「荒城之月」 / 土井晚翠 詞 瀧廉太郎 曲 平井康三郎 編曲。

 

■「植うるつるぎに照りそひし」――

井晩翠「城の月」を読み直す

 

マンションの裏庭で、木に登って枝を伐っていたら、スマホが鳴った。

「ひと息入れませんか?」という。相手は、2階に住むKさんだった。

「いま、裏庭の木に登って、立ち木の枝を伐ってるんですよ」というと、

「きっとそうでないかって、おもっていましたよ。ヘルメットかぶっていますか?」という。そういわれるとおもった。

「かぶっていますよ」

オートバイに乗るときにしか使わない白いヘルメットだ。

時計を見ると、もう午前10時だ。ひと息入れるにはいいころあいだ。

むかし北海道のいなかでは、それを「小昼(こびる)」といって、秋田方面からやってきた20人ほどの若いお姉さんたちといっしょに田植え仕事をやっていたことを想いだした。一服して、みんなでお茶を飲んだり、たばこを吸ったり、何か口に入れたりしていた。

ふつう農家では、午前7時ごろから仕事をはじめるので、12時まで、腹になにか何か入れておかないとお腹がもたない。

むかしイギリスでは、午前6時ごろから小学校の授業がはじまった。上には上がある。

「これをどうぞ」といって、Kさんは何か差し出した。

饅頭の差し入れだ。

「コーヒーご馳走になります」とKさんはいって、室内に入ってきた。

ぼくはコーヒーメーカーのスイッチを入れる。書斎のデスクの上に、高島俊男氏の「お言葉ですが…」シリーズ第6巻が開いたままになっている。

「ほう、国語の勉強ですかい」という。

ほんとうは違って、三田村鳶魚か、稲垣史生ばりの時代考証の行きとどいたほんものの時代小説、――明治維新というものを書いてみたかったのだ。

それも黒船来航からはじめるのでは、あまりに曲がないと考え、関ヶ原が幕末の発端とすれば、そのへんから書こうかと考えていた。

《三百年の平和といってみても、文明の発展は禁じられ、鎖国で目は閉ざされ、キリシタン弾圧や宗門改めと思想のほうもまったく自由にならず、まして五代将軍綱吉の時代は生類あわれみの令で庶民はエライ目にあうし、国は三百以上に分断されてしまうし、……》という具合で、15枚ほど、書くには書いてみたけれど、そんな話はおもしろくない。

日本が躍動していたのは、やっぱり18世紀後半だろうなとおもい直す。

平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、司馬江漢、小田野直武、荒井圧十郎、大槻玄沢、桂川甫周、林子平、工藤平助、大黒屋光太夫、青島俊蔵、最上徳内らがでてくる知識欲にほだされた風雲児たちの時代がおもしろかろうとおもい直したわけである。

同時に、先日から、ぼくの頭のなかでは国語問題がずっとつづいていて、国語ってむずかしいなあとつくづくおもっていたところだ。きのうからきょうにかけて、考えていたことを整理してみると。

ぼくは、おりにつけ、高島俊男氏の本を読んでいる。

氏の「お言葉ですが…」シリーズ(文藝春秋社)は、よく知られているらしいが、この方は中国文学のご専門で、多くの著書がある。

ぼくは若いころから「三国志」を読んできたので、高島俊男氏のご著書に触れる機会がけっこうあった。「三国志 きらめく群像」とか、「漢字と日本人」、「李白と杜甫」など読んできたが、シリーズ「お言葉ですが…」の第6巻目を読んでいて、土井晩翠の「荒城の月」のなかに、解釈がとてもむずかしいという話が出てくる。

「荒城の月」は、いまさら改めていうまでもなく、土井晩翠の名作とされている。だが、ふしぎなことに、「土井晩翠全集」には収録されていないそうだ。それはいいとして、どこがむずかしいのかというと、まず詩をご覧いただきたい。

 

 春高樓の花の宴

 めぐる盃影さして

 千代の松が枝わけいでし

 昔の光いまいづこ。

 

