■エドガー・アラン・ポーの詩を読む。――

宙船にのって「ケーアの舟」を見る

 アラン・ポー

 

正月を迎え、はっと気づくともう1週間になろうとしています。新年を迎えて、本好きの女性とコーヒーを飲みながら、少しおしゃべりを愉しみました。

ぼくは草加の街を、とっても気に入っています。

こっちに引っ越してきて、新しい友人もたくさんできました。草加市に移り住んでもう20年になります。そして、日本画の先生やその仲間たち、歴史を講じる高校の先生や、料理にうるさいSさんや、そしてちょっと気難しくて、それでいてヘミングウェイに殊のほか興味を持っている32歳くらいの独身の男、藤沢周平をすべて読んでいるという60過ぎのSさん、それに、新聞販売店に勤務している66歳のおじさん、パチンコにうつつをぬかしているおじさんがふたり、酒を飲みながら、論議するのが好きなIТビジネスマンなど、まあいろいろです。

さいきんは、コロナ後だから、みんなで集まるという機会がなくなりました。そうですね、それから、映画の好きな人がひとりいたっけ。

女性ですが、さいきんの映画もいろいろ見ている人で、まあ、ヒマのある方のようですから、ときどき街に出てコーヒーを飲みながら、会話を交わしています。ここにあるコーヒーメーカーは、人からプレゼントされたものです。ボタンをポンと押せば、カプッチーノだって自動的につくれます。フィレンツェのバールのおばさんがつくるカプッチーノにはかなわないけれど。

しかし、ほんもののカプッチーノは、こんなに甘くない。

イタリアのバールのおばさんがつくってくれるやつは、どろっとしていて、アルコールが少し入っていて、ピリッとするやつです。

フィレンツェのサラリーマンたちは、そいつをきゅっと飲んで、それから出勤していきます。

だれも、朝からピッザなんか食べない。

しかしどういうわけか、ここにはふつうのサラリーマンはめったに寄りつきません。だって多忙だからでしょうね。ときどきマンションの住人さんで、サラリーマンの人がやってきます。それも、とんでもない時間、――深夜の1時とか、2時とか――に。それがもしも土曜日だったら、それから話がはずみ、ヴァイオリンかギターを弾きながら、1時間はおしゃべりするでしょうか。

たいがいは、その時間は、ひとりパソコンと睨めっこして、しきりに文字を打ち込んでいます。だれにもじゃまされない時間というのは、そういう時間です。

ことに、エドガー・アラン・ポーの小説を読んでいるときなど、時間なんか気にしちゃいません。推理小説に犯罪の動機を持ちこんだのは、このポーがはじまりでしょう。彼の推理小説は、まず動機はなんだ? からはじまります。

松本清張さんもそうですね。

「犯人はだれだ?」を、ポーにいわせたら、ラテン語でcuibono(クウイボウノー)と書いています。「利益bono」という語が出てきます。利益を得るのはだれだ? となります。人はだれでもC・オーギュスト・デュパンになれるわけじゃありませんが、ぼくなら、彼女がぼくになびかないのは、なぜ? というときに、この推理の方程式をあてはめてみます。

さすがのポーも、恋愛については何も書いていませんが、それだって恋愛の動機だろうと、ぼくなどは詮索してみたくなります。そして、これも「利益」なのか、と疑いたくなります。わくわくするのも「利益」かもしれないぞ! と。

それにしても犯罪とはちがうだろうと。しかし似ているかもしれません。

友人にプレゼントされた「幼年期の終り」(アーサー、C・クラーク、早川文庫、2016年)という本は、おもしろかった。

 

言葉――空虚な言葉、とストルムグレンは思った。一度は人間がそのために戦い、死んでいった言葉、もう二度とそのために死ぬことも、戦うこともないだろう言葉。そして世界にとっては、そのほうがむしろ幸福なのだ――

アーサー、C・クラーク「幼年期の終り」、102ページ

 

   友人のYさんはポーのファンです

 

そのくだりを読んで、ぼくは、ちょっとエドガー・アラン・ポーの詩をおもい浮かべました。数ある詩のなかで、なぜか、「ヘレンに」という詩の「ニケーアの舟」をおもい浮かべたのです。

この「幼年期の終り」の主人公も、時速1000キロで走る宇宙船にのっているのです。どうも彼は、地球の過去の姿を見つめているらしいのです。

しかし、書かれたことばは、すべて過去のものです。

書いた本人は、もう地球時間で、1000年もまえに亡くなっているのです。――まあ、そういう話とおもえばいいかもしれません。

――英語を、日本語のようにちゃんと話したり書いたり読んだりできたらいいに決まっていますが、長いあいだ、学校ではそういうことを教えてきませんでした。学校では、たいていテキストをさーと訳して、それでおしまい。

「わかりましたか?」

それでは、ちっともわかりませんね。

ぼくなら、このように教えたいとおもって、娘が高校生のころ、娘のために英語についての記事を書いたことがあります。むかし書いた原稿を引っ張りだしてきて、いまながめているところです。――それには、こんなことが書かれています。転記します。

ここで取りあげる「ヘレンに」という詩は、まぎれもない彼の傑作で、ポーの代表的な詩です。

 

 ヘレン、あなたの美しさは、

 いにしえのニケーアの舟にそっくりだ。

 かぐわしい海を渡って、ゆるゆると、

 やつれ果て、旅に疲れたさまよい人を

 故郷の岸辺に連れ戻した、あの舟に。

 Helen, thy beauty is to me

 Like those Nicean barks of yore,

 That gently, o’er a perfumed sea,

 The weary, way-worn wanderer bore

 To his own native shore.

