日本の川柳界に水府あり
きのう友人と川柳の話をした。
ぼくは川柳にはくわしくないけれど、若いころ俳句をやっていて、そのとき金子兜汰さん(当時91歳)の本を読んで、川柳のおもしろさを知った。金子兜汰さんには2回ほどお目にかかっている。いつも最後のお話はおなじで、トラック島で終戦を迎えた話がつづく。先日、金子兜汰さんは亡くなられた。
講演会に出席した日に手に入れた「文藝春秋」にも金子兜太さんの記事が載っていた。
「青すすき虹のごと崩(く)えし朝の魔羅(まら)」という句を披露している。これは、角川源義(げんよし)さんの句である。これを読んだ金子兜太さんはびっくりしたそうだ。
「角川にもこんな句が作れるのか」という衝撃だったとか。これを読んだぼくは、さらにおどろいた。
岸本水府
俳句と川柳は紙一重だなとおもった。
なぜなら、「魔羅」というのは男性性器のことだからである。彼とライバルだった金子兜太さんは、さぞ、びっくりしたことだろう。学者肌の角川源義さんには似つかわしくないと思われるけれど、亡くなる1カ月まえに詠んだ句だそうだ。
娘さんの辺見じゅんさんが証言している。
最後の最後になって、これ以上ないという本領発揮である。さすがは角川源義さんだなとおもう。迷うことなく、一本調子で詠み込んだところがいいとおもう。金子兜汰さんはそういっていた。
お会いして川柳の話をされたのは、夢子(ゆめこ)さんという女流作家だった。画家の上田みなさんに紹介されて、その日お目にかかった。
「寝ていても、川柳が追いかけてくる」といっておられた。
こんな話は、ひさしく聞いていない。それだけ夢中になれるということだろう。何年も、何10年も夢中になれるのはすばらしいことじゃないかとおもう。追いかける人、追いかけられる人、人それぞれ違うけれども、夢は枯野を駆けめぐるのである。ぼくの場合は、「枯野」じゃなくて、北海道の「かぼちゃ畑」だったけれど、……。
亡くなられた歌人の河野(かわの)裕子さんの歌。
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」というのがあったけれど、これも凄いなとおもう。まさに辞世の歌である。中山義秀の句にも「裏を見せ表を見せて木の葉散る」というのがあった。人が死ぬというとき、ウラもオモテも正直に見せてしまうものだという心境句である。自分も、そんなふうにして死を迎えたいと願う。
「目ざめれば入れ替わったおんなの脚が」(幸光)
「揺れながらおんなの脚も揺れる車内」 (幸光)
「目ざめれば入れ替わったおんなの脚が」(幸光)
その日ぼくらは、絵のお勉強をした。北砂の絵画教室をのぞき、花の絵を描いた。紙はマーメイド。いい紙だなとおもった。この紙、ぜひ手に入れたいとおもった。アルシュとどう違うのだろう?
描いてみればわかるだろう。描きながら、ちょっといたずらをしてみたくなった。葉っぱの一枚に自分の顔を描いてみたくなった。
「紙」とくれば「おんなの髪」。
「ことさらに雪は女の髪へ来る」(岸本水府)。
田辺聖子さんの代表作「道頓堀の雨に別れて以来なり」にくわしく書かれている。なかでも、水府周辺の話がくわしすぎるほどくわしく書かれている。
「酔つぱらひ真理を一ついつてのけ」。
うまいもんだなあとおもう。
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1904年、ネボケトフはロシア第三艦隊の司令官で、ネボガドフのこと。第二艦隊バルチック艦隊とともに日本海海戦で敗北し、降伏している。日本は、国家の存亡を賭けて戦った。
「大事おまへんと京都兵出征し」
どんずまりの切狂言(きりきょうげん)、日本海海戦での日本艦隊の華々しい大勝利には、力作が目白押しだ。
「八百万(やおよろず)押すな押すなの御観戦」
「太郎寿太郎源太郎大馬鹿三太郎」などがある。
首相の桂太郎、外相の小村寿太郎、満州軍総参謀長の児玉源太郎を揶揄したもの。これは世の中にけっこうウケた。現地で戦死し、だれにも看取られなくても、ひろく世の裏、隅々までそそがれる句で慰められた。
「陰膳(かげぜん)の主は草むす屍(しかばね)なり」
