■北海道・北竜町をつくった人びと。――

植庄一郎の

 

吉植庄一郎が引率して千葉県から移民団を組んで北海道に入植したのは、明治26年5月17日だった。

埜原(やはら)村――のちに本埜村と改名――その村は、印旛沼に面し、背後に利根川がひかえていて、山も低く平坦な村だった。そのために利根川が増水すると、たちまち冠水の憂き目にあう。3年にいちどは、大きな水害に見舞われ、被害は甚大だった。

徳川時代から利根川水系と印旛沼の治水運動を行なってきた吉植庄一郎の父庄之助は当時、県議会議員で、この治水問題で苦闘をつづけていたときだった。

こうした村民の苦悩を幼いころから見てきた庄一郎は、なんとか理想の新天地を見つけて移住したいと願っていた。

彼は教職を捨て、両親の反対を押し切って、千葉県知事に北海道移住計画を申言し、北海道長官にあてた長文の紹介状を書いてもらった。明治25年8月、庄一郎は紹介状をたずさえて北海道に上陸し、北海道長官の北垣国道を訪問した。雨竜村に150万坪の貸下げを受けることができることが分かった。それが北海道移住にむすびついたのである。

やわらは当時、新十津川村の行政区にあって、翌年の27年に大谷光瑩(みつえい)、沼田喜三郎、渡辺八右衛門らが地積の貸付けを受けて入地すると、200戸の小作人を移住させ、明治30年7月、行政区を新十津川村から分村して、雨竜村となり、ついで32年6月、さらに北竜村に分村された。

大正3年4月には、現在の沼田町を上北竜村として分村した。雨竜村から江部乙町にわたる川岸には、アイヌの集落があった。

アイヌの人たちは、魚を食べて暮らしていた。

明治25、6年ごろはまだ掛け声だけで、これといって移民団に都合のいい利便も保護もなく、新十津川村民のような特別保護移民は別として、ほかの団体移民は、ほとんど自費自賄で北海道にわたってきた。千葉県印旛郡埜原村からやってきた移民団もそうだった。

将来の自作農を夢見てわたってきた人びとの共通の理想は《和》であった。その《和》を「やわら」と呼び、本拠地の地名にした。

北竜村の中心部である。千葉県からやってきた人びとは、多度志、幌加内、富良野方面にも地域の貸下げを受けて、つぎつぎと開墾作業をはじめた。団長の吉植庄一郎は、入植するにあたって、最初から法人組織にした。これはきわめてめずらしいことだった。社名を「合資会社培本社」と名づけた。その名は現在も地名の「培本社」として残っている。

金のある者は金を出資し、金のない者は労働で出資した。

この組織は、北海道の開拓事業をなし得る拓殖理念だったが、千葉県の移民団をのぞいて、ほかにはだれも試みたものはいなかった。彼らは、すべて会社の社員として働いた。だから、日々の暮らしを営むために必要な生活資金は、給料によってまかなわれた。

吉植庄一郎は、営農資金の必要性から、のちに「北海貯蓄銀行」をつくり、政治運動によって農民の地位を高めなければならないとして、のちに「北海新報」という新聞社をつくった。開墾が完成してから千葉県選出の貴族院議員として1期6年、国政にたずさわっている。

「北海貯蓄銀行」は、のちに「北海道拓殖銀行」となった。「北海新報」はのちに「北海道新聞」となった。

第1次世界大戦後、吉植庄一郎は、ヨーロッパ諸国、――主としてイギリス、ドイツ、フランスの食糧統制制度を視察し、政府の米穀専売案を提唱したことは知られている。この制度は、戦後までつづいた。

このようにして彼は農民議員の面目を高めたが、のちにこれが政府の米価対策となり、米の政府買い上げ制度になって、第2次大戦の米の統制に役立った。晩年、この経過と国民の食生活にたいする抱負を述懐する文書を残している。

この吉植庄一郎という先人の残した業績はきわめて大きい。

しかし、この偉大な先駆者の業績を伝える貴重な資料はほとんどない。この入地開拓時代は、明治26年から明治40年までつづく。

     ♪

北竜村ができるまえ、そこはどのようなところだったのか、記録のない時代が、明治のはじめまでつづいていた。新十津川から沼田にかけて、まったくの原生林におおわれ、アイヌの集落もなく、深川と旭川とのあいだにある神居古丹(かむいこたん)にアイヌの集落があったに過ぎない。

鬱蒼と生い茂った原生林。――昼も暗いという樹林に覆われ、地面はいちめんに枝葉が堆積した腐殖土で埋まり、平坦な平野には丈の高い荻や萱(かや)が密生して、その白い穂が花のように見えたという。

