目漱石の「美人草」と心中未遂事件

夏目漱石

 

さいきん、ひさしぶりに漱石の「文学論」を読みはじめた。そういうときに想いだす漱石の顔は、左腕に黒い喪章が巻かれているこの写真である。これは大正元年(1912年)9月に撮られた写真である。

明治天皇の葬儀に出席した漱石の沈んだ顔がなんともいえない。

明治という時代がおわり、1914年(大正3年)、漱石の小説は、後期三部作となる「心」の連載がおわった。「心」は明治天皇の崩御に際し、殉死をした乃木希典の影響で書かれたものである。

さいきん、漱石の書簡がまた見つかった。夏目漱石が編集者にあてた「漱石全集」(全18巻、岩波書店)未収録の書簡があらたに見つかった話は、すでに書いている。

とうじの文芸批評にたいして、漱石の不満がうかがえる貴重な資料であり、その書簡は、「新小説」の編集者だった本多嘯月(しょうげつ)に送られたものだった。

夏目漱石と永井荷風の自筆の手紙が新たに見つかったことはよろこばしいことである。

東京都千代田区の東京古書会館で開催されるオークション「明治古典会七夕古書大入札会」(明治古典会主催)に出品、公開された。

漱石の手紙は、弟子の森田草平の評論を、雑誌編集者に売り込む内容だったという。

 

漱石の本

漱石が大学を辞め、朝日新聞社に入社後、はじめての新聞連載小説「虞美人草」の単行本が、明治41年(1908年)年1月、春陽堂から出版された。手紙は前年の11月27日付で、春陽堂発行の雑誌「新小説」の編集者・本多嘯月(しょうげつ)宛てとなっていて、「虞美人草」について森田草平が「非常に詳密な研究」をおこない、「長大なる批評」を執筆したので、同誌1月号に掲載してほしいと「推挙」したもので、現行の「漱石全集」にも未収録になっていた。

森田が批評を書いていると聞いた漱石が、森田に、

「君の批評を先鋒(せんぽう)として日本の批評が従来の態度を一新する様になったら」と期待を込めた手紙を送っている。

「文壇の批評は逐日真面目なる研究的態度をとらねばならぬ事」として、とうじの評論を「漫罵杜撰の巣窟」と批判したものである。

漱石はこの年、東京帝国大学などを辞職し、朝日新聞社に入社した。この手紙のまえに、森田草平にたいして「其批評が褒貶(ほうへん)いづれに向ふにせよ小生は心中より深く君の好意を感謝致候」と手紙をおくり、森田の評論に期待していたようすがうかがえる。

だが、森田草平の「虞美人草」評は、けっきょく「新小説」に掲載されなかった。

そのいきさつはどうあれ、漱石が弟子の森田草平にたしかに格別の好意を示したのは読むに値するだろう。

世間でいう批評というのは、「漫罵杜撰の巣窟」と表現しているのを読むと、「いい」とか「悪い」とか、感覚的な感想に終始する批評は読むにたえない、そういいたかったのかもしれない。漱石の「文学論」、「文学評論」を読めばわかるように、きちんとした批評スタンスが必要だという、漱石の鬱憤が見え隠れしている。

いっぽう荷風の手紙は4月9日付(年未詳)になっていて、友人の西村渚山(しょざん)が小説掲載の件で行くので面会してほしいと、とうじ「新小説」の編集主任だった後藤宙外に依頼したものである。こちらも現行の「荷風全集」には未収録だった。

 

 

平塚らいてう(明子)      

    

で、ぼくは漱石のそのころの朝日新聞社入社や、小説「虞美人草」について、ぼくなりにあらためて何か書いてみたいとおもう。漱石のはじめての新聞連載小説が、どう読まれたか、漱石でなくても気になるところだろう。

「虞美人草」の予告記事にはこう書かれている。

 

「……花の名を拝借して巻頭に冠らす事にした。/純白と、深紅と濃き紫のかたまりが逝く春の宵の灯影(ほかげ)に、幾重の花弁辦(はなびら)を皺苦茶(しわくちゃ)に畳んで、乱れながらに、鋸(のこぎり)を欺(あざむ)く粗(あら)き葉の尽くる頭(かしら)に、重きに過ぎる朶朶(だだ)の冠を擡(もた)ぐる風情は、艶とは云え、一種、妖冶(ようや)な感じがある」

 

と書かれている。

――明治40年のとうじ、「虞美人草」といえば、ふだん、漢文の教科書「十八史略」に書かれた「項羽と劉邦」の決戦の場でいっしょに戦った項羽の妻、虞美人をおもい出したにちがいない。

