■モダン・イングリッシュの時代。――

シェイクスピアの国、語にきをかけた時代

シェイクスピア

 

ことばって、おもしろいな、とおもう。むかし、モダン・イングリッシュの「outpeopling」っていう単語、聞いたことあるでしょうか。いきなりで恐縮ですが、今夜は、そんな夢みたいなことを想いうかべた。

ヘンリー8世がケンブリッジ大学ではじめて欽定のギリシャ語講座というものを開設したとき、聖書が英訳された。たとえば「バビロンに人を移す」という部分の「人を移す」をoutpeopling(アウトピープリング)と訳された。

こうしてつぎつぎにモダン・イングリッシュが誕生していったのである。

人を外に出すからアウトで、それに人びとのピーブルを加えてアウトピープリングとしたわけである。

「十字架にかけられる」はラテン語からきた語crucified(クルーシファイド)が一般的だけれど、彼はcrossed(クロスト)とするなど、これ以上やさしくできないほどの英語になった。

それから大航海時代になると、これらをoversea languages(オーバーシー・ランゲッジズ)といわれるようになった。このoversea languagesは、歴史的にも地理的にも、遠いところからやってきたことばという意味になった。

さまざまなことばがやってきて、さまざまな英語がつくられていく。

これをRenaissance spellings(ルネサンス・スペリングズ)という。こういう難解な外来語が入ってくると、イギリスではやさしくいい直す風習が生まれた。つまりいい替えをする。

英語のふるさとは、アングロサクソン人のことばであるとされている。Englishは、むかしEngle=Angle人のことばだった。

アングル人はデンマークとドイツの国境にいたゲルマン民族の一派で、なぜアングルといわれるかというと、おもしろいことに、この地方は「釣り針」(angle)の形をしていたからだった。Englandという地名もアングルズ・ランドがなまったものといわれている。

さて、英語学の本家はドイツである。――そういうことは、学生時代にオクスフォード大学出身のベンジョミン・F・シスクという教授から教わっていて少しは知っていた。

Often(オフテン たびたび、しばしば)の語を、アメリカ英語式に「オフン」と発音して読んだところ、先生から注意を受けた。それから先生の長い講義を聴き、中世英語ではoft(オフト)といい、それがなまってoftenになっていったという歴史的な経緯を聴かされたのだった。

目からウロコが落ちる思いがした。

そして、television(テレビジョン)の例を出され、英和辞典の見出し語でふたつの違った語に分綴されている意味を教わった。これを先生は、日本語の漢語の偏と旁(つくり)の例で話されたのである。

Teleは、ギリシャ語の「遠い」という意味だから、「遠いヴィジョン」となる。そして、teleohoneは、テレ・ホーン、つまり「遠い音」となる。そして、

「dogの動詞形は、何か?」と質問された。

みんなも分からない。名詞形の「犬」しかおもい出せない。辞典を見ても、当時は動詞形は出ていなかった。

「それは、まといつく、尾行するという意味になり、察のイヌという成文になった」と教わった。当時、昭和37年ごろの研究社版の英和大辞典にも、いろいろと漏れがあった。ぼくは、ベトナム戦争がはじまってから、英字新聞を購読していたが、分からない語がふんだんに出てきた。たとえば、sniper(スナイパー 狙撃兵)という語だった。

Snip(スナイプ)は「雉(きじ)」。それに-erをつけたらいったい何になるのだろうとおもった。

辞典にも出ていない語が、英字新聞には毎日のように、ぞくぞくと出てくる。軍事用語、経済用語はいうにおよばず、科学用語、医学用語などなど、さまざまなことばでつづられていた。

 

ヘンリー8世

中世の時代には、ヨーロッパ文化の先進国はなんといってもフランスだった。

華々しく文化が爛熟したルイ14世の時代、アカデミー・フランセーズができ、それがヨーロッパの言語形成の雛形になった。この事業は国家的な規模になり、「国語は国家なり」ということを実践した時代であった。国語の発達した一等国は、ますます国力をつけ、押しも押されぬ強力な国になった。

フランス語がイギリスに最も多く入った時期は、1400年ごろだった。

これを「チョーサーの山」と呼ばれる。第2の頂点は1600年ごろ。――1600年ごろといえば、シェイクスピアの時代。これを「シェイクスピアの山」と呼ばれる。――つまり文芸、演劇がさかんになり、イギリスがルネサンス時代を迎えたエリザベス朝時代である。と同時に、宗教改革の波が押し寄せた。

