■映画「砂の器」をどう見るか? 2 ――

本忍作品としての《の器》

 

――こういう物語を構成する作家のとっぴなアイデアは、いったいどこから湧いてくるのだろうとおもう。東北弁は、福島、山形、秋田、青森、岩手、宮城の6県ということになっている。

しかし、大島正健という学者の書いた論文を調べてみると、なんとなく「ずーずー弁」に似た発音をする地方が、ぽつんと出雲地方にあることが分かった。

物語はそういう展開になっている。

 

松本清張

 

文部技官に会ってきいてみると、

「出雲一国を細別すれば、飯石郡の南部は中国系で出雲方言でないのに、石見の安濃郡(あんのぐん)は、出雲系です。出雲の音韻は東北方言のものに類似していることは、古来有名です」という。

たとえば、「ハ」行唇音があること、「イエ」、「シス」、「チツ」の音にあいまいさがあること、「クゥ」音があること、「シェ」音のあることなどが分かった。

さらに、「出雲国奥地における方言の研究」という本によれば、「出雲弁」がずーずー弁と呼ばれており、一般的にはこれを「出雲弁」と称していることも分かった。

東條操編の「日本方言地図」にもはっきりとそのことが記載されているという。

小説「砂の器」に、こうした論文の一部が登場するのである。

これまでだれも書かなかった方言に着目して、殺された人間の過去を洗う。

その過去から、彼が三木謙一という人物であることが分かり、彼は、10年以上前まで、この地方で巡査をしていたことなどが分かってくる。――そういう展開である。

言語学者でない刑事には、むずかしいことは分からないが、東北特有のずーずー弁が、ほかにも存在するという点に興味を示した。

ひょっとしたら、殺人者は、そのずーずー弁をしゃべる被害者と同県だったのではないか。蒲田のトリスバーでいっしょに酒を飲んでいた相手というのは、30歳ぐらいの若者だったという。しかし彼は標準語をしゃべっていたようだという。

犯人は、その若者ではないか、と刑事はおもった。

その若者と元巡査との接点がどこにあるか、方言から割り出して、真相に迫ろうとする刑事の執念がこのドラマの見どころである。

問題は、「カメダ」と「カメダケ」の違いである。

しかし調べていくにしたがって、最後の「ケ」はこのずーずー弁では、語尾が不明瞭に発音されるということが分かってきた。東京のトリスバーで聞いた女性には、語尾の「ケ」は聞こえなかったのかもしれない。

標準語では、この「亀嵩=かめだけ」は、どう読んでも「カメダケ」と読んでしまう。しかし、方言では「カメダ」に聞こえてしまうというところに、この小説のおもしろさがある。

作家松本清張の父親は、ひところ、出雲に居を構えたことがある。そのころ、清張も、子供ながらに父親を訪ねて出雲方面に行くこともあったのだろう。そこで、知りえた情報をずっと覚えていて、小説に書いたのではないだろうか。作者の実体験がそこにあったとおもわれる。

作家というのは、どんなにささいなことでも、体験上知りえたことは、なんでも利用する。それにしてもすばらしい思いつきである。

――この「砂の器」を読んでいて、犯人は返り血を浴びたシャツを切り刻んで、それをある女性に持たせて、汽車のなかから紙吹雪のように車窓の外に流すというシーンのあったことを思い出す。そのアイデアに、ぼくは度胆を抜かれた。

紙吹雪のように何か白い物を捨てた女性は、甲府から汽車に乗り込んできた女性だった。彼女は、塩山から勝沼にかけて、――これは地図で見ると、ほんの短い距離だ。彼女は車窓から紙吹雪を流す。

 

現在の亀嵩駅ホーム

 

しばらくおいて、初鹿野と笹子のあいだでも「小さなケースから何か握っては窓の外に捨てはじめ」る。「窓の外を何気なく見たのだが、暗い中に白い小さな紙が吹雪のように、風に散っている」というのである。

このシーンは、あとで重要な物的証拠に結びつくが、当の女性は、どういう理由からか自殺する。それは、返り血を浴びたシャツだった。遠目には紙吹雪のように見えたのだろう。

