■アーネスト・サトウの日記抄。――

い崖」(14巻)んで以来……

 

アーネスト・サトウ

 

ぼくは、人の書いた日記を読むのが好きです。ふるくはあの長大な「ピープス氏の日記」、綿々と女の感情を書き込んだ「アナイス・ニンの日記」など。その他、寿岳文章、河盛好蔵、戸板康二、宇野千代、富岡多恵子らの日記も、若いころからおりにつけ読んできました。

先年から、ぼくは萩原延壽氏の書かれた「遠い崖」(朝日文庫)を読んでいます。

回想録「一外交官の見た明治維新」で知られるアーネスト・サトウ(1843‐1929年)が、遺言で寄贈したのがサトウ文書です。

その中身は、イギリス外務省通訳生として18歳で日本に旅立った日から約65年間にわたる45冊の日記が多くを占めています。

これを萩原延壽氏は、みずから読み解いた日記を軸にして「遠い崖」というタイトルで、1976年から90年にかけて朝日新聞に連載した労作です。それを加筆修正して、全14巻として出版されました。

ざーっと、生麦事件から西南戦争のあとまでの激動の日本を、数々の外交文書や書簡を織り交ぜて、そのころの時代を多角的に描写しています。

新聞掲載のときに、ぼくはところどころ興味のある部分だけを切り抜いて読んでいましたが、あまりにも膨大で、あまりにも詳細をきわめ、ときどき目を見張るような文章に触れ、ほとんどなじみのない記事の影で、時代が大きなうねりを見せ、外交日記というこの新分野の醍醐味をおもしろく読んできました。

通訳で、情報収集の仕事に打ち込んでいたサトウは、勝海舟、徳川慶喜ら幕府側の要人だけでなく、西郷隆盛、伊藤博文ら倒幕派とも積極的に交際していることがわかります。明治2年までの7年間は、サトウは、日本におけるイギリスの政策の中心人物でもあったようです。

日記に登場する人物や事柄は多岐にわたっていて、萩原延壽氏のあとがきによれば、「ただ筆者の想像力を刺激する対象に向かって、ひたすら書いていくうちに、結局『サトウとその時代』を描くことになってしまった」と書いています。

本文を読めば読むほど、サトウを主人公にして、サトウの目を通した日本近代の歴史の生成という大きなシーンを描いていることがわかります。

そのバックボーンはサトウの日記ですから、これはもう小説にほとんど近いものといえそうですが、そこに綴られている文章は、多くは姿かたちのある書簡や外交文書です。ぼくは、サトウの魅力にどんどん引き込まれていきました。

明治政府が独自にスタートすると、サトウは古神道を論じたり、英和辞典をつくったり、幅広く日本学にも力をそそぎました。とうぜんその足跡も追っています。関係者の子孫をたずねて史料の欠落した部分を埋めたり、あらたに聴きおよんだ新資料も収集し、ときに、同僚だったウイリアム・ウイリスらとのこころ温まる友情を描いていたり、植物学者だった武田久吉らその息子たちとの交流も描き、これまで知られていなかった人間交流も生き生きと描写しています。

もとより、連載していたときから多くの内外の関係者から、髙く評価されていたようです。

2001年8月、ながい苦闘の執筆を終えて妻の宇多子さんを見送り、その10月24日、出版完結を見届けて萩原延壽氏は亡くなられました。

「あとがき」には、「いまは、ただホッとしているというのが実情である」と、さりげない述懐のことばが書かれていますが、このことばには万感がこもっています。

2002年1月、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」(朝日新聞社刊)が大佛次郎賞を受賞しましたが、それは死後のことでした。

選評のなかで、吉村昭氏のことばが光っています。

「幕末にアーネスト・サトウとウイリアム・ウイリスというふたりのイギリス人が来日したが、このふたりに焦点をあてた着眼が素晴らしい。幕末、明治政府樹立に諸外国中最も強く関与したのはイギリスで、幕末の生麦事件以来の出来事にサトウは外交官として、ウイリスは医師として直接接触し、それぞれの日記、書簡類に記録している。(略)氏は、14巻におよぶ大著の完結発刊直後に世を去られたが、意義ある仕事をなさいましたね、と心から申し上げたい。」

 

2010年ごろの田中幸光

 

ちょっと蛇足ですが、「サトウ」という名前についてひと言。

ぼくは、学生のころ、このアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の名前を見て、日本人の血が入っているのか、とおもっていました。英文のつづりを見るとわかりますが、イギリスはロンドンで、スウェーデン人の父とイギリス人の母との間に生まれた3男坊でした。彼の子孫はもともとアイルランドにあり、古くは「Satow」姓があったらしいのです。くわしいことはわかりません。