 秋陣營の霜の色

 鳴き行く雁の數見せて

 植うるつるぎに照りそひし

 むかしの光今いづこ。

 

 いま荒城のよはの月

 變らぬ光たがためぞ

 垣に殘るはただかつら

 松に歌ふはただあらし。

 

 天上影は變らねど

 榮枯は移る世の姿

 寫さんとてか今もなほ

 ああ荒城のよはの月。

 

――となっていて、第2連の「植うるつるぎに照りそひし」が、どうもわかりにくいというのである。

軍隊経験のないぼくには、わかるはずもなく、いま読んでいる高島俊男氏の第6巻目の本「イチレツランパン破裂して」という本のタイトルでさえ、ぼくにはちんぷんかんぷんなのである。まずもって、これはいったい何の話だろうとおもう。

こういう話に、ぼくは格別の興味があって、おもわず本に手がのびた。彼は結城昌治氏の「俳句つれづれ草」を引用して、

「一月談判破裂して日露戦争始まった」という説を紹介している。

これは数え歌なのだ。それがどうしたわけか、「一月」が「一列」に変化し、「一列談判」と歌われているというのである。

ついでにいうと、日露戦争に従軍する兵士に、ある薬を持たせていた。それは「征露丸」というもので、征は「征服」、露は「ロシア」、丸は「弾丸」を意味しており、その黒い粒は、そういわれてみると弾丸みたいだ。

こんな薬によくぞ命名したものだとおもう。

それじゃロシアに悪いとおもったのか、戦後は「正露丸」に名前を変えた。

こういう記事は辞典にもちゃんと載っている。これは大幸薬品の登録商標だが、「正露丸」はすでに普通名称化しているという判決が1974年と2008年の二度にわたって最高裁で判決が降りているそうだ。

どの会社が「正露丸」を商品名として使用してもいいという判決が下っている。

これによって、ラッパのマークのない正露丸がたくさん出てきたというわけである。

つい余計な話をしてしまったが、さて、「植うるつるぎに照りそひし」だが、この解釈はゴマンとあるようだ。どれが正解なのか、そういうことは、ぼくには国語的な解釈を超えているように見える。

作詞をした土井晩翠に訊ねてみたくなる。

歴史を見ると、1月に日露交渉が頓挫し、2月に開戦しているので、「イチゲツ」と読ませることはできそうだ。これが「イチレツ」に変化してしまったというのだろうか?

だが、高島俊男氏は、「イチレツになるのはやや不自然」といっている。これは、「一列談判」からきているのではないかという別の説もあって、よくわからない。

さて、「ラッパン」とは何だろう? 

「談判」からきているという説があって、これもよくわかっていない。

意味もわからずに歌っているうちに、なんだか気づかないうちに「イチレツラッパン」になっていったという説に、ぼくなどはしぶしぶ納得してしまいそうだ。「ラッパン」は「ダンパン」より破裂音がつづいて、リズミカルに響く。

さて、「植うるつるぎ」の話だけれど、「植うる」は「植える」のふるいいいまわしである。それはわかるのだけれど、何を植えるのかとなると、「つるぎ」だと書かれている。もちろん剣のことである。

剣が「植うる」というのだから、ちょっとむずかしい。

剣が植わさっているという表現が、詩によくあらわれているというのだが、この光景は、ぼくにはちょと想像しにくい。

満月の夜、敵の大軍が城を取り巻いている。城兵たちはみんな石垣にのぼり、刀を抜き鞘を打ちはらって敵の攻撃にそなえ、まもなくはじまろうとする刀を交える瞬間、それにそなえているという。

城内の緊張感と荒涼とした外の光景のなかで、ふりかざした何100という白刃が月の光に照らされて冷たく光って見える。――このような光景のなかに、力つきて斃れた兵のそばで、地面に突き刺さった剣が、あたかも地上に植えられたかのように見えるというのであろうか。

このような光景なのではないか、というのがぼくのあやふやな感想である。

ここでいう「荒城」というのは仙台青葉城という説と、会津若松の鶴ヶ城であろうという説があって、それにくわえて大分竹田の岡城だろうという3つ説があるようだ。そのうち実際にいくさがあったのは、どこだろう? 

