きょうもつがなくれてゆく

 
じぶんの日記「二葉亭餓鬼録」

 

 

 マンションに住んでいるY社長がやってきて、

「あのう、女房、見ませんでしたか?」ときいた。

「見ませんでしたけど、……どうしました?」ときくと、

「女房がいないんですよ。靴もあるし、テレビもつけっ放しになっていて、ケータイもあるんですよ。どこへ行ったのか、分からなくなって、……」といって、困った顔をしている。

社長はスーツ姿で、鞄をぶら提げている。

「これから、会社ですか?」

「ちょうと用事がありましてね。……ぼくは、会社に行かなくちゃならないので、……。ひょっとして、ベランダから落ちたのかなあ」とかいっている。

「えっ! 落ちたって。……」それじゃ、たいへんだとおもい、大急ぎで裏庭に行ってみた。社長もついてきた。

だが、だれもいない。閑散として静まりかえっている。

「おかしいな――」といっている。

それから20分ぐらいしてからだったろうか、Y社長が事務所にやってきていう。

「息子がきて、いま、息子と近くのレストランで食事をしているそうなんですよ。人騒がせな話で、さきほどは、申し訳ありませんでした」といった。

「それはよかったですね。……ぼくも、ほっとしましたよ」といった。

朝っぱらから事故が起きたのかとおもって、じっとしていられなかった。

Y社長は安心したような足取りで、クルマに乗って会社へ出かけた。この人は、ときどき酔っぱらって、自宅の玄関ドアのまえでおしっこを飛ばしたりする。チャイムを鳴らしたが、奥さんがなかなか出ないので、そのうちに、原っぱと勘違いして放尿したという。

この話は奥さんから聞いた。

「主人は、酔うと、わけがわからなくなります。ここはマンションの10階だなんておもわなくて、なんでしょうね、おしっこなんかしたりして、恥ずかしいわ、ははははっ」といって笑っている。

「わたしもわたしで、ちょうどお風呂に入ってたもんで、すぐ出られなかったんですよ。チャイムを何回も鳴らしたり、ドアを蹴とばす音も聞こえましたけど、出られなかったのよ」といって、いいわけしている。

 

田中幸光

 

玄関キーはどうしたのだろう? 失くしたのだろうか?

この夫婦はそうはいっても、夫婦仲はいいほうだ。社長は酒さえ飲まなければ紳士で、800人の社員の頂点に立って、ばりばり仕事をするタイプの熱血漢である。

「そうね、お酒さえ飲まなければね、ははははっ」と彼女はいう。彼はまだ60まえだ。奥さんは50代。犬を飼っている。毎日犬の散歩はかかさない。雨の日も散歩をしている。

さて、水を飲まなくちゃとおもって、事務所に入ってかなりの水を飲んだ。――事務所のデスクの上に、新聞の切り抜きが一枚置いてある。それにはこんな歌が載っている。

 

  死に場所ときめて蛸壷(たこつぼ)掘る浜べ少年の日の入道雲わく

                        (小山市・前沢 韶)

 

敗戦が間近に迫ったころ、軍は海岸の小さな濠(ほり)に身をひそめ、爆薬を抱いて敵戦車に身を投じる訓練をしたという記事だった。

それを見ていた少年は、自分の記憶をたしかめるようにこの歌に託したのだろう。そのときに見た夏の雲が美しかったというのである。じぶんにはそういう記憶はない。ひろい田んぼのある風景がおもい浮かぶだけである。北海道には爆弾ひとつ落ちてこなかった。

ただ、隣りの家で、南方へ出征していった父親が、戦死を遂げたという知らせが入ったのを記憶している。戦争の実感は何もなかった。

終戦まえ、ロシア軍が北海道へ上陸したという記憶もない。もしも、ソ連に占領されていたら、北海道の北半分はソ連領となっていたはずだ。

 

  日記帳箱一杯に溜まりたり処分の仕方考へてゐる (東京都・酒巻 誠)

  「タンチョウの頭の赤はハゲなんよ」と語るじいさま聴くもじいさま                                                                                                (高槻市・佐々木文子)

 

