■20世紀の英文学。――
「ユリシーズ」を読む 2
数年前の、ある秋のさわやかな日差しののびた午後のことでした。
埼玉県・越谷の「俊青会」の展示会場の受付で、漫然とかまえていたら、客がふたり連れだってやってきて、そばの絵を見て何か話しているのが聞こえました。
「みどりの川」ということばが「緑川……」という人の名前に聞こえたのです。
「緑川さんというのは?」と、おもわずぼくはたずねました。
すると、相手は妙な顔をしてこっちを見つめます。60歳くらいか、そのあたりの年恰好に見えます。そばにいるのは奥さんでしょうか。
絵を見ると、手前に川が流れていて、その川面(かわも)に、木々の風景が写り込んでいます。その描写がなんともいい感じを出している絵でした。F6号サイズの水彩画です。遠藤和夫氏の水彩画「御苑6月」。
その話をしていたようでした。
ぼくは、とんちんかんな話をしてしまったようです。
「……ああ、この川のことですか。緑の川が、きれいだねと、いっていたんですよ」と、折り目ただしく説明してくれました。ちょっと訛りがあるようでした。この人が、きょうの客人の第一号です。
そして、ぼくは業務の席にもどりました。相棒のふたりの女性は、奥のコーナーにいます。客人があらわれたので、もどってくるなり、女性当番の彼女が、立ち止まって客人にあいさつをしています。彼女の知り合いだったようです。
♪
ジェームズ・ジョイス
――ぼくはあることをおもい出しました。ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に出てくる話です。
登場人物のバンタム・ライアンズのつぶやいたことば。ブルームの「もう要らないんだ」ということばが、「モイラナイン」という馬の名前に聞こえたという話が出てくる場面を。
アスコット競馬(Ascot Racecourse)の金杯で、ダークホース、モイラナインは20倍の大穴をあけます。日本でいえば、20倍なんてざらにあるでしょうけれど、1904年のダブリンでは、万馬券に相当するでしょう。ダブリンの街にも、イギリスと同じ名前のアスコット競馬場があったなんて、ぼくは知りませんけれど。
ついでに、1904年といえば、思い出しますねぇ。もちろん日露戦争の海戦シーンです。そのシーンを繰り広げたのは翌年の1905年でした。――それはさておき、「ユリシーズ」の原文では、「なげ捨てる」という意味で「throw away」といういいまわし方をしていますが、これはひょっとすると、もともとはアイルランド英語なのかもしれません。Ascotという地名は、いろいろなことばを生みました。アスコット・スカーフascot scarf、アスコット・タイascoy tie、アスコット・ブラウスascot blouseなどなど。
北海道弁の「なげる」は、捨てるという意味ですから、そういう意味では、アイルランド英語のthrow awayと共通していますね。
バンタム・ライアンズは、その「throw away」と聞いて、「Throwaway」という競走馬の名前とおもったのです。よくある聞き違いです。ジョイスの文章には、こうしたおもしろい話がふんだんに出てきます。
「大事なんだ」というのが、「だああいじなんだ」と、あくびのせいで、ことばが伸びている話もあります。原文では、「dearer thaaan」となっています。つまり「than」というべき語が伸びてしまっているのです。
おならなら、Pieeeeeeee……でしょうか。
――ジョイスの文章は、そんなにふざけているのか、というと、そうではありません。ジョイスは、だれもが認める20世紀最大の小説家のひとりです。亡くなられた柳瀬尚紀氏にいわせると、ジョイスの「ジョイ」が、――喜悦に満ちていると書かれています。この小説のおもしろさの鍵は、そんなところにあるとおもっています。
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――さて、もう15年ほどまえになるでしょうか、「ユリシーズ」の翻訳本を読んでいたら、ぼくは「はあ?」と疑問におもわれる妙な訳文に出会いました。訳文では、「あらゆる抱擁は、……」と書かれていました。
翻訳家の名前は伏せますが、ところどころ、おかしな日本語訳になっていました。原文をみてみると、ちょっと変だと気づいたことがあります。これはたぶん、英文解釈というレベルの話ではなく、ジョイス文学の懐に触れる訳文が要求される部分だけに、ちょっと妙な気分がしたのです。
おそれ多くも、自分ならこう訳すぞ! と、不遜にも試訳をこころみたことがあります。
その一部はすでに書いているので、きょうは、べつのものをちょっと書いてみます。