そこは鹿や熊が多く、川岸の泥土に動物たちの足跡が残り、ヘビが泳いでいた。川魚が多く、水鳥も豊富にいる。そういうところには鹿や熊がいる。

安政2年、幕府が蝦夷地を直轄するようになってから、蝦夷地の山や川の調査が行なわれた。その調査にあたったのが松浦武四郎(1818―1888年)である。彼はその御用係りに任命されたのである。

松浦武四郎は幕府の命を受けて道路開拓の調査にあたり、苦心惨憺のすえにくまなく蝦夷地を跋渉(ばっしょう)し、そのときのくわしい模様を彼の「石狩日誌」に書いている。

日本人として、最初にやわらの地に入ったのは、彼ではなかっただろうか。当時のアイヌ人の生活の模様をのぞき見ることができる。

日本第2の河川、石狩川のもっとも大きな支流である雨竜川は、まるで石狩川のかいなに抱かれるようにして流れている。その雨竜川に沿って、多くの集落がつくられた。

吉植庄一郎が喜びいさんで織原三津五郎などとともに探索したのは、恵岱別川の中流から上流にかけての一帯だった。――現在の三谷、ペンケ、恵岱別のあたりだ。三谷は、やわら市街にもっとも近いところで、ぼくの家があった。

当時、雨竜郡一帯は、明治22年に侯爵三条実美、侯爵菊亭修季、侯爵蜂須賀茂韶、伯爵大谷光瑩、子爵戸田康泰、子爵秋元与朝などの華族組合農場が土地貸下げをして占有していた。

小作農民は、彼らの顔色をうかがって生きるしかなかった。その面積は、1億5000万坪。そのために肥沃な土地として残されているところは、恵岱別川に沿ったほんの一部しかなかった。

吉植庄一郎は、雨竜の駅逓である後藤喜代治――後藤三男八の父――の家にぞうりを脱いで、そのころ最初の調査をしている。

そして恵岱別川に沿って上流にのぼり、付近の土質をしらべてみると、肥沃な沖積土だった。アカダマ、ヤチダモの原生林が昼も暗くそそり立っている。山裾には大きな蕗がカサのようにひろがり、その他めずらしい植物がたくさんあった。それらをいくつも採集した。

「食べるものは、たくさんあるぞ! このとおり、自然に自生した食べ物だ」

吉植庄一郎は、まずはじめに、両親の同意を得るために、北海道探検について多くの資料を広げ、ここに新天地を開拓することを事細かく述べた。そして、持ち帰った植物を見せた。

「原生林は思った以上に深い。だが、土地はここよりもずっと肥えている。河川はりっぱだ。水害の危険も少ない」

両親も彼の熱意に動かされ、ついに移住することをゆるした。

そして、彼は村で北海道探検の模様を発表し、同志を募った。しかし彼の意見に賛同してくれる者はいなかった。彼は身内や親戚の者たちをつぎつぎに説いてまわり、38戸の団体をむすぶことができた。そのうち、北海道へ分家独立を希望する独身者があらわれた。

この独身者のあつかいをどうするか、彼は考えた。独身者といっても、12歳から18歳の屈強な男たち7名だった。彼らは農家の次男、3男である。彼らは分家をするしかない。しかし分家する土地がない。学業を終えた12歳までの男子と女子を移民団に組み入れることを決意した。

「場合によっては、船上で結婚式をあげてもいい」とさえ思っていた。

事実、船上で結婚式を挙げたカップルが1組いた。大工の富井左衛門の次男、富井直12歳である。彼はまだ子供だった。

このようにして、明治26年5月、開拓団一行は、村民多数に見送られて江戸川をくだり、行徳に出て、横浜から船で小樽に上陸し、北海道炭鉱鉄道㈱の汽車で無賃乗車をして、空知太駅に下車した。

当時、汽車は屋根のない無蓋車だったので、途中で雨に降られ、全員びしょぬれにぬれた。空知太以北は、まだ鉄道がなかった。徒歩で新十津川に到着すると、さらに徒歩で雨竜から恵岱別(えたいべつ)沿いに出た。この一行が到着するまえに、吉植庄一郎は小屋掛けの先発隊をつれて雨竜に入っている。

そこで、先発隊の隊長後藤喜代治と会う。

すると、彼はいう。

「団長、いい話がある。……華族農場が解散になった。彼らの農地を貸下げしてもらおうじゃないですか! われわれの土地に使わしてもらおう。何か、いい智恵はないだろうか?」といった。

華族農場が解散になったというニュースは、吉植庄一郎には当然と思っていたので、そう驚かなかった。吉植はすでに北海道長官との面識もある。

さっそく長官に会って、貸下げを願い出る。貸下げを願い出るにあたって、じっさいに調査をする必要があった。そこで、入植地をどこにするか、さっそく現地を踏査しようということになった。

