■感じる海を描いた男の話。――

戦うすごいを、英語で描いたンラッドの小説!

 

ジョセフ・コンラッド

 

むかし、丸谷才一が「裏声で歌へ君が代」を刊行したとき、百目鬼恭三郎は新聞の1面でこれをとりあげ、絶賛した。

これに対して江藤淳は、ふたりは同級生であり仲間褒めだと指摘して、新聞の1面で小説を褒めるのはけしからんと厳しく批判した。

その新聞というのは、朝日新聞のことである。

百目鬼恭三郎は朝日新聞の学芸部の記者である。彼は上司からもうとまれて、あちこち配置換えになったりしていたときだった。

百目鬼恭三郎は丸谷才一と旧制新潟高校時代の同級生だったのだとおもいつく。

ぼくは、たぶん丸谷才一の本を読んでいて、奇妙な単語を発見した。「バーミー(barmy)」という単語だった。書斎の本箱を整理していて、おもわぬものを発見することがある。本にはさんだ1枚のそのメモだった。

イギリス英語に「バーミー(barmy)」という語が確かにある。

たぶんイギリス人にも耳慣れない英語で、古英語のbeormに由来するらしい。

もともとは発酵中のビールの泡という意味らしい。転じて、「いかれた」という意味になったという話が伝わっている。

だが「いかれた」ではわからない。意味のとれない遺物が出てきたときに使うといいかもしれない。人の理解を超えたものだろう。ぼくなら、「《時》の置き土産」とでもいいたい。――と、ここまで書けば、それはコンラッドだろう! とおもう。

ジョセフ・コンラッドほど鬼気迫ることばの発見者でありつづけた男も、いないだろうとおもう。

先日、むかしの同僚と飲んだときの話を想い出す。

「肉は何が美味いとおもう?」と男はいった。

「そりゃあ、きまってるじゃないか! 牛だよ」とじぶんがいった。

「牛か。……じゃ、その牛はオスかメスか?」

「きまってるじゃないか! オスだよ」

「ただのオスか?」

「いや、去勢牡牛だろう」といった。

去勢牡牛は英語でoxという。cowは雌牛、bullは雄牛、calfは子牛。

ざんねんながら、日本語には牛をそこまでこまかく分けて名称を与えていない。日本の農耕社会では、牛がオスかメスかなんてどうでもよかったのだ。

ところが鳥は、いろいろありすぎるくらいある。

なぜなら、人間は空を飛ぶものへのあこがれがあったからだろう。

ホトトギスといえば、杜鵑、時鳥、沓手鳥、不如帰、子規、沓手鳥などいろいろある。正岡子規の子規は,ホトトギスという意味だし、だから俳誌「ホトトギス」は格別お気に入りだった。徳富蘆花の小説は「不如帰」である。

文芸の世界でいえば、鳥といえばウグイスとホトトギスに並ぶものはない。まあ、姿見でいえば、ツルが筆頭にくるだろう。食って美味いかどうかは知らないけれど。ツルは鶴と書き、むかしは田鶴(たづる)と書いた。

コンラッドは、現在のウクライナ・ジトーミル州に、没落したシュラフタ(ポーランド貴族の小地主)であった父アポロ・コジェニョフスキと母エヴァの子として生まれている。

父コジェニョフスキというのは、ロシア統治下のポーランドで独立運動を指揮していたが、コンラッドが4歳のとき、1863年、一家はウクライナのチェルニーヒウに移され、そこでエヴァは結核にかかり、1865年に帰省先の所領地で死亡した。

コジェニョフスキは文学研究者でもあり、フランス文学、イギリス文学にも造詣が深く、愛国的な詩や戯曲の執筆・出版も行なったという。

幼少期のコンラッドは父の影響によりシェイクスピアやディケンズ、ユゴー、ポーランドの古典などに親しみ、フランス語も習い、海洋文学に感化された。

1868年には母方のボブロフスキ家の尽力によって流刑が解かれた。西ウクライナのルヴフに移り、結核を患っていた父はその翌年クラクフに移った直後に死去した。コンラッドは母方の伯父であるタデウシュ・ボブロフスキに引き取られて、この地で祖母と暮らしながら家庭教師による教育を受けたのである。

 

コンラッド「闇の奥」(光文社古典新訳文庫、2009年)

 

ぼくにとって、コンラッドはそういうたぐいの苦難の作家なのである。

海の中から出てきたバーミーは、コンラッドのこころを惹きつけたにちがいない。

コンラッドの代表作「ロード・ジム(Lord Jim)」(田中西二郎訳、新潮文庫、絶版。池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集、柴田元幸訳、2011年)では、船長が乗組員を置き去りにしようという気持ちに駆られて、船の舷側ごしに覗き込むシーンがそれである。

神韻渺渺(びょうびょう)たる海の描写である。

事実コンラッドは16歳のころ、船乗りになることを目指してポーランドを脱出。――彼が生まれたときはオランダ領だった土地が、その後ポーランド領になった。――彼はフランス商船の船員となり、マルセイユ港に行く。彼の回顧録によれば、この船員時代、コンラッドの乗る船は、武器密輸や国家間の政治的陰謀にも関わっていたらしく、コンラッドが自殺未遂をしたのもこのころらしい。

詳細ははぶく。

1878年以降、コンラッドはイギリス船に乗り移り、船の上で勤務する。

それからは英語を学びながら世界各地を航海した。このときに得たさまざまな見聞が、のちのコンラッドの小説に大きな影響をおよぼすのである。

彼の船乗り人生は22年つづく。

――と、このように書けば、かんたんなように見えるが、英語という母国語でないことばで小説を書こうなんて、ふつうは考えないものだ。画家ゴッホも、オランダを出てからイギリスにわたり、英語をものにしている。フランスではフランス語をものにしている。多くの手紙を残したが、彼は終生祖国に帰らなかった。ゴッホの文章は一級品である。

