川空港、手樹一郎の世界

 旭川空港にて

 

いつかの北海道・旭川はすっかり晴れて、あまりに素晴らしい天気だったので、帰りたくありませんでした。

子供のころ訪れた、どんよりとした旭川は、父が所属していた旧陸軍第七師団の黒い兵舎の光景が想い浮かぶだけですが、そういう旭川は、もうありません。そればかりか、街も人びとも明るくて、まるで東京・銀座を歩いているような心地がしたものです。

そして先日、旧友のブログ記事を読んでいると、山手樹一郎の名前がとつぜん飛び出してきました。なつかしいなとおもいます。

ぼくは山手樹一郎(1899~1978年)のちゃんとした、理解ある読者とはいえませんけれど、むかし、父が読んでいた小説本のなかに、山手樹一郎の小説がありました。それを拾い読みした程度ですが、彼が作家になる前後の足跡をいつか知ったとき、ほんとうに苦労をしていたのだなとおもい、感慨を禁じ得ません。

 

 挿絵画家・中一弥の絵(「亦々一楽帖」より、講談社、2010年)。

 

この人は、最初は、純文学を書きたいとおもっていたようです。「純文学ではメシが食えない」として、時代小説を書くようになったという話です。

時代小説といえば、チャンバラ小説、または髷(まげ)ものと呼ばれる大衆文学の一ジャンルですが、山手樹一郎は、戦後の民主主義を反映させて、初期のころは、大衆文学の第一人者としての本領を発揮した少年少女小説は、この人からはじまったといわれています。

なかでも、「少年の虹」という作品は、すばらしい傑作でした。

町の階層の違う少年少女たちが協力して、まぼろし組を捕らえ、母を探し出すという筋書きの小説です。

正義に燃えた賢一の親切でむすばれていく「友情」を、推理仕立てで描いたものです。

浪人盗賊のまぼろし組が捕らえられると、町奉行所に呼ばれた賢一ら4人は、北町奉行遠山左衛門尉にその労をねぎらわれます。

道場破り、師範代、北辰一刀流、御殿女中、与力、岡っ引き、桟橋、船宿、自身番、御用提灯などなど、時代を彩る仕掛けが、あちこちに出てきます。みんな貧しいのですが、ある外国人に、「この国は貧乏だが、貧乏人はいない」といわよせたように、みんなおなじ志を持っていて明るく、舞台は江戸ですが、まさに戦後社会の動乱期を描いているとおもいます。

そして、仲間の人間が、商人になるために米問屋の伊勢屋ではたらくことになり、いわば浮浪者だったふたりが、職にありつくことができるというのも、5人の少年少女たちが階層を超えた友情でむすばれていたからでした。かんたんにいえば、そういう筋立ての小説ですが、ぼくには山手樹一郎の戦後の社会に望みを託したひとつの新機軸としても読めます。

彼は昭和2年、芥川龍之介が亡くなった年、博文館に入社して「少年少女譚海(たんかい)」の編集に携わりました。のちに「譚海」と改名され、そのころ山手樹一郎は、このような小説を書いていました。

昭和7年には、編集長となり、山本周五郎と親交をむすび、大林清と同人誌「大衆文学」を創刊し、「サンデー毎日」の懸賞小説に、はじめて山手樹一郎のペンネームで応募しました。これは、山本周五郎のペンネームをゆずり受けたものです。

山手樹一郎の長編「桃太郎侍」なども、家にありましたが、ぼくはたぶん読んでいないとおもいます。五味康祐も、大佛次郎も、柴田錬三郎も、純文学として高い評価を受けた作品があります。たとえば、柴田錬三郎の「宙返り」などは、ぼくには忘れがたい小説です。

いま、そのような小説が果たして手に入れることができるかどうか、それは知りませんが、むかし読んだ記憶は、はっきりとしていて、戦後の近代小説のひとつとして小粒ながら、きらりと輝いて見えました。

召集令状を握ったまま、雲隠れしている青年が、ある年若い女と出会い、旅館に逗留して一夜をすごします。その女は、わたしはなにもできない女ですが、ただひとつ、宙返りができます。

「やってみましょうか?」といって、宙返りをして見せます。

彼女の着ている和服の裾がめくれて、どんどん垂れ下がり、脚の付根まで見えてしまいます。それでも女はかまわず、宙返りをやっています。そして、それが終わると女はいいます。

「あなたはお国のために、何ができますか? どうか、召集に応じてください」と。

そして翌朝、男が目を覚ますと、女の姿が消えています。

彼は旅館を出ると、きのうそういった女が、朝日を浴びて、松の木にぶら下がっているシーンを目撃します。彼女は首を吊ったのです。――そんな小説だったようにおもいます。

剣豪作家の好短編。――ぼくには忘れがたい小説です。

山手樹一郎は、のちに銀座のバーで、「おれは、純文学を書きたかった!」といって号泣したそうです。

作家でなくても、ペンネームを持っている人がいますね。

俳句をひねる人、短歌をつくる人、詩を書く人、音楽をつくる人、いろいろです。

欲張って5つも6つも持っている人がいます。「ハムレット」を書いたウイリアム・シェイクスピア、彼もまたペンネームなんでしょうか? 