日本人同士だって、こうしたすれ違いみたいな、とんちんかんな会話になるのですから、まして、英文で書かれた文章を、外国人である日本人が訳すとすれば、呻吟するのはあたりまえの話だ、とおもえます。
母国語でない者が、翻訳するというのは、かなりしんどい作業をすることになります。ことに、ジョイスの文章は一筋縄ではいきません。時事英文記事をすらすら読める人でも、ジョイスの文章は、すらすらとは読めません。なぜなら、彼の文章には、辞典にも載っていないような語彙がふんだんに登場し、――つまり、造語のことですが、――これまた、格別におもしろいのです。そこで、ぼくはどうおもしろいとおもったのか、せっかくの機会なので、きょうは、その話を少し書いてみたいとおもいます。
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Perfume of embraces all him assailed. With hungered flesh obscurely, he mutely craved to adore.
あらゆる抱擁の香りが彼を責めたてた。漠然と飢えている肉体をいだいて、彼は無言のうちに熱烈な愛を求めていた。
――冒頭に書いた「あらゆる抱擁……」の話です。
ここにあげた文章は、ある男が「ブラウン・トマス絹織物店」のウインドーにある絹のペティコートを見て、色欲的な刺激を受けるシーンです。これはいく通りもの語順を並べ変えることが可能で、ジョイスは文体を磨きあげ、ことばの効果を精密に計算しているとおもわれます。翻訳にしても、いろいろと訳せます。ぼくは、こう訳してみました。
抱擁の香りがいっぱいに溢れて、それが彼を襲った。密かに飢えている肉体を包んで、じっと沈黙したまま、燃え盛る愛を求めていた。
これが原文に、より近い訳かとおもわれます。
意訳するのはいいのですが、「all」はここでは「いっぱいに溢れて」という意味で「him彼を」にかかることばであって、「embraces抱擁」にかかる語ではないのです。「あらゆる抱擁」って、いったい何だろうとおもってしまいます。
ぼくは、これを副詞にとって、「いっぱいに溢れて」と訳してみました。なぜなら、つぎに「With」ときているからです。
これをぼくは「包んで」とおいてみました。肉体を包んで……と。その「香り」が肉体をも包んでいるかのように見えるからで、ここにジョイスの二語一意の妙味が隠されているような気がします。このセンテンスの重要な部分は「all」です。
「obscurely」という副詞は、「不明瞭な」「(色などが)くすんだ」「人目につかない」などの意味がありますが、ここでは、「肉体」にたいする「精神=心」、賤しい生まれの素性を持つ「無名の」という意味に近いことばだとおもわれます。
人は肉体にたいして、誘惑の刺激をちくちく感じさせるものは、素性の知れない自分の分身であり、決して気高くはなく、肉体同様に汚らわしいもの、卑猥なもの、それが沈黙しながらも、無骨にもときどき激しい愛の打ち鐘を鳴らすというわけです。
鐘こそ出てきませんが、そのように読めます。
あるいは、肉体は正直にものをいうけれども、内なる精神は、自分でも人知れず厄介で定かでない鐘を打ち鳴らすと。――そんな感じでしょうか。そう考えてみますと、翻訳家の訳文は、それ自体りっぱな日本語訳ではあるのですが、なにか、物足りない感じがします。
ある人に話したら、「英語はむずかしい」といいました。
「そうかな?」とぼくはおもいました。
日本語のほうがむずかしいのだ! とおもいました。
「先日わたしは、よく知っている竹田さんのお姉さんに駅で会った」という文章があるとしたら、「よく知っている」は、「竹田さん」なのか、「竹田さんのお姉さん」なのか、自信をもって答えられる人はいるでしょうか? これは日本語のむずかしさです。
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――それから、少したちました。
で、さっきのつづきでいえば、第15話の話をしましょう。――自慰行為のやり過ぎで、――女性の方々にはすみません。不能に陥ったらしいブルームが、スティーブンを心配して淫売宿に向かいます。ブルームは生後11日で死んだ息子のことをおもい出します。
勘当同然に父サイモンのもとを飛び出して彷徨しているスティーブンを見ているうちに、しだいにスティーブンの息子にたいして愛情を感じるようになります。
ブルームの幻想のなかで、ブルームの死んだ父が現われて、倹約について説教するシーンがあり、これも父性愛の表現なのかと思いたくなるシーンがあります。――話はその幻想シーンで、死んだブルームの父が登場して、ブルームと会話する場面です。
(with precaution)I suppose so, father. Mosenthal. All that’s left of him.