戊辰(ぼしん)戦争のときの鶴ヶ城だけだったというので、いまはその説が有力視されているようだ。しかし、そうするとへんだ。

そのときは剣ではなく、敵方は大砲の弾をばんばん打ち込んでいたから、剣ではもとより勝負にならないはずである。城のなかにいては、月も見えない。

月明かりが、剣の所在を照らしているというのだから、これはどういう場所での戦いなのだろうとおもう。

詩人は「植うるつるぎ」と書き、「植う」というのはワ行の活用動詞で、「植ゑる」「植ゑたり」と活用するので、「植うるつるぎ」というのは、剣が地面に突き刺さっている状態を描写していることになりそうだ。「交わる」はむかしはハ行で「交ふる」と書き、交へず、交へたりと活用する。

間違って「交ゆる」と書かれることがあるようだけれど、その論でいくと、「植うる」はやがて「植ゆる」になっていった可能性がある。「植ゆる」はどう考えてもへんだ。――このように、日本語はむずかしい。――と、ここまで書いて、なんだかわかったような気持ちになるが、しかし、これはどうも違うようだ。

東北地方では、城兵の行事に、早朝みんながあつまって剣を天に向けて突き上げることがあって、城壁からその光景をながめると、田植えのあとの稲穂のように見えるというのである。

たぶん、それだろうという説がある。

むかしいくさの必勝を祈願して、刀を地面に突き立て、祈りをあげる儀式があったらしい。これかもしれないという説があったりして、諸説紛々である。

刀が刃こぼれすると、つぎに使える刀を地面に突き刺しておいて、それで戦ったという説や、落城した城址に、あるじのいない剣が、そこかしこに散乱し、刀が地面に刺さって月がもの悲しい情景を映し出しているという説や、戦死したサムライたちの墓標の上に突き刺した刀だろうという説、ほんとうは「飢うるつるぎ」なのではないかという新説など、いろいろありすぎる。

昭和女子大学の岡保生氏の「《植うるつるぎに照りそひし》考」という論文によれば、守備のために、城壁や陣内に、敵陣を寄せ付けないように、刃を上にして地面に植えている剣だろうと書かれているらしい。ぼくは未読だが、そういうことも考えられるなとおもった。

しかし、ほんとうはそうではなく、夏目漱石の「趣味の遺伝」に書かれているように、「空に研ぎ上げた剣を懸けつらねた如く澄んでいる」という文章を取り上げ、「植うるつるぎ」は、「一片の雲もない、澄み切った無限の空をいうのだと見られよう」と書かれている。

さあ、困った。――ぼくは、そこまでは考えがおよばなかったので、最後はほとんどおどろきである。

このたび、ぼくはいろいろな考えに接したが、「植うるつるぎ」をめぐる論文はたくさんあることも知った。

後藤英明氏の「名歌《荒城の月》の歌詞に関する一考察」(宮崎鉱脈社、平成13年)によれば、100ページのうち9割がこの「植うるつるぎ」論になっているそうだ。

それによると、「荒城の月」の第2連に出てくる「秋陣營の霜の色、鳴き行く雁の數見せて――」というのは、上杉謙信の七絶「9月13夜」の前連、つまり「霜満車営秋気清、数行過雁月三更」から採られたものだろうという。

ぼくにはわからない。まさか上杉謙信が出てくるとはおもわなかった。

ぼくはどうしたわけか、高校生のときに読んだきり、以来、晩翠の詩を読んだことがなくて、英文学者としての彼の活動もくわしく知らない。晩翠はいかにも男性的な漢詩調の詩風をものする詩人であり、ナイーブな女性的な作風の島崎藤村とならんで、「藤晩時代」を築いているのだが、その後は、時代はどちらかというと藤村のほうが歓迎され、いま晩翠は藤村ほど読まれていないようだ。

しかし、「荒城の月」は、藤村以上に親しまれているだろう。このたびは、高島俊男氏の本を読んで、たいへん刺激を受けた。