シェイクスピアは有名ですが、彼は杳としてつかみがたい男です。

杳としてつかみがたい作家に、山本周五郎という人がいます。彼は、自分のことをおりに触れてインタビューされたり、書いたりしています。

「この山本周五郎っていうのは、じつは、編集者が間違って、勝手に雑誌に載せてしまった名前なんですよ」とうそぶいています。あるところでは、学歴を詐称したり、出自を詐称したりと、いろいろです。作家というのは、そういうことがなんとなくゆるされるようです。

山本周五郎というのは、じつは、ふたりいます。ひとりは当時勤めていた質屋のあるじの名前で、もうひとりは、作家です。無名の作家が質屋に住み込みで勤務しているのです。

当時彼は、質屋の奉公人でしたから、その店のあるじの名前を無断でこっそり借用し、ペンネームにします。それほど質屋のあるじを尊敬していたという話です。小学校しか出ていない彼は、質屋の同人雑誌に文章を書き、いろいろ修行しています。あるじは同人雑誌を出して、彼ら奉公人たちに学問を教えるかわりに、そういうことをしていました。

山本周五郎はいたく感動したのでしょう。

終生、この店主のことを尊敬しつつげます。と同時に、人を見下す人間、その多くは作家たちですが、彼らに向かって歯に衣着せぬことをいい放ち、または、じぶんの作品で仕返しをしています。

先日も書きましたが、あるときは相手が志賀直哉だったり、吉川英治だったりしています。吉川英治の「宮本武蔵」に楯突いて、「よじょう」という小説を書きました。これは名作です。どこから見ても非の打ち所のない精剣の士、宮本武蔵のなれの果てを描いた傑作です。

山本周五郎にはひとりの弟子がいます。

早乙女貢という作家ですが、この人が本を書いて、暴露しています。暴露というというと語弊がありますが、師匠の山本周五郎のことを尊敬のまなざしで、温かく見守っていた人で、師匠の怖い顔を見て作家になった人だけあって、「わが師 山本周五郎」(第三文明社、2003年)という本の冒頭に、「狷介(けんかい)にして頑迷、へそ曲がりの文士なるわが師」と書いています。

この先輩作家に「曲軒」というあだ名をつけたのは尾崎士郎だったと書かれています。それくらいへそ曲がりだったそうです。

それでも、ぼくはこの人を憎めません。じぶんの出自や境遇と見くらべて、いい暮らしをしている幸福な人を見ると、金だ、金だ、金を稼がなくちゃと思いつづけます。

よしんば金があったところで、ああいう連中にはなりたくないと、こころのどこかで思っています。そういう男でした。

「ああいやだ。ああいう男にはなりたくない!」と思う気持ちが、下級武士を描いたり、ままならない人生を生きて苦労する男たちを描かせたりさせるのでしょう。

以前にも山本周五郎についての文章を書きましたが、ぼくはこの作家は、しょうじきな作家だと思っています。何がしょうじきかというと、だれに向かっても、しょうじきにものいいます。

かつて無名だったとき、菊池寛という作家を尋ねて文藝春秋社を訪れ、原稿を持ち込みます。菊池寛は社長です。菊池寛にそこで何か指摘されます。すると、

「小説についてあなたの教えを乞いたいとは思いません」といい放って、原稿を持ちかえったという話がつたわっています。それくらい「曲軒」だったわけです。

その山本周五郎に、もうひとつのペンネームがありました。「山手樹一郎」というのですが、「三田文学」の今井某に紹介したのが、井口長次という人物で、のちに山手樹一郎になる人です。彼は博文館という出版社の編集長をしていて、山本周五郎の担当者でした。その井口長次が、じぶんも小説を書こうとして、山本周五郎に頼みます。

「あなたのペンネームを貸してほしい」と。つまり山手樹一郎として発表したいというのです。そうしないと、社の規定で原稿料が出ないといいます。それで、快くペンネームをゆずります。

清水三十六のペンネームは、山本周五郎がいちばん有名ですが、それだけでなく、山手樹一郎、俵屋宗八・横西五郎・ 清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿など、いろいろを用いています。

どれがどれやら、わからなくなりそうです。