小説「冤罪」――沢周平文学がもしろい!

 

きようも足が痛むのに、独協大学駅ちかくにある草加中央図書館へは自転車で出かけた。ちょっと汗ばむ炎天下の風景は、どこもきらきら輝いていて、ネコも木陰でうずくまっていた。

図書館では松本清張さん関係の本を返し、こんどは森鴎外の資料と、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の評伝、雑誌「太陽(別冊号)」の「藤沢周平」を借りてきた。

きのうは夜になってBS放送で映画を観ながら深夜、友人のSさんあてに手紙を書いた。藤沢周平さんの「冤罪」という作品の解説記事を読んだ。自分がながいあいだ探していた小説だった。

まさか「冤罪」という作品ではないとおもっていた。

つまり、ある家の娘に関心を持った次男坊が、ある日娘の家を訪ねると、玄関にバッテン印に板が貼りつけられ、家の中にはだれもいないようだった。何があったのだろうと思いながら、彼は女を求めて探しに出かけるという筋書きの物語である。

見つかったのは、藪のなかでおしっこをしている最中の女の「白い尻」だった。

そこが無類におもしろい。

「いつものように、坂の上に出て下を見降ろした堀源次郎は、拍子抜けした顔になった。お目当ての娘の姿が見当たらなかった」小説「冤罪」の冒頭には、こう書かれている。

 

藤沢周平さん

 

「その娘も、坂を下りるとすぐ右手の家の庭で、よく菜畑に出ていた。父親らしい男と二人で鍬(くわ)を使っているのを見たことがある。母親や弟妹の姿を見たことがないのは、父親と二人暮らしだろうか、と源次郎は想像を逞しくする。娘一人なら、いずれ婿を迎えるわけだと考えはやはりそこまで行ってしまう。どんな奴が婿に来るのだろうとは考えない。自分がそうなり、畑のだだっ広さにくらべて構えの古びたその家に納まって、娘と一緒に鍬をふるっている姿を想像する」

藤沢周平さんの小説は、庶民の暮らしを、目に見えるように描かれている。

そんななかで、このようなエロチックなシーンはめったにあらわれない。あれはなんという小説だったのか、ぼくはずっとおもい出さなかった。それが見つかったのである。――この話は、藤沢周平ファンのSさんにも話している。Sさんも、おもい出さないといっていた。

「見つかったぞ!」といいたかったので、ひさしぶりに万年筆で彼あてに手紙を書いた。

「そういうことなら、拙者といっしょにならないか?」と男が女にもちかけると、

「あなたさまは信用できるお方とお見受けいたしました。……信じてよろしいのですね?」と女は念を入れるようにきく。江戸時代のさむらいの娘も、現代娘同様「信じていいのね?」ときいているところがおもしろい。

これは、藤沢周平さんの実地体験にもとづいて書かれたに相違ない。

そこには、女らしい感情が盛り込まれている。

30を過ぎたさむらいも、長男は別として、次男・三男ともなれば、自分より格が少し上の家の婿になることを夢想するのだが、彼はちがった。少しは気に入った娘といっしょになるからには、百姓であってもいいじゃないか、とおもうのである。娘が身を寄せた家の家人となって、その家を継ぐ。これは、そう算段した男の涙ぐましい恋の物語なのだ。

藪から出てきた娘の顔を見ると、すでに見知っている自分の顔を見た娘は、まさか、お尻を見られていたとは思わず、平静をとりつくろって、

「あら、……」

といってお辞儀をする。

男は、

「――やあ、……」といって、女を探していたなどとはさとられないように、天気の話などをする。

「あなたさまは、どちらへ?」と女がきく。

「むにゃ、……なに、そのちょっと……」と、わけの分からないことをいう。

男は、さっき見た白い女のお尻が脳裏いっぱいに浮かび、この女を捜していたが、まさか女のお尻から見つかるとは思ってもいなかったのだ。それがおかしくて、にやにやしていた。

「さよう。出来得れば、そなたを宿の妻にと考えておった」

宿など、はじめからありはしないのだ。

源次郎はどこか入り婿に手ごろな家はないかと、始終あたりに目を配っている婿志望の男だった。明乃は家を追われて百姓娘みたいにもんぺ姿になって働いている。

「少しも存じませんでした」

「そなたを見つけて、天にも登る気持ちでござる」

「でも、私は科人の娘です」

「気にされるな、そのようなことは」

「でも、もう遅いのです」

「遅い? なぜだ」

「……そういうわけで、私は婿をもらう身です」

「婿!」

「その婿、それがしがなろう。どんなものだろうか、明乃どの」

「百姓仕事はきつうございますよ」

「なに、それがしも家で嫂などそれがしが手伝うと大層喜んでな。今日もそのあたりで茄子の苗を分けてもらって来いと言いつけられた」

「……」

「それに、そなたと一緒なら、少々の苦労は厭(いと)わん」

「そう言って下さると、私は嬉しゅうございますが……でも、養い親がどういうか、聞いてみないことには解りません」

その澄ました横顔をみていると、不意にさっき崖の上で見た、明乃の丸く白い臀(しり)が思い出されて、源次郎はおかしくなった。

その話をすると、ヨーコは、

「……それから、どうなったの? 結ばれたの?」ときいた。

「結ばれたんだろうさ。……」

「あら、どうなったか書いてないの?」

「最後はぼんやりしている」

「お父さんの小説みたいね」とヨーコはいった。そして、「その養い親って、だれなんですか?」ときいた。ちょっとめんどうになって、ぼくは詳しくいわなかった。

「きょう、11年務めた会社からクビになった女性がやってきて、ちょっとその話を聴いたよ」というと、だれなんですか? とヨーコはきいた。ヨーコの知らない人だよというと、

「ふーん」といってから、

「それで?」ときいた。

「長く店長をやっていた人でね、……上場会社なのに、優秀な彼女のクビを切ったそうだよ。会社って、わからないものだな」というと、

「まるで、さむらいの世界みたいね」とヨーコはいった。ぼくは彼女のことを尊敬していたという話をすると、ヨーコは身を乗り出して、その人のことをきいてきた。

「彼女、いくつ? 結婚してるの?」ときく。そういう話はぼくは得意じゃない。年齢も聴いたことがなく、たぶん40歳くらいだろうといった。

「お父さん、いっておくけど、……その人のこと、可哀そうだなんて、おもわないでね!」という。

「……」

「拾われたネコを見ると、お父さんは可哀そうだっておもうんでしょ? 相手が、人間の女性なら、お父さんは、なおさら放っておけなくなる? 

そうでしょ?

女は、魔物よ! 世間知らずなお父さんには、ムリですからね」といっている。わが家はヨーコで動いている。人工の両膝関節を入れたばかりのヨーコは、きょうからリハビリをはじめている。

シェイクスピアもいいけど、お父さん、……現実はもっときびしいのよ! 

リハビリって、こんなに痛いって、おもわなかった!

ドラマ以上よ、といっている。

藤沢周平も、ちゃんと現実を描いてます、とヨーコはいうのだ。なーるほど。