ジョセフ・コンラッドも、ヘンリー・ジェイムズが想像できないほどの苦労をしながらイギリス英語をマスターした。

生まれたのはウクライナで、両親はポーランド人。幼少時代、じぶんの生まれたポーランド貴族の家の家族の姿を印象的に描き、「額がひろく、物静かで、目に威厳のある美しさをたたえた」という母親のことを、口数少なく暗示的に記している。

回顧録によれば、

「大ロシア帝国の影が威圧的にのしかかっていた。――それは、1863年の不運な蜂起ののちに、モスクワのジャーナリストの流派の扇動で新しく生まれたポーランド人にたいするどす黒い国民的憎悪をこめて、ひくく垂れこめた影だった」と書いている。

ロシア領だったポーランド地域における農奴制廃止に端を発した反乱の参加者たちは処刑され、またはシベリアへの流刑といったことにたいする残酷な報復がおこなわれ、この記事は、その蜂起事件を描いている。

「大きくなったら、ここに行く!」と指さした地図は、「北コンゴ」の何もないところだった。彼の9歳のときだった。事実、そのとおりになった。

このときの体験が、最大傑作とされる「闇の奥(Heart of Darkness)」(中野好夫訳、岩波文庫)という小説である。のちに「青春(Youth)」(田中西二郎訳、新潮文庫、絶版)のなかにも収録された。

ぼくは英語原文で「Youth」のほうを先に読んでいる。

そして、家庭教師とヨーロッパ旅行をして愉快な旅をつづけ、1年後、フランス船と4年間の契約をむすび、フランス船の乗組員として働き、多くのフランス文学を読みあさり、1878年に、イギリス船と契約。1884年にはイギリス国民となり、イギリス商船隊の船長の資格を得ている。

 

船乗りをやめたのは1894年で、それまで物入れに詰め込んでいた小説原稿を引っ張り出してきて整理し、出版したのが「オールメイアの愚行(Almayer's Folly)」(大沢衛訳「蜥蜴の家」、弘文堂世界文庫、絶版)という作品である。

これはぼくは読んでいないのでわからないが、「ロード・ジム」に描かれた風景は、欲深い人間のあさましさだ。

コンラッドがじぶんの言語を獲得したのは、この小説においてだ、といえるかもしれない。なぜなら、彼はいっている。

「われわれとともに生きる人間の存在が、すすんで現実よりも明確な、想像の生の形をとるほど強く確信され、またそのよりすぐった挿話が一体となって真実性が生まれ、記録の形での歴史の誇りをはずかしめることがなければ、いったい小説とは何であろうか?」と書いている。

「……現実よりも明確な」と書かれている。

ぼくはそこに注目したい。

イギリスの批評家の多くが高く評している作品に、「海の鏡(The Mirror of the Sea)」(中野好夫訳、岩波文庫)がある。

これ以外に翻訳されていないらしい。「陸の生活」、「海の生活」ということを考えるとき、コンラッドのいいたかったのは、「感じる海」を書きたかったのだろう。

「自分の感覚が船の感覚とおなじであり、自分のからだにかかる圧力から、船のマストにかかる圧力を判断するのだ」と書かれ、「船乗りが、きのうの世界の船ときょうを生きるばあい、必要なのは親しみである」と語り、ヘミングウェイとはまるでちがった海(「老人と海」)を描いている。

批評家はいう。

コンラッドはフランス人から多くのことを学んだが、イギリス人気質からはかなり隔たっていた。フランス的様式をおもんじ、スラブ的感情と古典主義・神秘主義、秩序と不安定、地上のものと来世的なものとの混交、――を指摘している。その文章は「ロード・ジム」、「青春」、「潟(The Lagoon)」にいかんなく描かれている。海、船、船乗りの気質というものを、簡素で雄渾な筆致で描かれたのは、ぼくが読むかぎり、コンラッドが最高である。あのT・E・ロレンス――アラビアのロレンス――でさえ遥かおよばない。

なかでも小品だが「青春」という短編は好きである。

そこで短編“Youth”の冒頭の文章を引用してみたい。

 

This could have occurred nowhere but in England, where men and sea interpenetrate, so to speak ――the sea entering into the of most men, and the men knowing something or everything about the sea, in the way of amusement, of travel, or of breadwinning.

これは、人間と海が、いわばたがいに混ざり合っているイギリス――つまり、海がたいていの人の生活に入り込み、人間も、息抜きか、旅行か、あるいは暮らしのために、海のことなら多少とも、あるいは何でも知り尽くしており、そういうイギリス以外では、どこにもこのようなことは起こりようがないのだ。

 

また短編“Amy Foster”の冒頭は、――

 

Kennedy is a country doctor, and lives in Colebrook, on the shores of Eastbay. The high ground rising abruptly behind the red roofs of the little town crowds the quaint High Street against the wall which defends it from the sea.

ケネディはいなか医師で、イーストベイの沿岸にあるコールブルックに住んでいる。小さな町の赤い屋根の背後は、土地がいきなり高くなっていて、古めかしい風変わりな大通りは、波がかぶらないように、壁のほうに押し付けられている。

 

――これは、異国の土地で、生存権を奪われて死んでしまうという男の物語である。

ヤンコー・グーラルは,中部ヨーロッパの貧しい山国で生まれ、冒険家の気質で、ひと旗あげたいとおもってアメリカ行きの移民船に乗り込む。しかし船は,嵐のために難破して,イギリスの小さな漁村コールブルックに流れ着く。――という物語である。――今夜は、コンラッドのことを考えてみた。コンラッドの英語はすばらしい。