「田辺聖子全集」(第19巻・ 第20巻)の代表作「道頓堀の雨に別れて以来なり」は、圧巻の「川柳作家・岸本水府とその時代」が描かれている。この本を手に入れたのは2006年だった。装画は小倉遊亀さんだった。長部日出雄は、これを「大阪のベルエポック」といっている。原稿用紙2500枚というから恐れ入る。いかにも岸本水府時代を迎えていた。
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「命孕み衽(おくみ)の先の硬い物」(幸光)
そんなことを想いだしながら、80になったら、飄々たる川柳的人生を生き直してみたいとおもっていた。ところが、飄々たる川柳的人生とはほど遠い人生を歩いている。
さいきん便々たる腹が出てきて、きのうまで履いていたズボンが窮屈で堪らない。ベルトの3つ目の穴よ、引っ架かれ! と祈って引っ架けても、あと数ミリのところで、きょうもダメだった。
「汚れてはゐるが自分の枕なり」 水府
「紋付のゆきが短い安来節(やすきぶし)」 水府
「石畳下駄ひきずつて母帰る」 水府
俳句はひねればなんとか書けそうだけれど、川柳は、なかなか書けないものである。柄井川柳の名は有名だけれど、彼の川柳を見たことがない。こんど読んでみたいと思っている。雑談のなかで、だれかが「ひらめき」ということばを放っていた。
あきらかに、ひらめきだ。セレンディピティserendipity。――なんの脈絡もなく、あっとひらめく。それを書けばいいのだけれど、「息が足りない」のじゃなくて、ぼくの場合は「想像が足りない」のである。辞書によると、セレンディピティの構造でいえば、「セレンデピティ」とは、ランダムに発生するイベントではない。また単純に「嬉しい偶然」や「予期しない発見」といい換えることもできない、と書かれている。なるほど、……
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むかし、学生時代に富山の友人と海へ泳ぎに行った。
彼は海水パンツを持っていなくて、銀座松屋に安ものの「ふんどし」を手に入れるために付き合ったことがある。ところが、彼はお目当ての売り場にやってきて、なかなか買おうとしないのだ。
「あのう、ツリ、ください」と、小さな声で、囁くように、耳打ちするようにいっている。ツリだって?
「ツリと申しますと?」と、果たして女性はきいている。
「ええ、……つまり、キンです」といっている。何のはなしだ!
「キンでございますか? ……それは、その……?」なんとも要領の得ない話である。「ふんどしだろ?」とぼくがいうと、友人は、顔を真っ赤にして、にやにやしながらぼくの顔を見ているじゃないか。
「これでございますか?」といって、売り場の女性はケースの中からそれを取り出した。黒くて、ペラペラしていて、いかにも安手のものだった。こんなもので、大丈夫か、と一瞬おもった。
「これでございますか?」ってきいたのである。
「ええ、まあ、……」と彼はいう。
なんだい、その返事は! ――ふんどしだろうよ! と、ぼくは語気を強めていった。だったら、銀座MATUSYAなんかで「褌」なんか買うなよ! とおもった。
「じゃあ、それをお願いします」と、しびれを切らしたぼくはいったのである。
果たしてそれでよかったのだが、彼は、どうして恥ずかしがるのだろうと、ふしぎにおもった。
女性は、バカ丁寧にそいつを折りたたんで、デパートの包装紙につつんでくれた。お金を出す。彼女はそれを受け取りながらいった。
「サポーターは、いかがなさいますか?」って、尋ねたのである。
「サポーター? ですか。それは何ですか?」と、ぼくがきいた。
「殿方には必要かと存じます。これをお召しになられると、よろしいかと、……」まあ、なんともぼくにはわからないし、サポーターなんて、どういうものかさえ知らないのである。学生の所持金で買えるかどうかもわからないので、
「それは、いりません」といってしまった。値段もききそびれた。
そして、デパートの筋向いにあった喫茶店「ラ・ボエーム」でコーヒーを飲みながら、彼に尋ねた。
さっきは、いったいどうしたんだよ! と。
そのわけも、にやにやしていて、なかなかいわなかったが、これには何かあると察してはいた。やおら時間がたって、――1時間はたっていたが、彼は重い口を開いたのだった。
