小説 鍛冶屋のおじさんとジョン・ラスキン、ふたたび
ぼくはよく子供のころのことを想いだす。
村に一軒しかない鍛冶屋のおじさんは、ふいごの火で真っ赤に焼かれた蹄鉄(ていてつ)を、打ったりなめしたりして、なんの苦もなく、見る見るうちに、かたちを変えていくのである。その手、その金床(かなどこ)、そのハンマーが、設計図もないのに、物をつくるという意味をどんどん伝えていく。ぼくは、それを見るのが好きだった。
「ふいご、ぼくもやってみたいな」といったら、
「そうか、じゃやってみろ!」とおじさんはいった。
じっさいにやってみると、こんなにしんどいのか、とおもった。
おじさんは左手で軽々とやっていたのに、ぼくはこれさえも根をあげた。こんなに重いのかとおもった。だが、ひと押しひと押し、焔(ほのお)が立ち上がり、焔で汗をかきながら、ぼくはふいごを押しつづけた。
「いいぞ、その調子だ!」とおじさんはいった。
雑草の生い茂る土塀に凭(もた)れていると
あの風の音と、おじさんの掛け声が聞える。
吹子(ふいご)の風を送れ! 手を休めるな! と。
樋(とい)のあるあの橋のうえに立つと
ぼくは溺れていく自分の姿を見る。
溺れたために、フナの巣穴にたどりつけたのだ。
ぼくはそれを知る――魚たちもそれを待っていると。
おばの魂が風になり、耳もとをかすめる。その風が
ぼくに書け! と命ずる、あの風の物語を。
ふー、ふー、ふー、……。吹子は火を育て
烈火の炎で鉄をなめす。風は火となり
ぼくの心をはげしく焦がして。
ひとりの馬丁も、それを待っている。蹄鉄が風で熱せられ、
汗をかき、茹であがって、金床(かなどこ)のうえで打ち叩かれ、
この世の試練を、嫌というほど受けるのだ。
ジョン・ラスキンの「シャベルとつるはし」の話を、いつ読んだのか、もうおぼえていない。そこには労働する意味が書かれている。
《じゃベルとつるはし、それは諸君の細心な注意と諸君の学問である。溶鉱炉、それは物を考えるあなた方自身のこころなのである。この道具と、この火なしで、諸君は立派な著者のこころを会得できると考えてはならない。》
こんなことが書かれている。
ジョン・ラスキンは、富裕な葡萄酒商人のひとりっ子として、ロンドンに生まれ育った。
だからといって甘やかされて育ったわけではない。一般的に彼のことを、美術評論家と呼ばれているらしいが、ぼくには、「シャベルとつるはし」のような著作をとおして、人間としての生き方を教えている人、そんなふうにおもえる。
北海道の田舎は、何もない田舎だが、ぼくにはなんでもありの田舎だった。なければ作りだすのだ。鍬の刃も、馬の梶(かじ)棒も、蹄鉄(ていてつ)も、なんでも作りあげる。
この「作る」ということに意味があるといったのが、ジョン・ラスキンだった。ぼくにとって鍛冶屋のおじさんは、それで商売しているのだが、商売っ気がありそうで、ちっとも感じさせないおじさんに見えた。子供のいうことをよくきいてくれるおじさんだった。
とぎとぎ粘土で別の物を作った。それで小さな馬を作ったりしたが、鉄で物をつくるようにはいかない。
見てくれは、とても不細工な代物だった。だが、ぼくはおじさんの話が好きだった。子供用のあぶみをつくってくれたのもおじさんだった。可愛いやつだ。
中学生になると、もう子供用のあぶみを使わなくなったけれど、それでも厩舎の壁に、ずーっとぶら下がっていて、近所の子供らを馬の背に乗せるとき、おもい出してそれを使ったりした。
♪
ヘンリー・ヴァン・ダイクの「一握りの土」という文章を想いだす。
土が主人公になった小説である。土は轆轤(ろくろ)にのせられ、くるくるまわされ、何か知らない力が加わって、土は、自分がかたちを変えながら、別の創造物になっていくのを実感するという話だ。
テーブルの上に置かれる花瓶かもしれない。
やがて火入れがおこなわれ、しこたま熱せられ、窯(かま)から取りだされると、暗い納屋に入れられ、敷かれた板の上に置かれる。
これほどの忍耐と苦悶を味わわされたが、やっと、これからは希望の未来がはじまるのか? と彼はおもう。まさか王様の御殿に飾られるわけじゃあるまい。できあがったのは植木鉢だった。
「なぜ、わたしをこのようにお作りになったのです?」
土は、不満を抱いていた。
土の器はやがて温室に入れられ、あたたかい日差しを浴び、水がそそがれた。ある日、大きな教会に連れていかれた。そこで、自分とおなじ植木鉢に声をかける。
「なぜわたしは、ここに連れてきたのでしょう? みんなは、なぜわたしを見るのですか?」
「あなたはユリのなかでも王さまみたいに、美しい花を持っていますね。それは、あなたのユリが、世界でいちばん美しいからです。その花の根っこを、あなたが抱えているからです」という。
土の器の話が描かれている、ただそれだけの小説なのだが、ぼくの知る鍛冶屋のおじさんも、多くの土の器を作ってくれた。できの悪い器たちも、もらって帰ると、ぼくは、家族のあつまる居間の出窓に置き、季節の花を飾ったりした。
もう、はるか遠い過去の世界だ。