死者への福なしに。――谷才一の功績について

 

ナセニエル・ウエスト「孤独な娘」

 

北半球で一年のうちで夜の長い先日、ぼくは越谷にいた。越谷で、仲間3人と冬の夜の夢のようなおしゃべりに興じていた。人生はもっとゆっくり、長く過ごすべきだというわけで。

さて、米作家ナセニエル・ウエスト。――聴いたことがあるだろうか?

この作家の「孤独な娘」が丸谷才一訳で岩波文庫から出たのは2013年だった。だが、丸谷才一がこの作品を翻訳したのは1955年のことだった。ダヴィッド社から出ていた。

それ以来、ナセニエル・ウエストは日本の読者にはあまり知られていないだろう。

デビュー作「夢のなかで責任がはじまる」という短編は、何度もアンソロジーというかたちで出版された。そのうちに、忘れられたようだ。

彼の長いとはいえない生涯の晩年は不遇で、悲惨な最期をとげた。アル中で精神に異常を来たし、1940年12月22日、カリフォルニアの路上で生涯を終えた。享年37。

越谷で、友人と別れて電車に飛び乗ったとき、ぼくはふと、ナセニエル・ウエストのことをちらっと想った。ぼくは彼の顔を知らない。どんな服装をして、どんな顔つきで街をほっつき歩き、何を食べていたのかは、想像することもできない。

だが、いまさらながらナセニエル・ウエストという作家がいたことに想いを馳せた。

駅の階段でちょっと肩を触れあったみたいな存在の作家だけれど、ぼくには忘れがたい。ぼくにとって、彼は見知らぬ人びとのひとりなのだが、映画「かくも長き不在」の主人公のように、ことばも発しない、黒い外套を着た影の人物として、じぶんの記憶のなかに領して離れない人物。そういっていいとおもう。

小説のクライマックスで、病いが高じた男は、ある相談者の夫――欲求不満の妻が「孤独な娘」に暴行を受けたとおもい込み、彼を殺しにきた小男を、神の使いと信じ、奇蹟をおこなうべく、男を抱きしめようとしたとき、その瞬間、ピストルで撃たれて死ぬという展開なのだ。じぶんを救世主とおもい込んだ男の受難が描かれている。

アメリカ神話の崩壊が描かれる。これがもしも日本を舞台にして描かれたとすれば、だれも理解しないかもしれない。ヨーロッパでもロシアでもそうだろう。アメリカならではの小説である。

S・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」も、エドワード・オルビーの「動物園物語」も同様に、主人公はみんなアメリカの固有な神話世界を生きた、あるいは死んだ人びとばかり登場している。

西部で成し遂げられなかった夢が、東部ではささやかなアメリカの夢を追って死ぬ。そういう物語なのである。

作家ナセニエル・ウエストの失意の生涯の果てに、いまのアメリカの利己的な憎悪の投影を見るおもいがする。だから彼は、「孤独な娘」という小説のなかで、娘には名前を与えていないのだ。名前など、連隊番号にも等しいとおもったかもしれない。

それでも《夏至祭り(Summer Solstice Festival)》だけはおこなわれる。

雨に降られたる者は幸いなり。死者への冥福なしに、アメリカは時代をつきすすもうとする。