 

この詩には、もうすでに使われなくなった古語がたくさん出てきます。18世紀から19世紀のはじめにかけて、詩は、詩句のリズムを整えるだけじゃなく、このようにして優雅な古語や詩語をふんだんに用いることが、詩である徴(しるし)みたいに思われていた時代があったようです。これは、散文とは違った詩の特長だと考えられていたようです。

彼らの多くは、イギリスの詩を模倣することからはじまったといわれています。ちょっとめんどうな話をしますが、1行目の「thyあなた」は、yourとは違って、単数の相手にだけ用いる古い語です。ここは意識的にそうしているとおもわれます。詳しくはのちに触れます。

シェイクスピアの時代から単数の「thy」をよく用いられています。これは所有格で、主格は「thouあなたは」(youにあたる)で、目的語は「theeあなたを(あなたに)」(youにあたる)です。

2行目の「ニケーア」については、ちょっとむずかしいのでのちに触れるとして、「those」は「ほらあの、例の。みんなが知っている……」という意味。「barks」はboatsやshipsのこと。「of yoreいにしえの」もいまでは「むかしの……、of old」という意味の古い詩語ですね。

 

参考文献、(村山淳彦「エドガー・アラン・ポーの復讐」、未来社、2014年)、他。

 

――さて、ここで英語の勉強をしようというつもりはありません。

原詩を読んでみましょうという意味で、触れないわけにはいかなくなったのです。3行目の「That」はもちろん「barks舟」にかかる関係代名詞で、ここでは主格になっています。「o’er」の「……を横切って」は、前置詞overの省略したかたちです。「over」は2音節ですが、「o’er」と置くことで1音節にしています。

ですから詩のなかで音節の数を節約したいとき、つまり1音節ですませたいときに使われます。同様に、ときどきの詩趣に応じて「over」が「o’er」になったり、あるいは「taken」が「ta’en」になったりするわけです。これは韻を踏ませるために行なわれたものです。

4行目の「weary」は「疲れた」ですが、これは「way-worn」として、「way」と「worn」をくっつけた「旅に疲れた」という意味の合成語です。エミリー・ディキンソンのところでもいいましたが、いわば「w‐w」は「w and w」というhendiadys and=二詞一意という合成語になりますから、「旅」でもなければ「疲れた」でもありません。「旅に疲れた」というひとつの熟語になってしまうわけです。「旅に疲れた」という意味の熟語は日本語にはないので、困ってしまいます。

「あなた(ヘレン)の美しさ」は、舟のようだ、まるで疲れきったさまよい人を故郷の海辺まで静かに運んでいった、あのいにしえのニケーアの舟のようだというのです。ある女性の美しさを別の何か、――ここで詩人は、それをむかしの舟にたとえているわけですが、それだけで終わらず、この舟の説明だけが長々と3行もつづけられます。

ここでは「Like……のよう」を仲介していますが、長い3行を引っ張っているので、ぼくは「そっくり」と訳してみました。「……のよう」では弱すぎるのではないでしょうか。しかもここでは、直喩=比喩であることを明言している直喩になっているからです。

すると、この詩をもういちどさーっと読み返してみると、ふしぎにおもわれます。「あなたの美しさは、ニケーアの舟のようだ」といっていることです。

「あなたは、舟みたいにきれいだね」といわれて、世の女性たちは喜ぶでしょうか? こんな褒め方をされると、ヘタをすれば怒り出す人がいるかも知れません。

「舟って、何よ!」というわけで。……「きれいな舟のように」ではないのです。「舟のようにきれいだ」といっているのです。

第1の連句でおもしろいのは、まさにこの〔ずれ〕でしょうね。

舟が旅に疲れたさまよい人を、故郷の岸に連れ帰ったというのは、思い遣りと親切心のあらわれと見ることもできるでしょう。

舟にとって岸=港は、憩う場所であり、眠りを約束する「しとね」ですから、ちょっと深読みすると、夜の「褥」は「閨房」となります。

この「ヘレン」は、「舟」という名の、じつはだれでも訪れたくなる「港」のような存在なのではなくて、「港」そのものだった。――とすると、「ヘレンの美」は、待ち焦がれていた「舟」であり、「舟」が持っているもうひとつの「美」であり、「美・美=B・B」の第1連として眺められそうですが、いかがでしょうか。

「ヘレン」は、はつらつとした女性というよりも、「海」がそうであるように、「母」でもあった。フランス語のラ・メール、――「海mer」は「母mére」にも通じます。あるときは男を迎える女のように。あるときは夫を迎える妻のように。あるときは息子を迎える母のように。