先発隊の隊長後藤喜代治も、別の土地を選んだほうがいいと進言し、彼は団長を案内して、恵岱別川下流に出た。

出たところは、――現在はもう使われていないが、むかし札幌―沼田間の国鉄・札沼線が通っていたときに使われていた鉄橋のある場所だった。まえに来て調査したところよりもずっと広く、しかも草原地帯もあって、雨竜川に沿って地味がいっそう豊かなところだった。

                                          ♪

吉植庄一郎は、目を見張った。

「ここに、村をつくるぞ!」と彼は叫んだ。

そこはだれも入地した形跡がない。

鬱蒼とした原野がひろがり、ひばりが鳴き、唐松や柳の木や、イタドリの葉っぱが絨毯のようにひろがっている。熊笹がいたるところに生えていて、ところどころに青くぬけるような沼地があった。

「隊長、さっそくですが、名前をつけましょう」と富井左衛門がいった。

彼は一行のなかで、ただひとりの大工の棟梁だった。

吉植は、もう決めていたらしい。

「和をもって貴しと為す。……そのとおりだ。聖徳太子の17条憲法のいちばん最初に書かれていることばだ。われわれは和をもって、ここに橋頭堡を築く。その名を《やわら》とする」

みんなは、吉植庄一郎の考え抜いたこのことばを耳にすると、吟味し、うなずいた。

「やわら、……」といってみた。

彼らのふるさとである印旛郡の「埜原(やはら)」をみんなは思い出した。みんなは、「やわら」と発音していた。

「やわら。……いい名だ。われわれの村だ!」

そこで、先発隊の富井左衛門――富井直の父――や稲葉忠衛門たちが立ち木を伐採し、最初の小屋掛けを行なった。

そこは恵岱別川から500メートルほど入りこんだところだった。木立ちはあるものの、そこは草原の真ん中である。

そして、彼らはいくつかの渡船場をわたり、30キロもある悪路に生えるこぶしの花や、山桜に目を奪われながら、ついに恵岱別川をわたって小屋に入った。

この日は、明治26年5月17日だったことから、この日を北海道入植記念日とした。

のちに、会社の建物がつくられ、「培本社」という組織が活動を本格的に開始すると、みんなはその周辺に家を建て、あつまってきた。おたがいに家族の声が聞こえる間隔をおいて家を建てた。それが、やわらの発祥地となった。のちに神社をつくり、春祭日として全員業を休み、その日を祝った。

吉植庄一郎たちが移民してきたのは、政府の移民政策の行政指導が、各府県知事に通牒としてとどいて間もないころだったので、まことに運のいいことに、北海道もちょうど支援に乗り出していたときだった。

運賃面では船の渡航費の2割が差し引かれ、土地の貸下げが奨励されていたときでもあり、北海道炭鉱鉄道の汽車にかぎり、運賃を支払わなくてもいいという特典が与えられていた。

千葉県移住団体として入地したこの一行は、自由移住団体の先駆をなすものだった。それだけに他の団体とちがって、青雲の志が高く、自分らが希望する北海道の未開の山野に堂々と入ることができたのである。

――これを書く資料として、昭和33年に出た「北竜村農業共同組合史」と、北竜町出身の作家・加藤愛夫の小説「開拓」の2作をあげることができる。

「北竜町史」2巻も参考にできるが、ほとんど他所から引用されたもので、あまり参考にならない。加藤愛夫の小説「開拓」は、北海道の家に残してきたので、いまは手元にない。

この物語の構想を思い立ってから20数年がたつ。

昭和33に出た「北竜村農業共同組合史」の冒頭にも書かれているとおり、当時の一級資料はすでに散逸してしまい、往時を記録するものは現在何もないと書かれている。

いまとなっては、当時を知る人びとはいなくなった。――明治26年に北海道に移住し、やわらの開拓団に加わった第1次入植者は、当時12歳の富井直さんだけだったが、昭和42年、深夜、風呂でおぼれて亡くなられ、現在だれもいなくなった。

富井直さんの家は農家で、北竜村の三谷区にあり、ぼくの家の隣家だったので、子供のころから直じいさんをよく見知っている。富井家の繁栄は、実にこの人の苦悩のおかげである。

跡目を継いだのは、他家から婿入りした青年だった。彼は父の友人で、月に一度はわが家にやってきて、散髪していた。

父は器用に家族全員の散髪をし、ついでに友人の頭の始末もやっていた。

そのときに聴いた話が、いまでも脳裏にのこっている。ぼくは、吉植庄一郎という偉大な人物の輪郭をおぼろげながら聞いていた。