虞美人の遺骸の横たわる地面から生えた花、「ひなげしの花」こそ、「虞美人草」と名づけられたのである。「――一種、妖冶な感じがある」とは、そのことだろう。

「ひなげしの花」は、アグネスチャンの持ち歌でもある。で、その年の6月23日から「虞美人草」の連載がはじまった。世間の期待は大きかった。

「あの、夏目漱石の小説だって?」 

――ということで、東京朝日新聞の読者は、期待感をもって読まれたにちがいない。漱石は特製の原稿用紙に、愛用のペリカンの万年筆で、インキはセピア色のインキで書いた。

6月5日には、長男純一が生まれたばかり。

弟子の小宮豊隆、鈴木三重吉が大きな鯛をお祝いに持ってきたりして、家のなかはわいわい騒がしい。

6月11日には、西園寺公望首相から著名な文士たちを招待して、ご意見をたまわりたいと漱石にも出席をこわれる。公望が招待したのは幸田露伴、森鴎外、泉鏡花、巌谷小波、島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、広津柳浪、坪内逍遥、二葉亭四迷といったそうそうたる人物。

しかし漱石は、出席をこばんだ。

なんと漱石は、「時鳥(ほととぎす)厠半ばに出かねたり」という句を添えて、公望に送っている。

それを受けて、朝日新聞に「首相の文士招待と漱石氏の虞美人草」というタイトルで、西園寺首相の招待状が掲載されたのである。――それでは、「虞美人草」の文章の一部を引用してみる。

 

森田草平

 

あとは静である。静かなる事定(さだま)って、静かなるうちに、わが一脈(いちみゃく)の命を託(たく)すると知った時、この大乾坤(だいけんこん)のいずくにか通(かよ)う、わが血潮は、粛々(しゅくしゅく)と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏(じゃくじょうり)に形骸(けいがい)を土木視(どぼくし)して、しかも依稀(いき)たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶(うやむや)の累(わずら)いを捨てたるは、雲の岫(しゅう)を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥(こうでい)を超絶したる活気である。古今来(ここんらい)を空(むなしゅう)して、東西位(とうざいい)を尽(つくし)たる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石(かせき)になりたい。

夏目漱石「虞美人草」より

 

ごらんいただくように、正直いって、失敗作だった。彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の凝りに凝った文章ではあるが、尾崎紅葉の「金色夜叉」にはかなわない。

漱石の文章は英国で鍛えた修辞レトリックの芸を駆使しているが、後年の漱石の文章にはるかおよばない。これは子規から学んだ文章ではなかった。漱石らしい漢文訓読体の粋をつくしてはいるが、弟子の小宮豊隆もいうように、いかにも「厚化粧の文章」にすぎるといえた。

ところが、これが女性たちには受けたのである。

連載がはじまると、三越呉服店から「虞美人草浴衣地」とか、「虞美人草帯留」とかが発売され、貴金属店からは「虞美人草指輪」が発売になって、鳴り物入りで「虞美人草」の社会的なフィーバーが巻き起こった。

「Zone of Quietここではお静かに」と、ひややかに見つめるその他令夫人もいたらしい。

そういえば、むかし、リング・ラードナーの作品に「ここではお静かに」という短編集のあったことを想いだした。

「虞美人草」が連載されていたそのころ、日露戦争の終戦処理として、日本は北緯50度以南の樺太を日本の領土に返還させることに成功し、「樺太庁」が置かれた。そのころ樺太には、2万6000人もの日本人が住んでいた。それが昭和19年には39万人にふくれあがったのだった。

苦しみ抜いた小説「虞美人草」は、10月30日におわった。――「虞美人草」の校閲を担当したのは、なんと石川啄木だった。

彼はぐうぜん校閲の仕事にたずさわっていたが、漱石と会った話は寡聞にしてぼくは知らない。

やがて啄木は森鴎外と出会い、「昴」に歌を投稿するようになる。

一ヶ月後のある日、荒井某と名乗る19歳の男が、紹介状も持たずに漱石宅をおとずれ、信州に帰る旅費もないので、先生の小説のネタになる話をするから、ひとつ聴いてくれといって、話を売りつけてきた。

ちょうど上田敏がきていて、「あとできてくれ」というと、すぐまたやってきた。彼はついに、信州に帰らず、以来、漱石宅の書生になったのである。

彼は、明治41年の4月までの約5ヶ月間、漱石宅にいた。

年末になって、大阪朝日新聞社から、年があけたら、30枚くらいの小説を書いてほしいといってきた。これは、翌年の元旦から「連載」欄を埋める予定になっていた島崎藤村が、「書けません」といってきたので、漱石にお鉢がまわってきたのである。――さて、何を書こうか? としばし考える。

さっきの荒井某から聴いた話を書こうか、とおもう。

それが「抗夫」という小説である。「抗夫」は、明治41年1月1日から4月6日までの96回の連載となった。

漱石は、人から聴いた話を書くタイプの作家だった。もちろん創作なのだから事実をそのまま書くのではなく、脚色がある。後年、弟子の森田草平の話を聴いて、平塚らいてうとの心中行を聞き、その女はおもしろいといって書いたのが「三四郎」だった。

ぼくは「三四郎」を語るまえに、漱石の門下生だった森田草平の話をしなければならない。そしてそのまえに、平塚らいてう、――本名、平塚明子の話をしなければならない。ぼくにとって平塚明子こそ、説明に窮する女性はいない。そのころの明子の心理状態は、哲学的で、ぼくの手にはおえないからだ。

