上野のレストランの庭にて。――Yさんの毒舌をきく。

 

■老いの旅路は筏に乗って。――

生、これからがとめきの日々」

 

先日、都内のある団地で、顕正会の広告文配布の活動に参加した。先輩女性たちのやることをながめつつ、暑い日差しのなか少しお手伝いをしてみた。なかでも田中のり子先輩のやり方をながめ、凄いな! と感嘆したり。

まあ、秋の温かい日差しのなかで、目くるめく追憶の日々を想い出しつつ、店の客人とケータイ番号の交換なんかやりながら、80年の来し方をもう一度想い出してみたり。

ひさしぶりにYさんと上野で会った日のことを想い出した。

彼はまだ現役で仕事をやっている。Yさんの年齢はたぶん70代だろうか。

ときどき現代文化会議の席にいっしょに出向いて、福田恒存論に耳をかたむけている。

「何が日本語ですか! 何が文法ですか! おかしな文法をつくってしまって!」といっている。なにかというと、「未然、連用、終始、連体、仮定、命令、……」といっている。

「行こう(行かう)」という意志を表すとき、未然かかっているという。「行かう」だから、未然には違いないが、これは「未然」ではおかしいのではないか、というのがYさんの考えである。

むかし、――昭和30年ごろは、これを指向形といっていた。その後、国語審議会は「指向形」をなくしてしまったのだ。

そういうわけだから、外国人にはわかりにくい日本語になってしまった。

「田中さん、どうおもいますか?」という。

それは、もともとはぼくの考えだった。Yさんにおはこをうばわれた感じだ。といいながら、彼とは一緒に本の上でいろいろ旅をつづけている。年間600冊を読んで、おたがいに意見をたたかわす。

 

「人生、これからがときめきの日々」(ドナルド・M・マレー、村上博基訳、2002年)

 

いまのぼくには、遠いところへ旅をする考えはない。まして、ヨーコのように旅の雑誌をひろげて、半分居眠りしながら夢うつつになって、巨大な船に乗って旅をしているような夢想もしない。ヨーコではなく、一匹の素性の知れないネコを抱いて、ヨーコとはぜんぜん違う本を読む。

たとえば、ドナルド・M・マレーの「人生、これからがときめきの日々」(村上博基訳、集英社、2002年)という本を読む。

宮本常一の「忘れられた日本人」(岩波文庫、1984年)を読んだり、宮本常一の「イザーベラ・バードの《日本奥地紀行》を読む」(平凡社ライブラリー、2002年)を読んだりして、明治11年に北海道へ渡ったバードの見た海の光景を想像してみるに過ぎない。

しかし、想像もできないのだ。

 

 

イザベラ・バード

 

湯川豊の「本のなかの旅」(文藝春秋社、2012年)を読むと、そこにもイザベラ・バードが出てきた。彼は元「文學界」の編集長だった。彼も本のなかだけで旅をしているらしい。こういう本は、すてきだなとおもう。

バードは書いている。

「私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由はなかった。私はそれから奥地や北海道(えぞ)を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている」と。

イザベラ・バードについては、以前にも書いた。

イザべラ・バードの「日本奥地紀行」(Unbeaten Tracks in Japan)の初版は1880年(明治13年)に2巻本として刊行された。――この本はおもいのほか、海外で評判になったらしい。

そのころの日本の東北・北海道をつぶさに歩いて見聞したことをくわしく書かれているからだろう。そこに書かれているのは、ほんとうの話なのか、イザベラ・バードの伝記を書いたパット・バー氏は、都合4度、ご主人とともに日本を訪れ、3年間、日本に滞在し、各地を見聞してたしかめたという。

そして、彼女の手によってバードの伝記「A Curious Life for a Lady」が出版されたのである。

その伝記は、ぼくは未読なのだが、日本で調べてみても、イザベラ・バードというイギリス人女性の情報がほとんどなかったとのべている。

バードは、旅先でさまざまな危険に遭っていることがわかる。中国では泊まっている宿に放火されたり、韓国では戦争に巻き込まれたりして、やがて日本にやってくると、日本は平和で、外国人にはみんな親切で、治安もよく、長旅でも危険に遭うことは一度もなかったとのべている。

