もし罪痴漢にったら?

 

ちょっとふるい話をおもい出した。

「そんなことをいうと、痴漢みたいにつかまってしまうよ」

「それは、田中さんのほうでしょ? ははははっ、……ほら、この感じが、……」といって、まずいさつまいもを貶(けな)して何やら、いっている。

「痴漢で思い出したけど、冤罪痴漢というのがえらくさいきん多いそうだね、驚いたよ」というと、

「――痴漢でつかまる男の半分は、冤罪ですよ」と彼はいっている。

先日読んだ「週刊ダイヤモンド」を読んでいたら、冤罪痴漢が問題になっていた。

「痴漢で捕まれば、無実を証明することはとても至難ですよ。人生を狂わす痴漢冤罪は恐怖ですよ。それで人生が狂った男が多い。Mさんも気をつけてね」

「田中さんがいうと、なぜか真実味がわいてきますね。ははははっ、……」

「ぼくは痴漢なんかやったことありませんよ」

「じっさい、男の痴漢のほうが多いとは思うけど、女の痴漢もけっこう多い。こういう女は、痴漢騒ぎなどしない。――まったく身に覚えのない男性が痴漢の犯人として逮捕され、起訴されるケースが多いらしいよ」

「そうらしいね。事件になっているのは、氷山の一角でしょうね」とMさんがいう。

情報によれば、東京都練馬区に住む66歳の男性は、ある日の夜10時半過ぎ、隔月で通っている仏教講座の聴講を終えて帰途に着き、とつぜん、奈落の底に突き落とされたというのである。

当日は金曜日の夜とあって、西武池袋線の急行電車は超満員だったそうだ。石神井公園駅に到着し、ドアから吐き出されるようにホームに降りた直後、後ろから左肩を力強くつかまれた。

男性をつかんだ男性は「話しがある」とだけいって、人込みの少ない場所に向かって歩きだしたため、事情が飲み込めないまま彼はついていった。自分が痴漢の犯人に間違われたことを知った彼は驚き、

「おれは何もしていない」と叫んだ。

このときはまだ、警察に事情を話せば身の潔白を容易に証明できると考えていた。だが、それがまったくの見込み違いであることを、警察署に連行された後に知ることになる。警察官は、男性の話を聞こうともせず、

「ここにいることがどういうことか分かっているのか」と怒鳴りつけた。

「警察官のひとりが私のバッグのファスナーを開けて、中身を床にばら撒いた。それに対して私が怒鳴ると、警察官が私の髪をつかんで振り回した」という。その後も犯行を否認しつづける男性は、そのまま33日間、代用監獄に拘留されることになった。男性は当時から膠原病をわずらっていたため、

「そういう自分が痴漢行為をするなんてあり得ない」と訴える。

膠原病というのは、免疫の仕組みの異常でからだのあちこちに炎症を起こす原因不明の難病である。男性は膠原病の一種で、皮膚や内臓が硬くなる全身性強皮症だった。さらに、腱鞘炎(けんしょうえん)も併発していたため、指を曲げることもできない。指先にモノが触れれば痛みが生ずる状態だった。彼は小学校の教員を36年間勤めたが、病状が悪化したので、事件の4年前に退職している。

拘留中は、何度も検察へ出向き、取調べを受けた。だが、検事も男性の主張を信じようともしない。けっきょく、検察は、「女性の陰部をなでまわしたうえ、右手の指でいたずらをした」として、男を強制わいせつ罪で起訴してしまった。

その後、裁判の過程で明らかになったのは、被害者の女性は、男性を捕まえた男性と痴漢男の顔を見ていなかったことだった。痴漢被害に遭っている最中、被害者の女性が正面の男性に小声で救いを求めたところ、それに気づいた犯人が電車内を2メートル近く移動した、そして次の駅で停車した際、犯人とおもわれる男性を捕まえたというわけだった。

「男が彼女のために救ったわけだね?」

「一見して、そういうように見える。しかし、これは真実かどうか分からない。男は女のいうことを信じて男を捕まえた。女のいうことを信じただけで、痴漢男をじっさいに見たわけではなかった。そこが問題だよ」

裁判において、被害者側の主張にはいくつか矛盾点があった。

たとえば犯人の服装について、被害者の女性は「ジャンパーを着ていた」と証言するいっぽう、男性は「お尻まで隠れるハーフコートを着ていた」と証言している。――男性は、そのときジャンパーを着ていた。