(用心深く)そうらしいですね、お父さん。モーゼンタール(ドイツの劇作家。「ナータン」の作者)です。レオポルドのなれの果てです。
――このシーン、ちょっとおかしいですね。
「All that’s left of him」の「him」は、訳文では、この直前の父親の呼びかけから、ブルームの名前「Leopold」を指すことになっています。
こういう解釈もできないこともありませんが、ぼくは「Mosenthal」と解釈したい。
こう解釈すると、はじめて父親にたいするブルームの答えのなかに入っていけます。そのほうが「Mosenthal」の意味がここでは生きてくるとおもうのです。
つまり、ブルームは、父親が自分に向かって語りかける内容が、かつて父親が生きていたころ、いつも自分に向かって話してくれたモーゼンタールの劇「リア」の1場面、――すなわち、老いた盲目のアブラハムが、息子ナータンの声を聞き分けて、顔を指でさぐりながらナータンに語りかけていたシーンと同じであることをおもい出している場面です。
したがって「All that’s left of him」は、具体的にはモーゼンタールの作中人物のナータンであり、ブルームは自分をナータンにたとえた会話になっているわけです。
その部分を伊藤整訳では、「多分そうでしょう、お父さん。モオゼンタールだ。あの人が残して行ったものはただそれだけだ」となっています。奇妙な訳ですね。
英語では、3人称を使って自分について言及する方法が用いられます。
シェイクスピア劇にはこうした表現があります。おもいついた例をあげますと、
「Is that Mr Tanaka?(あちらに見えるのは、田中さんの?)」
「Yes, a piece of him.(そう、家族です)」
という具合に。
ところが「him」をレオポルドとすると、モーゼンタールの意味がどこかに吹っ飛んでしまいます。Salomon Hermann Mosenthal(1821‐1877年)はオーストリアの劇作家。反ユダヤ主義にたいする批判をテーマにしたDeborahがその代表作で、それを英訳したのが「見捨てられたリア(Leah the Forsaken)」です。訳文の注釈には、「ナータン」の作者だと解説されていますが、実際には「ナータン」は、この作品の登場人物です。
ダブリン市の劇場(Gaiety Theater)では、1904年6月16日(「ユリシーズ」に描かれた日)に、この「Leah」が上演されたようです。そのことをいっているらしいのです。
落ちぶれたナータンの姿をおもい出し、「ぼくは、ナータンの今日の姿です」とレオポルドはつぶやく……。そういうシーンでしょう。
「Leah tonight」「I was at Leah」は、このモーゼンタール作の「Leah the Forsaken」を指しているわけなのに、なぜか、翻訳者は、シェイクスピアの「King Lear」と勘違いしているみたいです。「ユリシーズ」にはたびたび「リア」が登場しますが、決してシェイクスピアの「リア王」ではありません。だいいち、綴りが違っています。
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――「ユリシーズ」の大事なところが、とんちんかんな訳文になっています。
ぼくが勝手に訳すとすれば、こうなりそうです。
(慎重に考えながら)はい、レオポルドです、お父さん。モーゼンタールを思い出します。ぼくは、あの落ちぶれたナータンの今日の姿ですよ。
原文には「ナータン」ということばはないけれど、そうすることによって、やや説明的ではあるけれど、原文の意味と、ニュアンスが出せるような気がして。
しかし、いい原文だなとおもいます。会話っていうのは、文章のようにちゃんとしたものじゃなくて、こんな、とぎれとぎれの、なぞなぞみたいなものじゃないかとおもいます。会話の当事者なら、これでじゅうぶん。
Nothung!