イザベラ・バードの目を通して書かれた内容は、その気になれば、いつでも東洋文庫で読めるけれど、そこには書かれいていない話をひとつしてみたい。もともとバードは、あちこちの旅先で、妹のヘニーにあてて書かれた手紙がもととなって、のちに「日本奥地紀行」にまとめられたという経緯がある。

はじめから紀行文を書くつもりなど、彼女にはなかった。

ヘニーは、同書の出版を目前にして亡くなり、そのことを悲しんで、バードはつぎのように書いている。

「わたしの愛する唯一人の妹がこの世を去った。本書は、まず最初に、妹に宛てて書かれた手紙集であり、妹の有能で、しかもきわめて細かい批評に負うところが多い。妹がわたしの旅行について、愛情と興味をもってくれたことは、わたしが旅行をつづけ、旅行記録を綴るときの大きな励ましであった。」

こんなふうに綴っている。

この物語には登場しないけれど、イザベラ・バードは、ヘニーを見送って間もなく、夫となるジョン・ビショップ博士と結婚している。このふたりの結婚は、ヘニーの死の翌年だった。バードが39歳、ジョン・ビショップ博士が49歳のときだった。

そのわずか5年後、ビショップ博士は亡くなり、彼女は終生、「ビショップ夫人」として生きた。

それだけ、ふたりの夫婦としての絆の強さを証明している。

その後、1889年、ヘニーとビショップ博士を記念して、インドの北部の都市に2棟の病院を建設している。そんな家族愛に満ちたバードが、遠い旅先で、故国におもいを馳せるのはごく自然なこととおもわれる。

青森、北海道の苫小牧の草原に休んで、彼女はしばしばなつかしく、イギリス中部の故郷をおもい出していたことだろう。バードは馬とは相性がわるかったのか、北海道でもいいおもい出は、何も書いていない。

「わたしは石垣の上から、荷物を積んだ馬の上にとび乗った。……坂をくだるときには、とても我慢できぬほどで、わたしが馬の頸(くび)からすべり落ちて泥の中に飛び込んだとき、実にほっとしたほどである。」

「雀蜂(スズメバチ)と虻(あぶ)に左手を刺されて、ひどい炎症を起こしている……場所によっては、雀蜂は何百となく出てきて、馬を狂暴にさせる。わたしはまた、歩いているときに人を襲う馬蟻(うまあり、大蟻のこと)に咬まれて炎症を起こし苦しんでいる」といった記事が書かれている。

はるか130年もまえの話である。130年まえというと、早稲田大学や哲学館(現在の東洋大学)が創設されたり、近代日本の黎明期だった。

いま、湯川氏はバードのことを好意的に書いている。もちろんぼくもそうだけれど、この女性にはアイヌ蔑視がつきまとっている。

彼は「アイヌについての見方も、バードらしい公平さがある」と書かれているが、ぼくにはそうはおもえなかった。彼女のTVドキュメンタリードラマを企画したことがあるが、蔑視用語が多すぎて、テレビコードの網に引っ掛かり、実現を見送った経験がある。

――

 

マンションの裏庭はすっかり秋の色に染まっている

 

そのとき、静まり返った寝室で、カタカタ音が聴こえてきた。

リビングルームのほうから聴こえてくる。よそのネコが、ベランダからやってきて、ナーガの餌を失敬しているらしい。

ぼくは、ヨーコが起きようとするのを制して、

「食わせてやれば、……」といった。

「お父さんは、ネコに甘いんだから」とヨーコはいっている。

そんなことをしているものだから、巨大なネコが毎晩やってくるようになった。腹を空かせてやってくるのだろうから、ぼくはいつしか、彼のためにご飯を用意するようになった。

夢想はこうしてときどき中断されるけれど、また布団にもぐりこみ、ナーガを抱いて本を読む。

それから別の本を読みはじめる。

ドナルド・M・マレーという人の書いた「人生、これからがときめきの日々」(村上博基訳、集英社、2002年)という本をひろげた。水彩で描かれた本のカバー絵がすてきだ。

なんとこの人は1924年生まれで、第二次大戦後、「ボストン・ヘラルド」紙の記者となり、1954年にピューリッツア賞を受賞している。作家でもある。その第1章は「予想しなかった人生」となっていて、心臓集中治療室でのシーンが描かれている。

「わたしの胸板を象が踏んづけ――その紋切り型形容の的確なこと――なぜ看護師が皆そんなに興奮しているのかを知った」と書かれ、「自分はスコットランド人だ。自分はタフだ。恐怖にはジョークで立ち向かうのだ、と。スカートをはいて戦場に赴くなんて、なんとジョークで笑いとばそうとした――《もうすこし小さな象はいないのかな》。だれもいそがしくて笑ってはいられなかった」と書かれている。

スカートをはいて?

