、張飛と義兄弟を約(やく)し、「桃園のちぎり」をむすびます。世に打って出る!天下奪()りに立ちあがった劉備のこころに秘めた話から展開されます。

以来100年にわたる三国興亡のドラマが展開されるわけですが、正史「三国志」には、この「桃園のちぎり」などというのは書かれていません。そんなものはどこにも書かれていないのです。

「三国志」に出てくる登場人物の多くは、後漢の人びとです。

正確にいうと、三国時代になってからは、袁紹(えんしょう)や曹操(そうそう)もすでにいません。劉備は亡くなる寸前であり、「三国志」といえば、ほとんど後漢の物語といえます。

たいていは「桃園のちぎり」を交わした劉備を中心にすえ、曹操ら敵対する勢力を悪者にする物語として描かれています。そのほうがおもしろいからです。

しかし、じっさいはどうであったのか、歴史的にこれを見た場合、曹操という人は、並外れた才能を持ち、あの時代に何を求め、どういう人間を立てていったかをきちんと見ていくと、時代の主人公は劉備ではなく、曹操だったという気がしてならないのです。

しかし、曹操には運というものがなかった。勝つはずのいくさに敗れ、敗けるはずのない計略に、奸計(かんけい)うずまくネゴシェーション(交渉)のウラをかかれ、人間曹操のくやしさが描かれています。

しかし、曹操という人は、文武ともにすぐれ、彼自身詩人でもあり、仏教を取り入れ、竹簡に書かれた「孫子の兵法」を、わかりやすく編集した人物です。

ある人と「三国志」の話をしていて、

「ぼくもそう思いますよ」と、彼もいいます。

「ぼくは、《孫子の兵法》を読み、曹操のほどこしたすぐれた注釈を読んで、感動しましたよ」と彼はいうのです。

もちろん「孫子の兵法」は、日本でもかなり知られていて、読んだことがなくても、「孫子の兵法」ということばは知られているでしょう。

けれども、曹操が編集したことは、じゅうぶんに知られているとはいいがたいのです。曹操は「続孫子兵法」「太公陰謀」「兵書接要」「兵書論要」などの兵法書も数編書いていて、曹操は、兵法家でもあったのです。

もしも曹操がいなかったら、「孫子の兵法」は、果たして世に伝わったかどうか分かりません。21世紀のいまだからこそ、ビジネス環境の変化などで、「孫子の兵法」が見直されています。

なぜなら、「孫子の兵法」の特長である「数」、「算」という特殊な用語に裏打ちされた普遍的な純粋理論をまとめた思想書だったからだと、ぼくは思います。とくに問題を提起しているのは確率計算の方法です。

期待値、コスト予測、組合せ理論、集合論、代数幾何、位相幾何、戦争経済などのバランスシートや、産業経済政策、税制の適正、カントリー・リスクによる国力比較といった内容で成り立ち、アダム・スミスの「国富論」に匹敵するような、それもきわめて具体的な理論を展開しているからです。

「孫子の兵法」に曹操の考えを加えて、注釈書としてまとめた功績はひじょうに大きいとおもいます。それが、現在ぼくらが読んでいる「孫子の兵法」という本なのです。

現代の企業経営においても、計数をもとにしたシュミレーションやフィージビリティ(回収利益率)、ポートフォリオ(リスク分散)は不可欠な要素ですが、この考えをはじめて取り入れたのは曹操だったのです。

コンピュータ時代になって、曹操の「孫子の兵法」など時代遅れではないか、と思われる向きもあるかも知れません。しかし、けっして時代遅れではない。2500年まえに書かれた「孫子の兵法」を再生させたのが曹操という男で、この思想は、軍事・国防、国家の経済のかなめとなりました。

彼はまさに、2000年後の時代を先取りしているように、ぼくには見えます。

で、ここで「孫子の兵法」の中身に触れる紙幅はありませんが、そういう意味でも、「三国志」に描かれた曹操という人物に、もっと興味をもっていただきたいとおもっています。

さて、作家の宮城谷昌光氏は、先年の「オール読物」で、「文藝春秋」に連載中の「三国史」についてのインタビューに答え、「演義ではなく、正史を書く」といい、「蜀が滅ぶまで書きたい」といっていました。

「呉が滅ぶまで書きたいが、きっと書けないだろう」ともいっていましたが、彼は書いたのです。

宮城谷昌光氏の「三国志」を読むと、これまでの「三国志」とはぜんぜん違っていて、ぼくには、ちょっといい意味での驚きの本でした。

「三国志」の正統な歴史に登場しなかった人びとも大勢いて、それらは「外伝」というかたちで「オール読物」に連載されました。これらを併読すれば、とてもおもしろいとおもいます。