よしてくれ(ナッサング!) (ぶらさがるな! とも読める)
という訳になっています。――さて、この「Nothung!」は、もちろん英語辞典には載っていません。なぜなら、ドイツ語だからです。ドイツ語にしても、このような訳語は存在しません。なぜなら、固有名詞だからです。
翻訳家はどこから訳語を見つけてきたのでしょうか。じつにおもしろい。
ぼくは自称クラシック音楽ファンなので、ワーグナーの曲はたいがいは聴いています。なかでも「ニューベルングの指輪」は有名なオペラで、この「ノートウインク」ということばはオペラファンならずとも、だれもが知っていることばでしょう。――「ナッサング」ではないのです。
「よしてくれ!」とは、それこそ、よしてくれといいたくなります。
♪
ここまでくれば好きな、ぼくのオペラの話を少し書きます。
――ぼくはむかし、クラシック音楽を好んで聴いてきました。
「ニューベルングの指輪」は俗にワーグナーの「指輪」として親しまれており、その第1夜のワレキュール宮殿において、大神ウォータンは、崩壊しつつある世界を救済するため、ひとりの英雄を創造します。
英雄は地上に降りて人間の女とのあいだにジークムントとジークリンデという双子の兄妹をもうけます。やがて兄妹は離ればなれになり、シークリンデはフンディングという荒くれ男に力づくで妻にされます。
時がながれて、フンディングの家に流浪のジークムントが訪れ、ジークリンデと恋に落ち、身の上話をするうちにふたりが兄妹であることを知ります。ジークムントは、大神ウォータンがトネリコの巨木に突き刺しておいた霊剣を引き抜き、
「Nothung! Nothung! so nenn ich dich, Schwert.ノートウンク! ノートウンク! 剣よ、わたしはあなたをそう命名する」と叫び、この剣をもってフンディングと戦います。ウォータンの妻フリッカは、夫の不貞から生まれたジークムントを罰すべしと主張。ウォータンは、わが子ジークムントを勝たせたいと願うけれど、フリッカの要求に屈して、ジークムントの剣を砕き、ジークムントはフンディングに殺されてしまいます。
ジークムントの子、ジークフリートが霊剣「ノートウンク」の破片から元どおりの名剣を鍛えあげ、やがて、さすらい人の姿に窶(やつ)したウォータンと出会います。ジークフリートは剣を抜いてその槍を打ち砕きます。悔悛をもとめる母親の亡霊に向かって、Nothung!と叫ぶのです。
トネリコのステッキでシャンデリアを叩き壊したのは、父と離ればなれになったジークムントであり、その彼が同時に人間の世界を支配するウォータンの槍を打ち砕くジークフリートでもあります。オペラの最後では一人二役といいますか、二重人格者として登場します。この「Nothung!」は、「ノートウンクの霊剣」または「霊剣」という意味があるわけで、固有名詞「霊剣」なわけです。
訳文に、「ぶらさがるな! とも読める」と注釈しているところを見ると、これを英語読みにしてnot-hungと解釈したのかも知れません。たぶんそうでしょう。
ここは絞首刑の幻想場面に書かれているくだりですから、「ぶらさがるな!」とすれば、絞首台の上から吊り下ろされているロープに「ぶらさがる」という意味にもなって、ここでは偶然、別のおもしろさがあります。だが、ほんとうは、オペラからとってきた霊剣なのです。
――したがって、ジークムントの剣であり、その子、ジークフリートの剣でもあるという二重写しに入魂した剣なのです。
「ユリシーズ」クラスの言文ともなれば、原文そのものが、特異なものだけに、ほとんどは原作者ジョイスに帰してしまい、これを母国語でない人が読むとなると、かなりしんどい。しかし、英文学的にいっても、とてもおもしろい部分です。