富山では「ふんどし」は海女さんが身につけるもので、男が履くものは「キンツリ」ということがわかった。けっして「ふんどし」とはいわないそうだ。和式トイレの「キンかくし」の「キン」と、「キンツリ」の「キン」は、じつはおなじであるという耳新しい話を聴いた。
「ぼくは、ふんどしって、いいにくいんだよ」と彼はいっていた。
ぼくは、その話は知らなかった。
気の毒な話だが、もっとひどい気の毒な出来事がやがて彼に訪れる。女の子ふたりを連れて4人で湘南の海へ行ったのだけれど、彼は、砂浜に座ったまま、ずーっと泳げなかったのである。
これ以上は書けないが、なんとも気の毒な話である。このときのシーンは、「異邦人」のムルソーじゃあるまいし、夏のぎんぎらぎんの太陽のせいにするには、惜しい話なのである。
ルキノ・ヴィスコンティ・ディが描いた「異邦人」(Lo straniero 1967年)は凄かったなとおもう。当時ぼくは、恋人だったアンナといっしょにイタリアの映画館で観た。
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川柳っていう芸術をもっと早く知っていれば、シェイクスピアなみにおもしろい、市井の詩ができたとおもうと残念である。19歳の熱暑の夏の出来事を共に過ごした友人は、のちに、某大学の教授になった。
「わが罪深き地球の中心たる哀れなる魂よ シェイクスピア。
(Poor soul, the centre of my sinful earth)」
これ、読みようによっては、川柳に見えないだろうか。これは、シェイクスピアの146番のsonnetである。W. H. Audenの解釈によった。絵画教室のみなさんと、珈琲を飲みながら、北海道での電気のない生活や、馬に乗って通学した話など、ひさしぶりにむかしの話をした。
半世紀前の暮らしの中で身につけた記憶が、後ろから追いかけてくる。記憶って、過去のものじゃないな、とそのときおもった。いま現在のものだとだれかが書いていた。想い出すって、そういうことなんだなとおもう。
人生を粋に過ごしたい。いい想い出だけが残される。悔しい思いや、悲しい思いは、いつしか忘れる。
絵はいいなあとおもう。ぼくの絵は、あっという間に完成する。
きのうは、ヌード絵を一枚描いてみた。ヨーコはちらっと見て、何もいわなかった。描けるときは、ひと晩に2、3枚は描ける。描いているときは幸せな気分になる。この気分は、この年になってますます実感を強くする。熱しやすくて冷めやすい自分の性格にさからって、死ぬまで描いてやろうとおもっている。
西区役所の検査場には、筋骨たくましい壮丁(そうてい)たちが犇めいている。若者たちにまじって水府も命じられたとおり、褌ひとつになる。セルの袴、着物を脱ぐとき、板の間にコトンと音がした。銭入れも持たぬのに何だろうと着物に触れると、衽(おくみ)の先に堅いものがある。天保銭だ。水府ははっとする。
天保銭を張ったら、兵隊逃れのまじないになるといわれていた。水府が茶屋の風呂に入ったとき、だれかが縫い付けてくれたらしい。じぶんは徴兵忌避の罪は犯していない。弁明できるよう、水府は考えていた。
「第二乙種歩兵三九六番、岸本達郎、右陸軍補充兵ニ編入ス」。
(田辺聖子「道頓堀の雨に別れて以来なり」より)
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「春雷の一撃のもと醜潰(しこつい)ゆ」 富安風生
「この後も撃たむのこころ野を焼けり」 山口誓子
「街路樹の春を迎へて国捷(か)ちぬ」 飯田蛇笏
「万歳にインクの浸みた手もまじり」 上田芝有
「時宗の心日本の朝が来る」 岸田水府
最後の句は、さすがだ。
水府ならではの川柳で、ほかの句にくらべて根性のばっちり入った、構えの堂々たる句に見える。この「見える」というのが大事だ。鎌倉幕府の執権北条時宗は、二度にわたる元寇(げんこう)に耐え、よく撃退し、この大和の国・日本を守ってくれた。
以来「元寇」は、神風が吹いて、敵を蹴散らしたといわれた。これは間違い。最近の研究では、わが国はとんでもないメガトン級の爆弾を大量生産し、これを煮て、アンモニアを吹き飛ばした。それを撒いて、鼻孔の粘膜をひりひりさせたのである。目も開けてはいられない。吸い込むと、息もできない。その臭い物を撒いて、敵を蹴散らしたのだった。