また、曹操という人物を推し量るものに、仏教があります。

中国語で仏教のことを「浮屠(ふと)」というのですが、中国大陸ではじめて仏教を取り入れた人物は曹操でした。それは、大乗仏教の「法華経」でした。それを魏の国教にすえています。

この話は、また別稿にくわしく書きたいとおもっています。

「髀裏(ひり)に肉を生ず」。――こういうことばがあります。その話をします。すると、彼は、ぼくの話を制して、そのまえにいいたいことがあるといって、しゃべりはじめました。

「じつは、張飛は、死ぬまえに、軍服をつくろうとして、人につくらせますが、それができないっていうもんですから、やつをボコボコにぶん殴ってしまうんです。そして酒を食らって、ひとり寝てしまう。そしたら、張飛は首をかかれて死んじゃった。――これが《三国志演義》のストーリーなんですね」

「そうですね。張飛ともあろうものが、そんなわけないだろう、というわけですね?」

「三国志演義」では、そういうことになっています。

「それじゃ、物語にならんというわけで、多くの作家たちは、別の物語を書いたんですよ」と、彼はいいます。この話はじつにおもしろい。ほとんどの作家が別の物語を書きました。

吉川英治はいうにおよばず、だれもがその部分を勝手に創作したのです。

「そういうことですね」と、ぼくはいいました。

張飛翼徳(よくとく)は「三国志」随一の豪傑で、劉備、関羽の義兄弟。長坂(ちょうはん)の戦いでは橋の上で仁王立ちし、曹操軍の追跡を、ただの一騎で追い返したほどの豪傑です。身長は190センチはあったでしょう。

彼は愛妻家で、妻薫香(とうこう)をこころから愛していました。しかし呉の致死軍によって、薫香も息子も惨殺されてしまいます。

張飛暗殺の命を受けた致死軍は、薫香をねらいます。

毎夜、亡き薫香を思い出して大量の酒を飲み、周瑜(しゅうゆ)につくした愛人の幽(ゆう)は、みずからの命を投げ出して張飛暗殺を請け負います。毒を口移しで盛られます。じぶんを殺そうとする女を、張飛はやさしく抱きしめてこんなことをいいます。

「おまえはもう、充分にやった。抱きしめられて死んでいく資格はある」(北方謙三「三国志」)といって、彼は幽の最期をやさしく抱き留めて、じぶんも生涯を終えます。――これは北方謙三氏の創作です。創作のほうがおもしろいのはいうまでもありません。

先日は、評論家みたいなTさんと会いました。

彼は昭和47年に明治大学を出ています。ということはぼくの後輩というわけです。先日、やおら15年ぶりに銀座で会いました。

Tさんは元電通マンで、まだ無名ですが小説を書いているそうです。定年退職後、どこかの会社の非常勤の仕事についているといいます。団塊の世代は想像もできないほど苦労をしてきたはず。

壮年期に世界第2位の経済大国に躍進した時代を経験しています。彼は、生きにくい競争社会を生き抜いてきたわけです。

ぼくは1942年の生まれで、就職試験というものを一度も経験していません。人が足りなかった世代に属し、就職先なんかかんたんに見つけられました。

というより、ぼくは人の紹介で3度も入社しています。その話をすると、Tさんは「そういう時代に生まれたかった」といいます。

「作家やジャーナリストは、早稲田出身者が圧倒的に多いですね。しかし、明治は、京都大学を抜いて3番目の人気ランキングを維持していますよ」といいます。

「ほう、そうですか」

「ぼくは、ほんとうのジャーナリストになりたかったですね。北方謙三さんは1947年生まれで、ぼくとほぼおなじ年。彼は法政でしたが、学生運動華やかなりし時代、彼は、ぼくとおなじ全共闘運動に没入しちゃって。……そういうわけで、ぼくは北方謙三の愛読者ってわけです」といいます。