このシーンは、小説では刑事が出雲に行くずっと前の第5章に出てくる。松本清張が推理小説史に残した功績は大きい。

のちに、評論家の小松伸六は、ミステリーとしてのおもしろさはまず「被害者が使ったという東北弁から、被害者の身元を洗ってゆく、その捜査過程」にあると明言している。この物語の経過は「いくつもの伏線をはじめとする巧みな技法に支えられ、構成を不動のものとしている」とのべ、最終章まで、その緊張感を持続させているところが、すばらしいとおもう。

空襲によって戸籍が消失し、それを悪用してじぶんを別人にさせるという序破急の展開。――それぞれに周到に計算されているようだ。読者の真犯人予想を錯覚させるような叙述も、本格推理としての成功を物語っていると評家たちは書く。

さらには、社会性に注目すれば、差別を受けて生きていくハンセン病が書き込まれることで、全編に戦後の「重く、沈んでいくような暗さ」が強調され、ひとりの若者の宿命的な旋律となって浮かび上がる物語になったと。

推理小説に、「動機」を問題視したのが松本清張だった。

この後「砂の器」は何度もリメークされて、テレビドラマ化されてきた。

このたび観た「砂の器」は1995年に作製されたもので、これはテレビ朝日系で全国放送された。制作は電通・テレビ朝日。ぜんたいに、小説「砂の器」をなぞってつくられている。主演は佐藤浩市。――蒲田操車場での惨殺死体発見のシーンは、小説のほうがリアルだ。

この物語に登場する人が3人も殺されるが、ひとりは元巡査の三木謙一である。彼の殺害方法は古典的な方法で殺している。

 

 

 

 

しかし、あとの2人、――舞台俳優の男宮田邦雄と、評論家・関川重雄の愛人である三浦恵美子の殺害については、「殺された可能性がある」というだけで、映像では説得力がなかった。

宮田邦雄は心臓発作で、三浦恵美子は流産によって死んだことになっている。前衛劇団のスタッフだった彼女は、和賀英良の愛人、――つまり、「紙吹雪の女」のことだが、彼女、成瀬リエ子は、将来を悲観して自殺している。

自殺はともかく、殺害は果してどのような手口で殺したのか、見る人には、何もうかがい知ることができない。

後半部分は小説にはほとんどない。――名前を替えた主人公、和賀英良が、子供のころ、学校の体育館でピアノの音色にはじめて触れ、そのときの感動の場面があらわれる。ダム建設で、この村の一帯がダム湖に水没し、廃校になるという設定で、そこに彼があらわれ、ピアノを弾く。これは小説にはない物語である。しかし、とても映像的なシーンだった。

彼の父、本浦千代吉は、数年まえに肺結核で亡くなったことになっている。

父の写真を見せられ、和賀は「これは父です」と告白する。まさに、ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくる犯人ラスコーリニコフのような告白なのである。

このあたりは、映画の物語であり、ハンセン病患者という設定を避けている。

この映画が上映されたときは、ハンセン病はもう隔離の必要のない病いに認定されていて、ハンセン病患者の複雑な社会的な問題を避ける意味で、本浦千代吉は傷害事件を起こして服役中に亡くなったことに話を摺り変えている。

しかし、この物語の昭和36年現在、ハンセン病患者はひどいあつかいを受けていた。

この映画の見せ場は、

ハンセン病患者の息子として、世間からは虫けらのようにさげすまれて生きるしか方法がなかった。その彼の過去を描き、そしてほんとうにあった過去の人生を、葬り去ることだった。

本浦秀夫が和賀英良になりすます、その動機はそこにあった。

 

彼の人生のターニング・ポイントは、昭和24年、大阪府浪速区恵比寿町2―120番地の、空襲で亡くなった人の戸籍を発見したことにはじまる。

秀夫はその家の息子、和賀英良になりすまし、ハンセン病の子という、じぶんのいまいましい過去を消去湮滅(いんめつ)することに成功する。

しかし、映画では、この「ハンセン病」といういまわしい過去を取り外してしまったため、和賀英良の犯行の動機はぐーんと弱められた。こんなことで、人を殺せるか、という疑問がわく。

