■井上靖の詩に触れて。――

スをのんでのついた坂街を降りた」

こんにちは。

ちょっと少しまえ、ぼくは評論家の小林秀雄さんの話を書いておりました。

そこは稀代の文芸評論家のやることです。評論家が何を話したのかそれは書かれていませんが、しばらくして、3人のうちのひとりが、おいおい涙を流して泣きはじめたそうです。

小林秀雄さんは、小柄でもなく、大柄でもなく中背で、極端にスリムで、胆のすわった男です。この話は、文士仲間たちにも知られるところとなり、それを読むぼくら読者の知るところとなりましたが、三島由紀夫は、のちに「群像」にとても短い小説を一編書きました。

「荒野より」というタイトルがついた短編小説で、物語の主人公は作家の「わたし」です。そのまま読めば、三島由紀夫さん宅の書斎に押し入った泥棒の話かと勘違いされてしまいます。

これは人気作家が書いた小説なのですから、ひょっとすると、小林秀雄さん宅に押し入った強盗の話をヒントに書かれたものかも知れません。

ぼくは若いころ、同名の小説「荒野より」と名付けられた作品を書いたことがあります。ブログには載せていないかも知れませんが、三島由紀夫さんの書かれた「荒野より」は、とてもすぐれていて、記憶のなかでも鮮明にきらきら輝いて見えました。

くわしい筋立ては忘れましたが、微に入り細を穿った鬼気せまる描写が見事でした。それにしても、この話はずいぶんむかしのことです。

さて、石津謙介さんといえば、ぼくの先輩にあたる人で、明治大学の商学部を出られました。ぼくは石津謙介さんと会い、就職先にファッション雑誌を出している出版社を紹介してくださったのです。

当時、石津謙介さんはテレビ・メディアの露出もたいへん多く、あまりにも有名な方で、大阪市南区で創業したVANジャケットですが、やがて東京を拠点にして販路を拡大しようという矢先でしたから、ひっぱりダコで、なかなか会えませんでした。

1960年代、アメリカ東海岸名門大学8校のグループ「アイビーリーグ」に因(ちな)んで「アイビー」と呼びましたが、このアイビー・ファッションをVANブランドとして打ちだし、それが若者に受けて急成長を遂げました。

まあ、東京6大学のような感覚でしょうね。

ちょっと違うのは、学生が8校に入学手続きをするとき、かならず8校共通「Facebook」が手渡されます。創業者のマーク・ザッカーバーグが立ち上げた「Facebook」は、それを利用して、ハーバード大学の学生がより交流を図るための「Thefacebook」というサービスを開始したのがはじまりです。(本人の登録制による)。

ひと口にいって、これをアイビースタイル(Ivy League style)というわけですが、若い男性向きの服の型として、あくまでも直線的なシルエットのスーツでウエストは絞らず、肩当ても入れないという狭い襟で、3ボタンの2つ懸け(ときに両前4つボタン)、パンツもぐーんとほそくして、これをアイビールックと呼んでいました。

男性のファッション雑誌社に勤務して間もなく、ぼくは石津謙介さんに会いに出かけました。

こんどは連載記事の依頼です。

「ぼくは多忙のため、この人にやってもらいます」といって、くろすとしゆきさんを紹介されました。

それから、ぼくらはくろすとしゆきさんとの長いおつきあいがはじまったのです。スタイル画やイラストは、ジャパンタイムズ図案室の出竹孝二さんにやってもらいました。当時、ジャパンタイムズ社の社長は、平澤和重さんでした。ぼくも、何度かお目にかかっています。この方は、昭和20年代の東京オリンピック誘致のためのプレゼンテーションをひとり行なって成功させた方です。

そういう方です。

VANジャケットは、1978年4月6日に約500億円の負債を抱えて経営破綻しました。

その後再建。

会社更生法を申請した後の記者会見では「ファッションとは流れうつるもの。最近はひとりひとりの価値観が多様化してきているのに、それを商品化することができなかった」として消費者と取引先に謝罪の弁を述べました。

その後はフリーのファッションデザイナーとして活動する傍ら、衣・食・住のライフスタイルを積極的に提案していました。

学生時代に出会った先生方で、こころに残る教授といえば、英米文学の翻訳家でもある西村孝次さんと、中田耕治さんです。その話をしてみたいとおもいます。

大学で、教授といっしょに、外でコーヒーを飲んで談笑するなどというのは、ごくまれなことでした。そのまれなことをさせてくれたのが、中田耕治先生でした。昭和30年代のおわりのころです。

中田耕治先生は、翻訳はもちろんのこと、演劇の演出もやっておられ、「これからちょっと、ニューヨークへ行くので、……」という時間帯でも、気さくにぼくらと付き合ってくださる方でした。

「マリリン・モンローを書くのでね」とおっしゃいます。

というのは、先生の講義というのはたいへん変わっていて、「きょうは、どんな話を聴きたいですか?」と質問します。学生の希望にそって、いろいろおしゃべりすることが講義でした。

ですから、ぼくらは講義という堅苦しいかまえは少しもなくて、きょうはどんな話が聴けるだろうかと期待していたわけです。

先生は教室で、たばこを吸われます。

そこにコーヒーがあれば、なおけっこうというような雰囲気です。

当時、先生は尋常でないほど多忙をきわめておられたはずですが、学生相手に、めったに聴けない文壇の話などもなさいます。学生の提案に快く乗る方という印象を受けました。ぼくは何か質問をしました。

すると、

「それじゃきみ、来週、うちに来なさい。くわしく教えましょう」とおっしゃいます。うかがっても、いいのかなと思いました。

先生は千葉市弁天町に住んでおられ、友人のMさんと連れだって訪れました。それ以来、先生のお宅には何度も訪れました。

そして大学を卒業し、ぼくは都内の広告代理店に勤務しましたが、ある家電メーカーのカタログに、先生の談話を載せる企画を立てました。そのときのスナップ写真があります。

「でしたら、こんどニューヨークへ、いっしょに行きましょうか?」とおっしゃいます。ヘミングウェイがよく訪れたというレストラン「21」へ、一度行ってみたいといったものですから、中田耕治先生は、賛成してくれましたが、とうとう行く機会を逸してしまい、実現しませんでした。

「ぼくはニューヨークへ行くときは、このかっこうで、ジーパン姿で行きますよ」といいます。いかにも旅慣れた方なのだなと思いました。

「ほう、詩ですか。……こんど見せてください」というものですから、ぼくは本気で詩を見ていただこうと考え、先生に送りました。

すると、先生から手紙が来て、それには「この詩を読んで、感想を送ってください」と書かれています。「この詩」というのは井上靖の「梅ひらく」という詩でした。

 

北海道で不幸な姉は凍死したと言う。その報せが今宵私の所へやって来た。私はドスをのんで灯のついた坂街を降りた街区は森閑として人影なく、どこか遠くから微かに饗宴のさざめきが花の如く匂っていた。復讐すべき仇敵は誰であろうか。私は冷たい地べたに坐って星空を窺った。私は16歳の少年であった。

 

という詩でした。

ぼくはひどく驚きました。

井上靖の詩にはじめて触れた瞬間でした。すごく胆の坐った少年の、恐ろしいほどの男の決意を見る思いがしました。

「ドスをのんで……」という語感が、詩の全編にひびきわたります。それは、持っていきようのない、男になろうとする少年の怒りでした。