ルネサンスと宗教改革というふたつの大きな波が、同時にイングランドに訪れたのである。ぼくはこの時代をもっと知りたかった。イギリス一国の話だけじゃなく、イギリスに大きな影響を与えたフランス語、およびフランス文学との比較で、ヨーロッパ文学、ヨーロッパ言語というものを比較・研究してみたかった。

そういう角度で学位を狙うには、学部の学生には荷が重かったが、教授はじぶんの熱意に助言を惜しまなかった。

生粋の英語、――つまりアングロサクソン語というのは、取るに足りないわずかな量で、ほとんど1音節で占められる。というより、生粋の英語は、もともと古代ゲルマン語なのだから、ゲルマン人でなくても、いまでも低地ドイツに住む年寄りたちは、いくぶんなじんでいることばである。

ぼくがイギリスにいたころ、たかがオーバー・コートのことを、トップ・コートとも、グレイト・コートとも呼ばれた。ロンドンの街でも、2ブロック離れたら、もうこのように呼び名がちがった。

生粋の古代英語のある語は、旧ドイツ語だった。ドイツ語の低地地方の方言だったのである。これはたんに英語の語彙の数で比較した例にすぎず、たとえば、be動詞のisとかbeとか、定冠詞のtheといった基本的なことばは、すでにゲルマン語としてイングランドに入っていた。外来語ではなくて、大和英語のほうが圧倒的に使われている。

それが学問上の論文や科学記事になると、逆にゲルマン系のことばが下がって50パーセントを下まわり、フランス語系の外来語が多く使われていることが分かった。われわれ外国人から見れば、もともとあった大和英語のほうに親しみを感じ、意思の疎通がはかりやすい。

それにしても、それらは途中で語の音韻が変化して、「アー」が「エー」になり、「エー」が「イェー」になり、「イェー」が「イー」になり、「イー」が「アイ」になり、「アイ」が「アオー」になり、「アオー」が「オー」になり、「オー」が「ウー」になり、「ウー」が「アウ」になるというおびただしい語の変遷を繰り返したために、英語はとてもやっかいなことばになったのである。

こんなふうに大母音推移を繰り返してきたので、ほんらい違う意味のことばがおなじ発音をするということになった。

たとえばsea(シー 海)とsee(シー 見る)、meat(ミート 肉)と meet(ミート 会う)がそうだ。ただしスペリングはそのまま残った。スペリングは従来のまま残されたので、たとえば語のなかに「h」、「b」、「t」があっても発音されない単語も生まれた。

フランス語の場合、これらの子音字は、そのあとに母音字がきたときにだけ発音され、語のおしまいが子音字でも、つぎの語が母音字ならリエゾンして発音される。これはフランス語の特長であり、けっきょく英語もそのように発音されるようになっていった。詩行を立てる場合、音節の数をそろえるために、わざわざ子音字でおわる語と母音字ではじまる語を組み合わせたのである。

文豪ジョンソン(Dr Samuel Johnson 1709-84年)は、たいていドクター・ジョンソンと呼ばれている。「ジョンソン辞典(A Dictionary of the English Language 1755年)」を出した人として知られている。

ジョンソンの辞典は文学界に多大な影響をおよぼし、当時Dictionaryといえば、ジョンソンの辞典を指した。当時庶民が使っていたことばは乱れていて、ジョンソンの辞典に載っていることば以外はだんだんと使われなくなった。それほど画期的な辞典だったらしい。

「常識」をぶち壊すことも辞さない。

だが、アインシュタインにはかなわないだろう。アインシュタインは「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう(Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.)」といっている。またこうもいっている。

「可愛い女の子と1時間いっしょにいると、1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。(When a man sits with a pretty girl for an hour, it seems like a minute.But let him sit on a hot stove for a minute - and it's longer than any hour.That's relativity.)」といった。

だが、かつては大英帝国に組み込まれていた旧植民地出身の英語作家たちは、ペンで旧宗主国に逆襲し、英語文学と英語をしきりにつくり変えているのだ。英国にながく住んでいるインドの作家ヴィクラム・セムや、スリランカ生まれのカナダの作家マイケル・オンダーチェ、ナイジェリアの作家ベン・ヤクリなどなど。

たとえば「何かをput outする」というのは、たとえば火を消す、(肩の関節)をはずす、「だれかをput outする」のは、人をいらいらさせることだし、不都合を起こしたり、競争相手を卑怯にも競技からはずすことにもなり、患者の意識を失わせることにもなる。