それでも、和賀英良が手に入れた栄光の座を、失いたくないためにじぶんの過去をひた隠しにかくし、父の写真を見せられても「知らない」とうそぶく。そこに、戦後の脆弱な、偽善の成りあがり的な栄光に批判を浴びせている。

「この人を知らないというのか? ……おまえさんの父親だよ!」という老刑事・今西栄太郎のことばに、和賀英良のこころは揺れる。

映画では、その父がハンセン病であることが描かれなかったため、たんなる犯罪者としての和賀英良になってしまった。そのため、映画では、その社会的な波紋はあまりに小さく、和賀ひとりの犯罪にまとめ過ぎた。

そうではなく、松本清張の意図するところは、戦後日本の、だれにでも起こり得る悲しい現実の幻影を描くことだったとおもう。

和賀英良はそういう意味では、戦後の混乱した時代を生き抜いてきたひとりの男の幻影的な成功者であった。それは砂の器にも似て、たちまち崩れ去るしかない。

偽りの栄光への階(きざはし)をのぼりつめようとする男の、悲しい物語だったはず。それは、ひりひりするような現実感が伴うだろう。

そういう意味では、和賀英良は、戦後社会の犠牲者であったとさえいえるのである。

文芸、映画作品を問わず、感動は人によって違うだろうけれど、ストーリーとしては、小説よりも今回の映画「砂の器」のほうに軍配があがる。だが、テーマとしては、前回観た橋本忍脚本の「砂の器」のほうが断然いい。勇を鼓舞して、あえてハンセン病患者を描き、本浦秀夫の運命を変えていったみずからの犯行の動機が、浮き彫りにされた点では、前作におよばない。

そういう人間の拠()ってたつ犯行への動機は、ひとりの人間、和賀英良その人に帰すべきものではなく、彼がそうせざるを得なかった戦後日本の社会的背景にこそ、問題があったのである。松本清張はそれを描こうとした。

さっきぼくは、この犯罪は「だれにでも起こり得る悲しい現実」であると書いた。

もしも自分がハンセン病患者の父を持っていたなら、じぶんもまた本浦秀夫になったかも知れないということである。ながいあいだ、われわれは、ハンセン病患者を国が保護してこなかったという大きな社会的な反省の歴史を背負っている。

ひるがえって、文学は、ひとりの主人公を描くと同時に、なぜ主人公が犯罪に手を染めていったのかという、大きな動機を描くことで、生きた人間の赤裸々な側面が描写することができる。――そういう意味では、松本清張文学は、戦後文学の中心にある土台をすげ替えた作家、そういえるかもしれない。

彼は、あくまで人間一個の責任にしてしまわない。それは生きにくい戦後社会がそうさせたという作家としての執筆スタンスを貫いた結果なのである。

2016年2月15日、ハンセン病にたいする国の隔離政策で差別や偏見が助長され、家族の離散や苦しい生活を余儀なくされたなどとして、元患者の子どもら家族59人が、国に総額2億9500万円の損害賠償と謝罪などを求め、国家賠償法に基づく初の集団訴訟を熊本地裁に起こした。

そして、同年4月25日、ハンセン病患者の「特別法廷」で、最高裁が異例の謝罪会見をおこなった。

かつて裁判所が、ハンセン病の患者の裁判で、彼らを隔離した問題について、最高裁判所は「差別的に扱った疑いが強く、患者の人権と尊厳を傷つけた」とする報告書を公表し、異例の謝罪をした。そのいっぽう、有識者などから「憲法に違反していた」と指摘されていたことについては、これを認めなかった。いまも決着しない問題を残している。

 

橋本忍の名前に覚えがなくとも、「羅生門」「生きる」「日本のいちばん長い日」「砂の器」といった日本映画の名作の数々を描いた人といえば、すごい仕事をした人というイメージが湧く。2018年に100歳で大往生を遂げた「戦後最大の脚本家」といっていい。波乱万丈の生涯を送った人なのである。