古来、台風戦時下での北条時宗は、まさしく救国の英雄的な存在といわれたが、水府はそうやって、ふたたび大和の傷ついた魂を奮い立たせた。近代戦のアジアの日本海海戦も、巨大な戦いであった。「……日本の朝が来る」という結句がすばらしい。
ぼくには、尊敬に値する川柳作家である。
そして昭和17年、日本川柳協会が結成され、全国に支部ができた。委員長は前田雀郎で、東京支部長を兼任し、大阪支部長は岸本水府となり、ともに常任理事として活躍した。こういうことがあって、川柳は戦局を乗り切ることができたのである。――ぼくは、そんなことを思い出していた。
川柳作家の金井塚夢子さん。上野にて
最後に、金井塚夢子さん、――本名金井塚陽子さんの句をひとつ。ぼくらはこの方から川柳を教わった。
「亡き母によろしくという人がいる」 金井塚夢子
「満月と今日の良き日が合致する」 金井塚夢子
最初の句は、ご本人がモデルなのだそうだ。
勝間田弘幸さんも何か書いている。川柳である。「思い込み捨てる勇気に虹立ちぬ」と書いた。これを見た夢子さんは、
「捨てる勇気に虹を見る」にしたほうがいいといった。なーるほど……。
「そうですよね!」といって、勝間田弘幸さんはぼくの顔を見て、その横に「捨てる勇気に虹を見る」と書き込んだ。ぼくはその書き込みを見て、ひとり唸ってしまった。やっぱり、すごいからだ。これが川柳というものか、とおもった。
ぼくは夢子さんの話をうかがいながら、じつは、別のことを考えていた。
いまは平和な時代になり、川柳も、俳句も、短歌も、なんでも自由に書けて、自由に発表することができる。それが、ごくあたりまえという時代になったが、戦時中、あるいは戦前、――くわしくは、日中戦争も4年目に入った昭和15年ごろからは、官憲の目も鋭くなり、思想の取り締まりや言論弾圧の声がかまびすしくなった。
「川柳も、国策に副(そ)え」という声がかかる。川柳作家・岸本水府は、深く懊悩し、なんとか生き延びようと、がんばる。当時、山本勇三が「新編 路傍の石」を「主婦之友」に連載していたが、内務省の干渉で、テーマや意図の変更を命じられる。
「時流に合わせた作品を書くぐらいなら、ペンを折る」と拒否し、「新編 路傍の石」の連載が中断された。
昭和16年には、新聞に連載中だった徳田秋声の「縮図」は、芸妓の半生をえがく小説は脆弱で時局に相応しないとして、テーマを変えろと迫られましたが、秋声は「妥協すれば作品は腑抜けになる」として、そのまま中絶になった。のちに、秋声の死によって、この作品はとうとう未完になったのだった。惜しいことをした。
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ぼくが田辺聖子さんの小説を読もうなんて、一度も思ったことがないのだが、彼女の中間小説が載っている雑誌を見ていて、ときどき読むことがある。ところが、彼女の全集本、――「田辺聖子全集」(全24巻+別巻1巻、集英社、2008年に完結)を見てみると、川柳界をめぐる大作がいっぱい載っている。
もちろん彼女の全集なのだから、載っていてとうぜんの話なのだが、ちらっと目を走らせると、鴎外とか、荷風とかの名前も出てきた。最初は、俄然、読んでみたくなったものである。
ぼくはだんだんと、川柳に興味を持ちはじめていた。
田辺聖子の岸本水府の物語作品は、大阪の川柳作家の生涯を描いた傑作である。読んで、けっして損はない!
田辺聖子自身の解説によれば、これは平成4年に「中央公論」に連載した小説で、完結したのは平成9年。この作品は平成10年度の読売文学賞、泉鏡花文学賞、井原西鶴賞などを受賞している。
この作家は、川柳の研究家でもあるらしい。川柳作家・岸本水府の絢爛、暢達、永遠性という、みんなすぐれた一級品の川柳で、けっこうおもしろい。
田辺聖子は、1964年に「感傷旅行」で芥川賞を受賞している。
じぶんが若いころ、これは読んだ。2008年には文化勲章を受章している。分かっても、分からなくても、食べず嫌いはもったいないとおもい、ぼくは川柳を楽しく読んできた。ぼくの友人に、さいわいにも、金井塚夢子さんという川柳作家がいて、しばらくごぶさたをしているが、夢子さんの娘さんが突然に、衝撃的な病いを得て、大変な目に遭われたと窺っている。その後、どうなさったか、心配している。