「北方謙三さんは、学生作家としてデビューしましたか? 才能ある人だったんでしょうね」

「学生時代のことは知りませんが、彼の《三国志》はいいですよ。田中さんもお好きでしょ?」

「ええ、好きですね。北方謙三さんの全13巻、読みました。とにかく読みやすい」

「それはいえますね。すらすら読めちゃう」

「宮城谷昌光さんのは、どうですか?」と、たずねると、

「ちょっとむずかしい漢語がわんさと出てくる。あれはあれでいいんじゃありませんか。まだ、ぜんぶ読んでいませんが、……」

「ところで、北方謙三さんの《三国志》はどうですか? 冒頭の、桃園の契りの部分は脚色されていますね」とぼくはいった。

「北方謙三さんは、《三国志演義》に出てくる桃園の契りは、へんだと思ったんでしょうね。きょう会ったやつと、生まれは違っても、死ぬ日はいっしょだなんていう契りをいきなり結んじゃうのって、リアリティがないと思ったんでしょうね。だから、桃園の契りは書かなかった」

 

  《同年同月同日に生まるるを求めず、

  但()だ同年同月同日に死せんことを願う》

 

「そうかも知れませんね。……しかし、劉備、張飛、関羽の3人が出会うのですが、その出会いのシーンは、迫力がありますね。ただの出会いじゃないというか、……」

――このシーンを書いていて、きょう会ったIさんとの出会いもおもしろいとおもいました。あるスーパーで、突然出会って、昵懇の間柄になったのです。

 

 《良禽(りょうきん)は木を択(えら)んで棲み、

  賢臣(けんしん)は主を択んで事(つか)う》

 

「北方謙三さんの小説には、女がやたらと出てきます。

それもみんないい女たちなんですよ。薫香はいうにおよばず、――というか、その薫香ですが、どうも美人じゃないようですが、背が高くてスレンダーで、有名な説ですが、陰毛が腿(もも)の先まで生えていたそうですよ。剣を振らせたら男に劣らない。張飛の愛馬は汗血馬(かんけつば)で、彼女はそれを育てた」

「そうですね。――劉備に会いにいったとき、彼女は剣を佩()き、背が高いので張飛の従者のように見られた」

「身の丈が7尺5寸。当時としてはえらく高い。酒も強くて、料理の腕もなかなかのもの」

「張飛も料理はうまかったようですね」

「ほう」と彼はうなった。

「張飛がつくる野戦料理ですよ。豚一頭もってきて腹を裂いて、内臓を取り出し、そのなかにいろんなものを詰め込んで、……」

 

  《今久しく騎()せざれば、

  髀裏(ひり、ふともも)に肉を生ず》

 

「そうそう。……そういえば張飛は宴会の名手でしたね。張飛仕込みの野戦料理を、馬忠(ばちゅう)が1万の兵につくらせるシーンがありますね。戦国時代の武将は、そういう野戦料理にもたけていなくちゃならない。張飛はただの暴れん坊じゃなかった」

「いま出てきた馬忠は、180センチくらいあったらしいですよ、背丈が」とぼくがいうと、

「馬忠は劉備にしたがった武将で、孔明といっしょに南征し、東路軍を率いた。この男の話を、もう少し書いてほしかったですね」

「――というと?」

「馬忠は馬の調練をまかされるんですが、彼はもともと馬が好きで、自分は食わなくても、馬には食わす。江陽の守護神みたいな男で、民からの信望があつかった。そこんところをもっと書いてほしいと思いますね」と彼はいいます。

「それに、彼は無口だった」

 

  《多言して利を獲()るは、

  黙して言無きに如()かず》

 

「関羽の死も、感動的ですね。関羽が死んでから、《赤兎馬は数日間、秣(まぐさ)を口にせず、絶命した》と書かれています」そこで、ぼくは「うーん」とうなった。

 

  《人の中に呂布(りょふ)あり、

  馬の中に赤兎あり》

 

「赤兎馬(せきとば)という馬は、どういう馬をいうのかわかりませんが、汗血馬のなかの汗血馬というところでしょうかね? 汗血馬は秦の始皇帝の命をうけた張騫(ちょうけん)が引っ張ってきた馬でしょう?」とぼくはいった。

「そうでしょう。馬を手に入れたことで、南船北馬の時代がひらいていった。中国大陸は広いですからねぇ。山もあれば、川もある。そして海もある。草原もあるしね。……ことばも違えば、文明のありようも違う。そういう国に、漢字ということばが生まれた。部族によってみんな違った発音をするけれど、文字に書けば、意味は通じ合える」

ふたりとも、えらく熱を入れておしゃべりしました。Tさんは、最後にこういいました。

「《三国志》って、けっきょくは男の夢が潰(つい)えていく。だれも勝利しない。これは、ある意味で、どうですか、《滅び》ですかね? 滅びゆくものを夢見て生きていくんですね。われわれの団塊の世代もそうですよ。だれも勝利しないんですよ。そう思いませんか?」

ぼくは、Tさんのこのことばが、ぐさりときた。