オスカー・ンドラー、最後の

 

映画「シンドラーのリスト」より
 

おはようございます。

さて、いきなりですが、じっさいの話、ストーリー作家にとって、「美徳(virtue)」ということほどあつかいにくいことばはないだろう、とおもう。誤解を招くおそれが多分にあることをいつも痛感している。

人間がもつ邪悪な側面にそってストーリーを描くなら、訳知り顔で、もっとも辛辣な物語を描くことができるはず。平和の時代の「正義」は、戦争の時代になってもろくも崩れ去り、なにが正義なのか、なにが平和なのかを考えるいとまもなく戦争へと駆り出される。

「狂気の戦争」としばしば呼ばれるのは、まさにそうした理由によるだろう。

戦争が終わってみれば、いつの世もあとは軍人ではなく、政治家や外交官たちの手にゆだねられる。

古代ギリシャ時代の由緒ある「美徳の哲学」は、その時代の政治力学(りきがく) ――political dynamicsにゆだねられるというわけである。シェイクスピアのロミオとジュリエットの悲恋も、ふたつの心の舵取りを誤った結果と考えられていて、人間の内にひそむ対立するふたつの心、――理性でコントロールする品位ある心と、本能のなすがままに動く野蛮な心を、薬にも毒にもなるハーブやプラントにたとえている。セリフのなかに「薬効(virtue)」という語が出てくる。――ふつう、この語は「美徳」などと訳される。

 

 

John Willams Schindler's List.

 

映画「シンドラーのリスト(Schindler's List)」や、「プライベート・ライアン(Saving Private Ryan)は、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画で、日本では前者は1994年2月に公開され、後者は1998年に公開された。

「シンドラーのリスト」には原作があった。

オーストラリアの作家トマス・キニーリーの「シンドラーのリスト」である。

トマス・キニーリーは1980年、カリフォルニア州ベアトリー・ヒルズを訪れ、とある鞄店に入り、ブリーフケースの値段をたずねた。店主のレオポルド・ベファーベルクは「シンドラーのリスト」の生き残り組のひとりだった。そこで、著者は、オスカー・シンドラーというドイツ人のことをはじめて知る。

シンドラーは美食家でもあれば思索家でもあり、女たらしでもあり、矛盾した性格の見本のような人間だったことを知り、そういう彼が、いまでは世界中に知れ渡っているあの大虐殺から、あらゆる人間の階層におよぶ多数のユダヤ人を救った事実を知るにおよんで、トマス・キニーリーの興味深い取材がはじまったのである。

戦後にオスカーの友人となった多数の人びとから、書面やそのほかの形で、多くの情報を手に入れ、虐殺された600万人のユダヤ人を悼(いた)んでエルサレムにつくられた「追憶の山(ヤド・ヴァシェム)」に置かれている「殉教者および英雄記念庁」には、シンドラーに救われたユダヤ人たちが彼について寄せた証言が数多く保存されていることを知り、それらは、この物語の内容をいちだんと豊かにしてくれる。

トマス・キニーリーは書いている。

「わたしにとって腕に覚えがあるといえるのは小説を書くことだし、またひとつには、オスカー・シンドラーのように多面的な幅の広い性格をもった人物を描くには、小説的手法が適していると思えたからである。とはいえ、全面的にフィクションの形を取れば、事実の記録という面での価値を落とすことになるので、それはつとめて避けた」

オスカー・シンドラーの会話の部分は、多くは生き残り組の証言に基づいて書かれ、およそ常識では考えられないような彼の救助活動の目撃者たちの詳細な回想に基づいて書かれることになった。

以前ぼくはオスカー・シンドラーについての記事を書いた。

そのときは気づかなかったことだが、先日、友人と話していて、「オスカー・シンドラー」を書く意味はどこにあったのか、――それを映画にする意味はどこにあったのかという質問を受けた。ぼくは即座には答えられなかった。

なぜなら、日本人はユダヤ人との接点をほとんどもっていないからだろう。戦争するには金が要る。日露戦争の金融戦を勝ち抜くために、日本は日英同盟の威容(いよう)を味方につけ、高橋是清は、ロンドン・シティの民間の金融資本家と接触し、ユダヤ人系の商会の協力を取りつけることに成功した。

1000万ポンドの外債を、ロンドンとニューヨークの金融市場で同時に発行することに成功し、約9億円の戦費を出来(しゅったい)させた。これはもの凄いことである。しかし、あとにも先にも、ユダヤ人との接点はこれっきりである。

小説や映画の主人公オスカー・シンドラー自身、ほからなぬドイツ人である。

それにまた実業家としてひと旗あげようと、ドイツ軍の侵攻の尻馬に乗ってポーランドの都市クラクフへやってきた。

彼は、つまりナチスとの軍需契約のおかげでぼろ儲けする人間である。

ところが、クラクフに住む大勢のユダヤ人が、やがてゲットーに押しこめられ、親衛隊の残虐行為がはじまるのを目にしたとき、そんな同胞の行為がゆるせなくなる。かたく決意したオスカー・シンドラーは、ナチスが儲けさせてくれた莫大な金を、ユダヤ人救助作戦に惜しげもなくそそぎこむのである。