――むしろ、母親のような愛情こまやかな感情を「ゆるやかに」描いている、とも解釈できます。

しかも、「あなたの美」が主題になっているにもかかわらず、ここでは外形なんかよりも、振る舞いや人柄にかかわるイメージを持ち出していることです。舟の比喩は、「ヘレン」の外観よりも、人物の与える印象全体を伝える形になっているようです。

「あなたの美」が「舟のようだ」というのですから、きっと美しい帆船なのかも知れません。

その舟は、海の上を走る乗り物です。

そしてじつは「舟」も「海」も女性名詞です。英語には、女性名詞がぜんぶで7つあります。知っていますか? 倦み疲れたさまよい人をあたたかく包みこみ、優しくいたわり慰めてくれるような、美しさの持ち主だというのでしょうか。

2行目の「いにしえのニケーアの舟のようLike those Nicean barks of yore」をゆっくりと音読すると、たとえば古代地中海を舟が静かにすべっていくように、いかにものびやかな調べになっています。

この1行のなかには、8つの音節があります。すべてが長母音か、それとも二重母音に支えられています。例外は「of」だけです。「of」以外はどれも母音が長くつづく音節ばかりなので、似たような感じに聞こえます。――この「聞こえる」というのがポイントでしょうね。

「疲れ切ったweary」と「旅にやつれたway-worn」という、ほぼおなじ意味の語がごていねいにも重ねられています。これを二重母音といいますが、これは「旅の疲れ」を強調する役割を果たしています。

それだけじゃなく、語句の音声の面でもおなじように重複による強調が行なわれているわけです。Weary, way-worn wandererとなるわけです。W-w-w-w がそうです。〔w〕が4つも出てきます。

そして、たたみかけるような〔w〕の重複は、つよく聞き手を惹きつける語句の意味を強調しています。〔w〕が行の頭に出てくれば、それを「頭韻」と呼び、たいていは各語の初頭の音を揃えます。

ポーは、これをかなり徹底的に、そして意識的に、くどいほどやっています。これはもうヨーロッパでは使いふるされたやり方ですが、アメリカでは、新奇なほどモダーンにひびいたことだろうとおもいます。

シェイクスピアなみの古語連句を突き破って見せたのがポーでした。

ただし彼はシェイクスピアを念頭にはおかず、先達のホイットマンやボードレールを念頭においたと思われます。

ある意味が特定の意味を暗示させるという「音声象徴性」がはやった時代がありました。

ホイットマンも、ディキンソンもやっています。

いまでいえば、たとえば「ドナルド・ダック」「ミッキー・マウス」「ピーター・パン」、これは、「D・D」「M・M」「P・P」という母音の音声象徴性をうまく利用したものですが、それですね。「コカ・コーラ」もそうかも知れません。

こうすることで、人の記憶に入りやすいからです。吟じやすくておぼえやすい。それを、ポーは狙ったのだとおもいます。

くりかえしますが、彼女の美しさはそのむかし、疲れた旅人を故郷へ連れ帰った舟のようだといいます。放浪に疲れた旅人、つらい人生の旅に倦み疲れた精神の彼方へのノスタルジア、安らぎに満ちた魂の故郷への憧れの声。――いろいろに解釈できるでしょう。読書人の楽しみは、そこは自由勝手に、「思いつくまま解釈していいのだよ」といっているようです。

その理由を述べます。

ふつう、旅人が帰っていくところが、ニケーアの舟が葡萄酒色に染まった海を行き来するような、神話と伝説の世界――古代の光と美の格調にあふれた理想郷として捉えることもできるでしょうが、これは、ギリシア神話に登場するニケーアという女神を連想するからです。

そこで、さっきの「ニケーア」について述べます。

ニケーアは、むかし小アジアの北西部にあった古代の王国ビチュニアの古い都。「ニカイア」ともいわれるそうです。

神話では戦いの女神として描かれていますが、おそらくはそうではなくて、地名のほうでしょう。

ぼくが考えるには、しかもじっさいに存在した「ニケーア」ではなくて、おなじ名のどこか架空の国。宇宙船にのって、遠くに行かなければけっしてたどりつけない国? そんなイメージをもちます。

それを作者は臆面もなく「ほら、あの、よくご存じの、……those」と書いているのですから、あなたのニケーアは、どこ? ときいているみたいな詩句に聞こえます。

旅人を救う舟のイメージ、それは、読者の想像にゆだねようとしているかのように見えるのです。戦いの女神が憩う故郷と解釈しても、どうもしっくりしません。そこは、あのポーのやることですから、にくたらしいほど、うまくできあがっていると思うわけです。

英詩は、1行を〔ダダン、ダダン、ダダン、ダダン〕というように、リズム感をもってひびくように読まれます。

これを日本語におきかえると、〔タタタタタ/タタタタタタタ/タタタタタ〕というふうに、5・7・5という語数で読まれるけれど、これとは違い、「弱強4歩格」といわれ、じつは「弱強」の最小単位でリズミカルに吟じられるように書かれています。いかがでしたか?