犯人の背丈についても、男性は「自分とおなじぐらい」と証言したが、男性とつかまった男は身長差が6センチもあった。

また、被害者の女性が「右手の人差し指か中指でいたずらされた」と証言したことに対し、男性を診察した医師は、

「右手人差し指の疾患の影響で、中指にも可動域に制限が生じている」と証言し、痴漢行為は困難とする意見書を裁判所に提出した。

「可動域? なんだいそれは?」

「健常者のように、中指が動かない。動かすには制限があるという意味でしょう」

だが、東京地裁の裁判官は昨年3月、男性に1年10ヶ月の実刑判決を下した。

判決では、被害者側証言の矛盾点について、「証言が具体的かつ詳細であり、証言全体の信用性を揺るがすほどに不自然不合理な点は見受けられない」とし、被害者の女性と男性との証言に食い違いがあることがむしろ、捜査官の誘導によるものではなく、自己の記憶にしたがった証言であることを示していると認定した。

また、男性の不自由な右手については、右手人差し指が不自由でも中指が使えるとして、男性の主張を退けた。――この記事が出る寸前に、彼は脳梗塞で倒れ、いまも半身が麻痺状態にあるという。

先年の春先ごろだったと思うが、冤罪痴漢で服役後、真犯人が逮捕されて出てきた人がいた。65歳のサラリーマンである。

この人は、午後11時ごろ、吉祥寺駅からJR中央線快速電車に乗り込み、ドア近くにいた男性の目の前でひとりの女子学生がケータイ電話で話をしながら乗り込んできた。男性は彼女と向き合うかたちで、女性はドアに背をもたれ、通話をやめようとしなかった。しびれを切らした男性は女性に注意すると、

「分かったわよ!」と大声を張り上げて、ケータイ電話を切った。

その後、国立駅で下車。

駅のロータリーを歩いていると、とつぜん背後から警察官に声をかけられ逮捕された。それから21日間、痴漢容疑者として拘留され、屈辱的な日々を過ごすことになった。それはのちに、女性の腹立ちまぎれの末に訴えた、虚偽の痴漢逮捕だったことが分かった。

男性は、会社をクビになり、たちまち社会的な地位を失った。

このままでは、被害者は、いわば泣き寝入りするしかないとして、男性は、「痴漢被害を受けたとの虚偽申告で逮捕され、拘留された」として、都と国、痴漢被害を訴えた女性を相手取り、1100万円の損害賠償を求めて訴訟を起こした。だが、1審、2審ともに男性の請求を棄却。去年9月には最高裁へ上告したが棄却となった。

「痴漢は、現行犯が鉄則です。人から聞いて捕まえるのではなく、自分の目で見て確認することで現行犯として訴えることができ、逮捕できます」

「だれが?」

「その人がです」

「逮捕? 一般人が逮捕できるの?」

「とうぜん一般人でも、痴漢の現行犯ならば逮捕できますからね」とぼくはいった。

「ほう、そうですか。……だれでも逮捕できるって?」

「現行犯に限りますけどね。痴漢だけじゃなく、スリ、窃盗、強姦など、……」

「へぇ、そいつは知らなかったなあ」とMさんはいう。

「つまり、一般人にも逮捕権があるということなの?」

「あるんですよ。知りませんでした? ……意外と知られていないかも知れないね。まして、痴漢を訴えている女性を見たら、救いの手を差し伸べるのも男性の義務でしょうね。痴漢男の手をにぎって、上に挙げ、痴漢です、と大声を張り上げる。それでじゅうぶんです。……降りた駅の駅員に通報すればいい。逮捕するときは、《あなたを痴漢の現行犯で逮捕します》といわなければならないんです。刑事訴訟法にはそう書いてある」

「相手はびっくりするでしょうね。そうなのかい。おれは、そういう助っ人にはならないと思うけどね。参考になりますよ」

「この現行犯逮捕というのは、一般人の協力なくして成り立たないので、刑事訴訟法では、現行犯に限り、一般人に逮捕権を与えています。それにしても、冤罪痴漢で訴えられると、それを違うと証明することはひじょうに困難でしょうね。だから、身に覚えのない冤罪事件が増えていくんです。――そういう小説を書くと、おもしろいかも知れない」