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つぎに、「They like them sizable. Prime sausage.」という文章を読んで、ぼくは吹きだしてしまった。訳文はこうなっています。
抱きやすい女がお好き。極上のソーセージ。
こりゃいったい、なんのこっちゃい。
うら若き女性たちの前では、不謹慎にもしょうもない話をしてしまいますが、――「抱きやすい」なんて、どこにも書いていません。この訳はここだけ見て翻訳すれば、まあ正しいようにも見えてしまいますが、これじゃ、ジョイスも草場の陰から苦虫をかんで睨みつけているでしょう。
正しくは「女はからだの大きな男が好き」というほどの文章でしょう。ですから、丸谷才一氏も伊藤整氏も、「They」を男と勘違いして訳したとしかいいようがありません。
それも、ふたりの専門家が揃いも揃って、誤訳するなんて!
この「サイズ」の派生語の「sizable」という形容詞は、もともと古英語では「相当に大きい」という意味を持っていて、近代英語でも「程度の大きい」という意味がそのまま受け継がれていることばです。ですからジョイスは、「sizable」と書いたわけでしょう。
それもさることながら、「They like them sizable.」の主語「They」は、むろん「彼女」たちではなく、女たち一般を指しているのであり、目的語の「them」は男であることをつい忘れてしまった訳文になっています。ですから、こんな奇妙な訳文になってしまったのでしょうね。
この文章は、女が非番の巡査に抱きしめられているシーンであり、「sizable」とは、「かなりの大きさの」という意味になりそうです。かなりの大きさの男に抱かれている女は、「あっちのほうも大きいだろうと、勝手に思いついた単語がソーセージだった」と解すれば、まあ、「極上のソーセージ」で終わる文章ではありません。
それは何を意味しているのでしょうか? ――俗に巡査というのは、ダブリ市にかぎらず、小男にはなりたくてもなれない職業であったはずです。だとすれば、つぎにつづく「Prime sausage.」の謎の意味が自然に解けてくるのでは? ソーセージが男のナニを連想することは自然なことで、これほどはっきりした男の沽券にかかわるシンボルもあるまいとおもえます。
「ねえ、お巡りさん、お願い、あたしどうしたらいいか分からないわ」という女の媚態が「Prime sausage.」につづくわけですね。
ちなみに伊藤整訳では「彼らは抱きでのある女を好むんだ。極上のソーセージ」となっています。これでは「極上のソーセージ」の意味が伝わりません。ジョイスの書いた「ユリシーズ」がどんどん遠ざかっていくように思えます。
翻訳者はストーリーのおもしろさを出したかったのでしょうか。――もともと「ユリシーズ」にはストーリーなんていうものはなく、主人公のたった1日の出来事、その日思ったり感じたこと、想像したこと、回想・空想したことを綿々と綴った、しかし長大で、この上なく難解をきわめた作品なのです。ジョイスのたくらみの多くは、そういう文章の中にかならず埋められています。
イギリスには、Stone dead hath no fellowという諺があります。「石は死して仲間なし」。――これを日本語になおせば、「死人に口なし」ということになるのでしょうけれど、しかし、こう訳すと意味は微妙にずれます。その意味がずれるところが、なんともはがゆい。切歯扼腕(せっしやくわん)、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を否めません。……ですから、できあいのことばを集めた辞典から、いくらくすねてきても、仕方がないのです。ただひとり、感じ入るしかないのです。
日本画の高橋俊景画伯(左)と田中幸光(右)、ときどき会って先生と「ユリシーズ」にまつわる話をしています。2019年夏ごろの写真。