彼はスコットランド人だったのである。

「イングランド」という語には、語源的には「アングル人の地」という意味がある。

アングル人は、ローマ帝国を弱らせたゲルマン民族の一派で、紀元5世紀ごろイギリスにやってきた。そのときはすでにサクソン族やジュート族が混血して、一体化していた。アングル人はここでは新参者であり、その地はすでにケルト人たちが1000年以上もまえから住みつづけていたのである。

 

 

スコットランド人の英語

 

 

アングル人、――またはアングロ・サクソン人――に追い立てられたケルト人たちは、多くが「アングル人の地」の周辺にのがれ、各地に国を打ち建てた。そのひとつがスコットランドである。

1000年以上もの長いあいだ、イングランドとスコットランドは、ローマ人が築いた城壁をはさんで、侵略し合い、対立し、抗争がつづいていた。

そして、イングランドとスコットランドの国境線は、いくども変わった。17世紀のはじめ、エリザベス女王が亡くなると、スコットランド王、ジェームズ六世がやってきて、イングランド王ジェームズ一世として君臨した。彼は2国の王だった。

――現在行なわれているラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会では、国別対抗ではないのだ。イングランド、スコットランド、ウェールズと別れている。

しかしイングランドは強くなった。先年、世界ランク1位のニュージーランドと対戦し、勝っている。

だが、どういうわけか、ジェームズ一世は英語には堪能だったが、ラテン語にはあまり通じていなくて、イングランド王になってしばらくして、彼はラテン語で書かれた聖書を、英語に翻訳する事業に着手した。

それが世にいう「欽定訳聖書」(Authorized Version)である。

1604年から7年かけて1611年に完成した「欽定訳聖書」は、華麗な文体をもち、ゆたかな表現が特長で、また英語の散文中の傑作とされている。――と、いいたいのだが、これには英訳にかなりの頻度でまちがいがあったりして、翻訳事業にたずさわった最初の47人は全員処刑された。

そして、あとを引き継いだ52人の専門家たちによって、翌年完成を見た、ということになっている。

もちろん、聖書が翻訳されたのはこれがはじめてではなく、10世紀に出された「リンディスファン福音書」や、中英語期の「ウィクリフ聖書」(Wyclif's Bible 1384年)などがある。もっとくわしく聖書の英語訳事業については、すでに書いている。

またも脱線してしまった。

ドナルド・M・マレーの文章はつづく。

アルチュール・ランボーの場合はどうか?

天才詩人ランボーは、パリ、ロンドンでの苦闘の末に詩を捨て、珈琲武器商人とて、未開の国の工業化路線を夢見る奇人としてじぶんの生を生きた。

なぜ彼は詩を捨てたのだろう。

多くの人の抱く疑問である。武器商人とはいうけれど、インドネシアではオランダの外人部隊の脱走兵だったし、武器商人としては、ちょうど坂本龍馬と立場が逆で、本国では使えなくなった古い武器を外国に売りさばく仕事に従事した。

だが、ほとんど売れなかった。

約15年にわたる苦闘の末に最後はがん性腫瘍のため、担架に乗せられてアフリカの砂漠地帯から脱出し、マルセイユの病院へ、。そこで片脚を切断、37歳でその生涯を終えたのだった。

ドナルド・M・マレーの文章は「わたしはそうして老いの旅路についた。筏に乗っての川下りである」と書かれ、そして

「わたしは老いを、いまひとつのアドヴェンチャーと見做し、秘密を明かすディテールに焦点をあてるという、新聞記者の技を活用して、ひとつの事業を二度経験してやろうと思った」という。あれから何年になるだろう、いまだに彼は旅をつづけているらしい。

ドナルド・M・マレーはもとより、「若者文化(ユース・カルチャー)にかかわるのに年齢を気にする者が多いが、わたしは平気だった」と書かれている。……そこには、「これからのときめきの日々」の意味がいろいろ書かれていて、気持ちよく読むことができた。自分もこうありたいと願わないわけにはいかない。