「ぜひ、書いてくださいよ」

「生きていくためには、刑事訴訟法のひとつも読んでおかなくてはならない。とつぜん、ある女性に訴えられたら、Mさんなら、どうします?」

「おれかい? おれはとぼけますよ」

「とぼけたって、日本の裁判は通りませんよ。なにしろ、さっきもいったように、無実の罪で訴えられてしまうんだから。……警察官は逮捕し、検察庁に送り、検察官は起訴するかどうか、容疑者にいろいろ尋問し、証言を取って裏づけを取る。間違いないという確信を得たら、そこで起訴に踏み切ります。そうなると裁判になります。警察官に逮捕されたからといって、起訴されるとはかぎりません。起訴するのは検察官です」

「ほう、そうなのかい」

「そうですよ。……日本の検察官は、ひとりひとり全権を持っています。訴えるか、訴えないか、ひとりの検察官の判断だけです。司法と行政が区分されているのは、そのためです。田中角栄は首相のまま、ロッキード事件でひとりの検察官によって起訴されました。検察庁でみんなで審議をして起訴するかどうかを決めるのではなくて、たったひとりの検察官が自分の考えだけで決めることができるんです。――これは、外国にはない制度かもしれないね」

「起訴するのは警官かと思った」という。

「違います。警察官は捕まえるだけです。それが彼らの仕事です。捕まえた先は、警察庁から検察庁へ書類が送られる。しかし、まれに戻されることがある。証拠が不十分の場合は、裁判には勝てないので差し戻されます。戻されると、容疑者は無罪放免となる」

「ほう、そうなのかい。検察官の仕事は、いったい何なのか、知らなかったよ」という。

「だから、検察官の心証を悪くすると、起訴されやすい。痴漢問題で起訴した結果、冤罪だと分かったとき、起訴した検察官は間違いなく左遷されますね。それでも、間違って起訴され、社会的な地位を失った被害者は、もう元にはもどれない。哀しいけれど、しかたがない。その保証も微々たるものだし、彼の人生は台無しになりますからね」

「おれはだいじょうぶだよ。……だって、電車なんかに乗らないからね」という。

「それは違うね。……街を歩いていてとつぜん痴漢で訴えられたら、どうします?」

「街を歩いていて?」

「そうです。電車内であろうと、駅のコンコースであろうと、デパート、映画館、ホテル、どこにいても痴漢に間違われる可能性がありますよ。デジカメ、鏡などを持ち歩くときは、要注意ですよ。あとで調べられてもいいように、バッグやカバンのなかは、きれいにしておくといいんじゃない?」

「それはそうだな」

「……ぼくは、このマンションに住んでいて、2階の鉄階段から降りてくる女性を仰ぎ見たとき、パンティが見えたんですよ。あのときは、ドキッとしましたね。《あなた、見たでしょ?》といわれたら、もうおしまいだからね。住人さんにはそういう悪意ある人はいませんが、《見たでしょ?》と訴えられたら、これもまた痴漢になりそうだ。見えちゃっても、痴漢といわれれば、痴漢行為になってしまいますからね」

「パンティぐらいなら、よく見ますよ。おれなんか、巻きスカートでバイクに乗る女性とすれ違ったとき、バッチリ見えたよ。風を切って走らせているんだから、スカートなんかめくれますよ。ちらっと見ただけだけど、はははははっ」といっている。

「パンティぐらいどうということはないのに、当人にいわせれば、おじさんたちには見られたくないと思っているのか、いやらしいと思うだけで、やり過ごしてくれますがね、人の集まる場所ではかなりの要注意ですよ」

彼と話していると、いつも話が落ちてくる。さつまいもだが、彼はもう1本食べた。コーヒーを飲んでいるので、ちょうど小腹に入れるにはちょうどいいらしい。

ちょうどそこへ、8階の奥さまが顔を出した。

「このあいだは、お電話いただいて、何かしら?」という。Mさんは立ち上がって、あいさつしている。「先日のぶどう、巨乳、うまかったです。それをいいたくて、……」といっている。「はははははっ」と奥さまは笑っている。

「巨乳じゃなくて、巨峰でしょ?」とぼくがいうと、

「え? そうそう、巨峰です! おれ、何いってるんだろ。……」といって顔を赤らめた。

「巨乳でもいいわよ、……」と奥さまはいっている。あぶない、あぶない、……といいながら、Mさんはコーヒーをごくりと飲んだ。