はたまた人が「put out」するというのは、貞操のタガをゆるめたり、身持ちのわるい、性にだらしのないことを意味したりする。その他、さまざまな定義がえんえんと書かれている。

しかし友人とぼくは、あることで意見が一致している。「ジョンソン辞典」は、たんなる辞典ではなく、あれは芸術作品であるという点である。彼の語義の定義はなにしろ吹き出したくなるほどすばらしいのだ。

詩人としてのジョンソンは、辞典づくりにおいてもじゅうぶんに発揮された。「to hiccoughしゃっくりする」は、「胃の痙攣とともにむせび泣く」ことであり、「embryo胎児」は「胎内で未完成の子」であり、「thumb親指」は「短くて強い指で、他の4本の指に答えている」と定義している。

「uxorious恐妻家の」は、男は「夫婦間の溺愛という病毒に冒されている」ことなのだそうだ。「backbiter陰口をたたく人」は、「こっそり誹謗する人、その場にいない人を非難する人」。「ガヴェストン」、これは人名なのだが、いろいろ書いてあって、最後に「とかくお追従をいうしか脳(のう)のない卑劣漢」と定義している。

ここを翻訳した文章は「能のない」ではなく「脳のない」とわざわざ書かれている。

辞典を翻訳するのだから、まちがいは極力避けたいが、この場合、あえてそうしたとも読めておもしろい。

イギリスにルネサンスが訪れたのは、1509年としている学説が有力である。

ヘンリー8世が即位した年である。

この王は学問の重要性のわかる人で、ヘンリー8世はイギリスじゅうにグラマー・スクールをたくさんつくった。グラマー・スクールというのはラテン語を教える小学校のことである。学区は、市や町という行政区ではなく、教会区にあわせて教会が金を出して授業料のない私立学校としたにはじまる。

シェイクスピアは、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの町でグラマー・スクールに通った。そこでラテン語を学んだ。国語である英語はあまり教えなかったらしい。いきなりラテン語を学ばせた。そういうことで、ヨーロッパの義務教育の小学校を出ると、だれでもラテン語が読み書きできるようになった。そういう意味では、ラテン語はヨーロッパの漢文なのである。

ドイツ人もイギリス人も、フランス人も、スペイン人も、英語がよく分からない人でもラテン語なら分かるようになったため、ヨーロッパの大学では、英語で授業をしていても、先生がいざ黒板に書くときは、ラテン語で書く。

彼らの共通語はラテン語なのである。

こうしてルネサンス時代を経ることで、モダン・イングリッシュが生まれた。

ルネサンスは神さまよりも人間のほうに関心を向け、おもしろいことに、人間中心の考えが浸透していった。

これをhomocentric(ホモセントリック 人間中心)といい、ぎゃくに神さま中心をtheocentric(セオセントリック 神さま中心)という。ヘンリー8世は国じゅうにグラマー・スクールをつくり、大学改革を実行してりっぱなカレッジ(クライスト・チャーチなど、専門の学寮)をたくさんつくった。わざわざ新しい学問The New Learningのための講座を設けさせた。

これがモダン・イングリッシュの発祥を生んだ。

ちゃんとした英文の欽定訳聖書ができたのはジェームズ一世の時代である。

イギリスの大学、――というよりも広くヨーロッパの大学は、どこの学寮に入学するかで真価が問われる。

ケンブリッジ大学ならば、トリニティ・カレッジが世界最高の学府といわれている。パリのソルボンヌ大学は、文系を主体にしたパリ大学のひとつの学寮である。学寮は字のごとく、全寮制である。当時、小学校も大学も、女性の入学がゆるされなかった。

そこで、貴族の子弟は、邸宅に教授らを呼んで個人指導を行なわせた。だから、どこの大学も卒業していない才媛がぞくぞくと生まれた。現在でもそうだ。

30年ほどまえになるが、アメリカ駐在英大使にイギリスの女性が就任した。記者会見の席で、多くの記者から質問を浴びた。

「あなたはグラマー・スクールも、パブリックスクールも、どこの大学も卒業されていないのは、どうしてですか?」と記者の質問を受けた。バカな質問をしたものだ。名のある第一線の教授たちの指導を直接受けてきたので、どこの学校も卒業していない。彼女は、記者の質問に満足に答えなかったようだが、このことが、ぎゃくにニュースになった。

――今夜は、とつぜん、こむずかしい話を書いてしまった。こんな話を書くつもりなどなかったのに!