■ダイナミックに行動するとき。――1

脱現象ecstasy


 

話は変わりますが、ぼくは数年まえからイタリア語の勉強中です。

英語を勉強するっていうのは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、古代ギリシャ語、ラテン語を勉強することなんです。英語の90パーセントはそれらの外来語です。

現代英語を勉強することは、かんたんなことです。中世英語を勉強することは少しむずかしい。中世フランス語を勉強することも少しむずかしい。

けれども、それらを知らなくては、ほとんど英語を知ったことにはならないんです。「パッション」ということばを聞いて、それは「情熱」という意味だと単純におもったら、それは大きな間違いです。数年まえ、映画「パッション」がロードショー公開されましたが、その意味するところは「キリスト受難」です。「パッション」には、たしかに「情熱」という意味もありますが、それよりも「キリスト受難」という意味のほうがずっと大きいんです。受難があってこその「情熱」なんですから。

18世紀末、P・B・シェリーという詩人が「情熱」という意味を創作し、その意味を与えました。それが「情熱」という意味のはじまりです。16世紀のシェイクスピアは知りませんでした。

いっぽう、たとえば「フィアンセ」ということば、これはフランス語で、いまは英語にもなっていますが、綴るときは、相手が男性の場合は「fiance」と書き、相手が女性の場合は「fiancee」と書きます。女性の場合は「e」をもうひとつ書き加えます。

英語でもちゃんと単語をこのように分けています。日本語にすれば「フィアンセ」だけで、どちらもおなじ綴りになりますが、ヨーロッパでは違います。それぞれ深い歴史的な意味を持っています。

日本語だってそうですね。

たとえば、「うるわしい」ということばですが、これを漢字で書けば「麗しい」となり、もともと漢の時代には「麗」という字の旧字体でした。パソコンにはデジタル・フォントがないので、ここでお目にかけることができませんけれど、つまり、鹿が丘の上に2匹いる情景を表わしています。オスとメスの2匹。それがもっとも「うるわしい」というわけです。

男女がふたりいることは麗しいという意味であると書かれています。

「胡椒」とか、「胡麻」とか、「胡」という字があることばは、中国ではすべて外来語であることを意味します。「胡」とは西域、つまり中央アジア、――タクラマカン砂漠を越えた西の国々から入ってきたことを意味しています。つまり現在の東ヨーロッパ圏のことばを輸入したものという意味です。のちに、15、6世紀以後に入ってきたものには頭に「西」という字がつきます。

「西瓜(スイカ)」はトルキスタン方面から中国にもたらされたという意味で、「西」という字がつき、時代が下って現在になると、中国では「水瓜」と書いてスイカを表わしています。これは、完全にヨーロッパから入ってきた証拠です。なぜなら、英語で「water melon」といいますから。

――ごめんなさい。ぼくはいま手紙を書いているところでした。つい原稿を書いているみたいな気分になってしまいました。

ぼくは高校生のときに漢文に触れ、いたく感動しました。

日本語に最も近いかたちをした漢字をおぼえるには漢文を読めばいいと単純におもいました。で、先日の手紙にも書きましたように、「三国志」や「三国志演義」を読みました。すべて漢文です。これは物語ですから、意味が分かればおもしろいと考えたわけです。

高校時代に日本語を知るために、父が購読していた「夫婦生活」という雑誌を読みました。これはいまではなかなか価値ある稀覯本で、資料によれば昭和27年に廃刊になっています。あまりにワイセツな文章が書かれているからとおもわれます。ぼくは興味津々になり、読み漁りました。

「現在のハイティーンたちが読む雑誌と、どう違うんですか?」と、あなたはききましたね。

「まあ、現代のイチゴ(15歳前後)世代の興味とおんなじかも知れませんよね。

それにしても、エロ雑誌というのじゃなく、ヌードの挿絵にしても、芸術的なセンスがあって、なかなか生唾ものだったなとおもいますよ」

と、ぼくはそんな話をしました。

当時、エクスタシーのことを「ぼさつ」といっていたとおもいます。古代インドで「ぼさつ」というのは修行者の位の名ですが、空海さんは「涅槃(ねはん)」の意味を「菩薩」という漢字で表現しています。はじめは、ぼくはこのことばをなかなか分かりませんでした。

仏教の本を読むようになって、空海さんのいう「ぼさつ」の意味が分かるようになり、一種の自脱現象=エクスタシー=ecstasyであることを知りました。「エクスタシー」ということばは、古代ギリシャから輸入されたギリシャ語です。

もともとは、ギリシャ語では「夢中」というほどの意味です。

インドでいわれるサンスクリット語の「ニルヴァーナ」の訳語が「涅槃」ということばになり、人間の業(ごう)を立ち切った本来の姿、――つまり「さとりを得た」状態、――解脱(げだつ)といわれるようになりました。

これが男女のセックスで、エクスタシーになり、恍惚となることで宗教的にも解脱を迎えると、空海さんは考えたようです。

ですから、セックスはやるべしというわけです。

空海さんの偉いところは、自然の摂理をあるがままに受け入れているところです。これならば、自分にもできそうだとおもったわけです。

「わたしもそう思います。だって、縄文文化は地下にまだまだたくさん眠っているそうですが、その時代の人びとが営んだ社会システムって、自分の個を大事にしているんです。現代のように、それぞれの個の輝きを失ってはいませんし、……」と、あなたはいいましたね。

「そうですか。縄文時代ですか。それは知りませんでした」

「わたしは、Т恵子さんの講座を受けて分かりました」

「それはどういう講座なの?」とききますと、

「自分の輝きを大切にして生きることです。これを本音で生きると彼女はいっています」

「ほう、自分の輝き?……」

「多くの人は、業(ごう)にしばられて、自分の輝きが見えてこない。イラクへ出かけていって亡くなった香田さん、気の毒だとはおもいますが、たぶん、自分探しの旅だったとおもいますけど、そこには自分なんかいなくて、ほんとうは、自分が見えていなかった。それが悲劇を生んだんだとおもいます。香田さんは死ななくてよかったんですよ」

「自分探しね、……」

あなたは、なかなかの勉強家で、現在ハイデッガーや、ヤスパース、空海などの本を読んでいて、なかでもハイデッガーの「存在と時間」を読んで、たいへん共鳴したといっていましたね。

あのむずかしい実存哲学をです。