こういう歌は好きだ。この日記はもうそうとうのボリュームになった。あと10年ほどして、この大量の日記をどうするかきっと考えるに違いない。しかし、捨てることはしないだろう。死ぬまでどこかに大切に保管しておくことだろう、とおもう。

 

  少年の記憶たしかな増毛海

  ナターシャ泳ぐ生まれたままで

 

  ざくろの実海に浮かべて遊ぶ日の

  あの青い空、戦後の空よ

 

  オホーツクの荒波勁(つよ)き海岸に

  野うさぎの顔つき出してをり

 

ナターシャ

 

少年のころに見た世界は、とてもおもしろかったなとおもう。――あまりに遠い記憶なので、はっきりしたイメージはない。

ただ、小学校にあがったとき、大きな日の丸を描かされた。「君が代」斉唱はごくふつうだった。小学校へあがったとき、はじめて女子生徒と机をならべて座った。ドキドキした。相手の女子はお寺のТ子ちゃんだった。いま、ちらっとそんなことをおもい出す。

陸軍あがりの先生がひとりいて、よく体罰を与えた。

そういう怖い想い出もある。霜降りの学生服に、ズックでできたランドセルを背負って学校へ行った。ときどきひとり馬にまたがって行った。北竜村の真竜小学校の建物は、木造2階建てで、全館ともヨコ板貼りの、いかにもいなかの学校という感じだった。生徒数は、45人入りの教室が18室あった。全部で810人の生徒がいた計算になる。

ぼくは、1年生のときは、篠原慶子先生が担任だった。

大きなグラウンドには、これまた大きな石があり、全校生徒の記念写真は、みんなそこで撮った。

6年生になると、担任の先生が変わり、山川武先生になった。まだ独身の先生だった。

6年生のときに、篠原慶子先生と、担任の山川武先生が大恋愛をし、ふたりは結婚された。

われわれ男子生徒は、いろいろうわさ話をし、先生がデートをした翌日、眠そうな目をして登校してきた。それを見た生徒はいった。

「先生、おはようございまーす。先生の目、真っ赤です」と、塚田の律ちゃんが声をかけた。

「おはよう、……そうか」と先生はつぶやき、しばらくして黒板に文字を書いた。

《1時間目は、自習》と書いた。

書き終わると、先生はどこかに行ってしまった。自習なんか、みんなやるわけなかった。わいわいやっていると、先生がひょっこり戻ってきた。

「田中、おまえ字がじょうずだな。……6年生のなかでいちばんじょうずだ」と褒めてくれた。

「国語の本に書いてある、好きな漢字を、黒板に書け。……みんなは、田中の書く漢字をノートに書きうつせ。それがきょうの自習だ」といった。

そして、また先生は雲隠れした。その後の話はおもい出せない。

山川武先生のことは、あとで知ったが、書道5段の腕前だったそうだ。

学校の体育館のいちばん高いところにある、真竜小学校のモットーを揮毫したのは、山川武先生だったと聞かされた。《前進》と書かれていた。

6年生になるまで、ぼくは出席簿の1番先に書かれていて、「規律!」、「礼」、「着席」と号令をかけるのは、ぼくの役目だった。クラス委員は、岩田達三君だった。彼は北竜中学校の岩田校長先生の長男だった。長男のくせに、「達三」といった。

クラスでいちばん成績がよかったが、ひじょうにおとなしい子だった。

ぼくは、先生にきけないことは、彼にこっそり教えてもらっていた。女子の学級委員は塚田律子さんだった。この子は、口から先に生まれてきたみたいにおしゃべりだった。のちに、中学生になって、ぼくも学級委員になり、律っちゃんのことを好きになった。彼女は合唱隊でますます本領を発揮し、男たち全員を、大脳中枢で味わわせるソプラノの余韻というものを食らわせた。

「ぼくはそういう律ちゃんを、好きだったんですよ」と本人に告白したのは、平成19年の秋だった。彼女の経営する北海道・砂川市の美容室に出向き、そこで告白した。彼女は、そのころのぼくのことをほとんどおぼえていないといった。

「卒業アルバムを見たのよ。でも、田中さんのこと、まったくおぼえていなかったわ」といった。

 

  砂川市の風景は、なつかしい。

  北海道はなつかしい。

  あの人、この人、みんななつかしい。 

  きょうもつつがなく、暮れてゆく。