彼女のこころは、明治時代にあって、恐ろしく飛んでいた。

彼女は明治40年(1907年)、女子英学塾で勉強していたが、禁欲的な校風に飽き足らなくなって、九段中坂ユニバーサリスト教会のなかにできた成美女子英語学校に転じる。そこで文学教室が設けられ、毎週土曜日、明子はそこに通う。これをつくったのは与謝野晶子で、その講師のひとりが森田草平だった。

 

田中幸光

 

森田草平は、授業中、ノートもとらず、講師であるじぶんの顔をじーっと見つめるつづけるひとりの女に注目する。その黒い瞳に吸い寄せられるような気持ちになる。森田草平はこのとき26歳、明子は21歳だった。

明治41年1月、森田は回覧雑誌で、明子が書いた小説を読む。

それには、近代的な女性が描かれ、のらりくらりする優柔不断な恋愛相手の男を捨てる話が書かれていた。これを読んだ森田は、作品の感想にかこつけて、明子にラブレターを書き送る。投函すると、すぐ返事がきた。

手紙の末尾に、「御言葉に思ひ乱るることの繁く候」などと書かれている。いきなり熱烈なラブレターが送られてきて、明子はどうしていいかわからず、「思ひ乱るる」と書く。

ふたたび森田はラブレターを書く。

また返書が送られてくる。

それからふたりは急速に接近し、九段のレストランに入って、ボーイの目を盗んでキスを交わす。やがて森田の腕のなかで彼女は「どうかして、もっとどうかして」と哀願するように泣きはじめる。

しかし、これ以上の発展はなく、森田草平はなかば腹を立てるが、明子の魅力には抗しきれず、ますます明子への恋は募るばかり。2月になってからも、明子は手紙を送りつづける。というより、直接森田に手渡す。「読んでください」といったのだろう。

読んでみると、自分はいままで禅の力を借りて、胸に秘めた情熱に駆られている自分を冷静に見つめることができた。しかし、もうその力も尽きてしまい、できればあなたの手にかかって死にたい、――というようなことが書かれている。

これを森田はまじめに受けとめる。

翌月の3月21日、ふたりは塩原温泉を目指して汽車に乗る。

明子は出発前に遺書を書き残す。

「われは決して恋のため人のために死するものに非(あら)ず、自己を貫かんがためなり、自己の体系(システム)を全うせむためなり、孤独の旅路なり」と書く。22歳になった明子と27歳になった森田は、けっきょく塩原温泉では死ぬことはできなかった。

森田は愛のための心中を覚悟したが、明子にとっては、命を賭けた自我完結の実験に過ぎず、ふたりが肉体的結合にいたることはなかった。ふたりがこれから死のうというのに、この世での最後の肉体的な結合もなく、あくまで知的に振る舞う明子の魔的なまでに肥大した精神のまえで、彼はおもいを遂げることができなかったのである。

そしてふたりが塩原温泉に宿をとった3月22日、雪が降って寒い夕方、森田は明子のからだを求める。が、彼女はふたたび拒絶する。

翌日、塩原湯本まで俥(くるま)でいき、そこから会津方面の向かって雪の山道を歩く。夕暮れがせまり、森田は明子を抱き寄せ、懇願するようにいう。

「私への愛のために死ぬ、そういってください」と。

明子はこれにはこたえず、もとより明子は、じぶん以外の人のために死ぬことはできない、そのように、深くこころに決めていた。

森田は気づく。平気でキスをさせるのに、肉体的結合をこばむのは、もしかしたら、妊娠を恐れているのか? と森田は考えたかもしれない。

明子はじぶんの死の劇化を望んでいるにすぎないのだと。――死への漠然としたあこがれを、より確かなものにするために、じぶんを道連れにしているに過ぎず、森田はあきれ果てる。怒った森田は、明子が持ち歩いている黒革の懐剣を取り出すと、彼は谷間にぽーんと投げ捨て、

「私は生きる。私はもう自分じゃ死なない。あなたも殺さない」といって、明子の瞳を見つめ、彼の懐にピストルがあったが、それを使う気にはなれず、ふたりは抱き合って雪の上で眠る。

翌日、ふたりが宿にもどると、ふたりの共通の友人生田長江がきていた。明子が何通か、手紙を出していたので、心配してやってきたのだ。こうして森田草平と平塚明子との心中未遂事件は世に知られることになった。

その日、宿を引き払って長江とともに東京へ舞い戻った森田は、師である夏目漱石の家で居候として過ごすことになる。彼の下宿先はもう引き払っていたので、彼には行くところがなかった。漱石は快く居候させた。

――この話を聴いた漱石は、「三四郎」のなかで、里見美穪子という女性のモデルとして明子を描いたのである。森田草平は、明子との物語をあけすけに「煤煙」という小説に書いて、朝日新聞に連載した。ものすごい反響を受けたのはいうまでもない。島崎藤村の「新生」以上の話題作となった。