しかし、ナチスの迫害の度はますますエスカレートし、ついにはユダヤ人をゲットーからも追い出し、強制収容所に閉じこめてしまう。

この「強制収容所」は、われわれ日本人にとっては、囚人たちを皆殺しにするところだというふうにおもいこみがちだ。しかし、強制収容所は、ナチス自身の命名によれば「集中収容所」といっており、ユダヤ人をそこに集中させるという意味があった。

これには大別してふたつの意味があった。

 

 ➀ひとつは、ユダヤ人を絶滅することを究極の目的とする絶滅収容所。

 ②そして、彼らの労働力をただで利用しようという強制労働収容所という意味があった。

 

知られているアウシュヴィッツは、その両方の機能をかね備えた巨大複合収容所だった。

シンドラーが目撃したプアシュフ収容所は、内部にさまざまな工場をもつ強制労働収容所だった。そこでもやはり、虐殺は小規模ながら日常茶飯事のようにおこなわれていた。

シンドラーは、そこからひとりでも多くのユダヤ人を助け出そうとあらゆる手段を講じるのである。小説では、労働収容所の建設当時から戦争末期の解体時まで、きわめて具体的に描かれている。

この収容所のなかで、どんなひどいあつかいを受けても忍従し、そのあげくに殺されるかもしれないユダヤ人が、シンドラーの庇護のもとで、ときには死の一歩手前で生き延びることができ、狡猾な手段でナチス将校を手玉に取り、尋常をこえたやり口でユダヤ人労働者を必死に守ろうとするシンドラーが描かれている。

しかし、虐殺された600万人ものユダヤ人犠牲者のまえでは、ほんのわずかのユダヤ人救出劇でしかないのは自明のことで、ナチスが一方的にユダヤ人を迫害したという歴史的な図式からすれば、およそ論外の部類にはいるだろう。

最後に、ヘル・オスカー・シンドラーはこう演説する。

「きみたち何百万もの同胞――親や、子供や、きょうだいがこの地上から抹殺されたという事実は、これまで何千人ものドイツ人から非難されてきたし、今日でさえ、あの残虐な行為がどんなに大規模におこなわれたかを知らないドイツ人は何百人といる」

 

「だから、もう一度お願いする。くれぐれも人間らしく正しく行動してほしい。

裁きはその筋の人びとに任せておくことだ。

もし誰かを告発するなら、それにふさわしい場所でやってもらいたい。なぜなら、新しいヨーロッパには、買収されたりすることのない裁判官がいて、必ずきみたちの言うことに耳を傾けてくれるはずだからだ」

 

「この何年ものあいだに、わたしが自分の工場の働き手を確保するために克服しなければならなかった迫害や、策略や、妨害のことは、きみたちの多くが知っている。そもそもポーランド人労働者のわずかばかりの権利を擁護し、彼らが強制的にドイツへ連れて行かれるのを防ぐために仕事を確保してやること。そして彼らの家庭や、つつましい財産を守ってやること、――それさえむずかしかったくらいだから、ユダヤ人労働者を擁護することなど、とうてい手に負えないと思えたこともしばしばあった」

 

「あと、2、3日して、自由の扉がきみたちの前に開かれたら、そのときは、この工場の近くのいかに多くの人たちが、食べものや着るもののことできみたちを助けてくれたか、それを考えてほしい。わたしはきみたちの食糧を補充するために、これまでもできるだけのことをしてきたが、今後はきみたちを守るためにも、食糧を確保するためにも、真夜中の5分すぎまで、せいいっぱい努力をつづけることを誓う。

近くの家々に押し入って略奪を働くようなことはしないでくれ。

犠牲になった何百万もの同胞の名誉を汚すことのないように、そして個人的な復讐やテロ行為に走ったりしないように慎んでもらいたい」

 

「シンドラーのところのユダヤ人に近づくな。この土地ではそう言われていた。しかし土地の人間に仕返しすることなどより、もっとだいじなことがある。

秩序を守ること、土地の人びととの相互理解を保つこと、それをわたしはきみたちのなかの囚人頭や作業班長に委ねる。

だから、何かあったら彼らと相談するように。これはきみたちの安全にかかわることだからだ。

製粉所のダウベク氏に感謝したまえ。きみたちが食糧を手に入れることができるように、彼は普通ならとうてい無理なことをしてくれたのだ。わたしは今、きみたちに代わって、勇気あるダウベク氏に感謝を捧げたい。

きみたちが今日まで生き残れたのを、わたしに感謝することはない。きみたちを絶滅から救うために、日夜努力をしてくれたきみたちの仲間に感謝すべきだ。とくにクラクフにいたころ、いつもきみたちのことを考え、心配して絶えず死に直面していた。恐れを知らないシュテルンやペンパー、そのほか何人かの仲間に感謝したまえ。われわれの名誉がかかっている今、心して秩序正しいおこないを踏みはずすことはしないでほしい。ここでわたしは、これまでの自分を犠牲にしてわたしの仕事に個人的に協力してくれた人たちに感謝したい」

 

「最後に、この残酷な年月のあいだに死んでいった数えきれないほど多くの人びとの冥福(めいふく)を祈って、3分間の黙とうを捧げることを、ここにいる諸君全員に求めたい」

このことばは、そこにいた1200人ものユダヤ人全員が聞いた。

そして、いよいよ別れのときがきて、オスカー・シンドラーは、囚人服に着替え、逮捕されたのである。