松本清張さん
1950年、ぼくは少年だった
1950年ごろから日本経済は、特需をバネにして復興していく。その激しい競争のなかで、不平等問題があちこちに起きた。不平等の最たるものは学歴だった。学歴のない者は、社会から弾き飛ばされたのである。
松本清張ブームが起こったのは、まさにそうした背景に起因している。
松本清張は1909年(明治42年)、現在の北九州市小倉区に生まれ、学歴は高等小学校しか出ていない。学歴社会の到来は、多くの悲劇を生み、経済の再興とともに使い捨てられていった。
清張作品の多くは、そういう人間にスポットをあて、ままならない人生、社会から切り捨てられる、名もないふつうの人間を描いた。
底辺の社会にうごめく「連帯」を意識した作品を多く描いた。権力に立ち向かう側の人間を描いたのである。――これは反米ナショナリズムの連帯感とおなじものである。
それは、ダイナミックな大衆性をともなった連帯である。そういう不平等感、不遇感がいっぱいだった時代、ぼくの学生時代は、まさにそのような時代だったようにおもわれる。
「いま羽振りのいいやつも、敗戦直後に何をしていたかわかりゃしない!」
というおもいが、清張作品には多い。
人間はだれでも、恥ずべき秘密のひとつやふたつは持っているというわけである。
その秘密を守るために、たとえば「ゼロの焦点」では、4人の人間を殺すという物語を描いた。「砂の器」では、自分の肉親がハンセン氏病であることを隠し、子供のころ世話になり、その秘密を知っている巡査を殺すという物語である。
しかし松本清張は、そういう犯罪を犯す人間に、寄り添うかのような描き方をしている。それが清張文学の特質なのである。
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後年の松本清張にも、初期の作品同様のスタンスがあり、ドキュメンタリー性を帯びた作品のなかにも、そういうことが描かれている。
たとえば、資料によれば、文藝春秋社の社長・佐佐木茂索氏は、高等小学校を出ただけで、給仕のような仕事をしていたと書かれている。
新潮社に入社しても彼は帯封書きから、走り遣いをやらされていたらしい。
彼は芥川龍之介の直系であるが、書く文章は志賀直哉に傾倒し、佐佐木茂索の小説は芥川の模倣だという論評に、清張は異議を唱えている。もともと清張は森鴎外と芥川龍之介をよく研究している。
昭和4年は、佐佐木茂索は35歳、菊池寛40歳。――その年の11月、茂索は菊池寛の要請で文藝春秋社に入社し、文藝春秋社総編集長として迎えられた。
菊池は当初、「要らない」といっていたらしく、それを茂索夫人房子のたってのうったえもあって、しぶしぶ許諾したように書かれている。
もともと菊池寛という人間は、フェミニストだったから、女性にやさしい菊池は、それを素直に受け入れたらしい。
清張が書いた「形影 菊池寛と佐佐木茂索」は、大正から昭和にかけて文壇の大御所として活躍し、文藝春秋社を興した菊池寛と、豪放磊落なドンのもとで、社の経営にあたった佐佐木茂索のふたりについて、それぞれの半生を追った評伝を書いている。
いわれているように、菊池寛と佐佐木茂索は、社内にあっても顔をつき合わせて談笑するようなことはいちどもなかったらしく、ことあるごとにふたりはぶつかっていたようだ。
清張が書いたポイントは、菊池が佐佐木茂索を編集担当に迎えなければならない必然性はどこにあったのか、という点だった。
作家として活躍していた佐佐木茂索の妻・房子に注目し、茂索が小説の筆を折るきっかけになったという長編小説「困った人達」(朝日新聞連載)に描かれた家庭内のいざこざを合わせ鏡にして、その理由をいろいろ探っている。
そして、ぜいたくで派手好きな夫の暮らしぶりに困った房子から相談を受けた菊池寛が、なにかそこで察したのかもしれない。夫人の困った状況を斟酌(しんしゃく)し、フェミニストぶりを発揮したように描かれている。
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また、プロットらしいプロットのない小説を書いていた佐佐木の文学は、「彫琢(ちょうたく)の美しさ」を尊ぶ大正文学の権化(ごんげ)みたいな存在だった。のちに、平野謙や高見順は、「小説的リアリティに重きをおく昭和文学の胎動によって、(佐佐木茂索は)身動きできなくなったのだろう」と書いている。
そういう自分を知っていた茂索自身、筆を折るばかりか、こんどは編集者として転身していく姿に、清張は、文学界そのものの構造転換を見ている。さすが推理作家らしい目の付け所である。
たしかに、菊池寛は経営のことはまるで分っていない。儲かっているのか損をしているのか分からないと、「文藝春秋」の編集後記に書いている。
いっぽう佐佐木茂索は、大事業を経営するノウハウを学び、経理のムダをはぶくことで社の建て直しをはかろうと覚悟を決めている。佐佐木茂索のこのやり方は、菊池寛とはまるでちがう水と油なのだ。
芥川門下であることを自認する佐佐木茂索は、菊池寛の文学をまったく認めていなかった。――清張は、社の両輪でありながら、けっして深く交わろうとしなかったふたりについて、「社長と専務とが膝をつき合わせて、長く塾議する場面も、談笑するシーンもなかった。二人で飯を食いに料理屋へ行くことも、ダンスホールなどにいっしょに行くこともなかった」と書いている。
「神経質な一面を大人風の中にくるんでいる社長菊池寛と、神経質な一面を鋭敏なままに錐(きり)でむき出しにしている専務茂索との心理的な対立」と書いている。
というよりも、このふたりの構図は、小学校しか出ていない佐佐木茂索に自分の境遇をかさねて見ることで、清張としては、他人事として、捨ておけないものを感じていたのではないだろうか。
きらいなものなら、ただ無視すればいいわけだけれど、清張は、このふたりの確執を作品に仕上げているのである。
清張は、作品の傾向としては、むしろ佐佐木茂索ではなくて菊池寛に近い。
「自分の身の上に引きつけながら、菊池寛の生涯を追う」(沼野充義「松本清張全集64」解説、文藝春秋、1995年)のなかに詳しく書かれている。
清張が佐佐木茂索に注目して、彼の半生を並立させた理由のひとつは、それが菊池寛という存在への批評性をもっているからだろう。社内で将棋や卓球をめぐって、佐佐木茂索がかんしゃくを起こして菊池を憮然とさせる話などが書かれている。
ある人は書く。
「人に好かれそうなことを好んでなんでもやってしまう菊池寛。人の喜ぶこと一切を引き受ける人。彼の不幸なる女房役は、拒絶し、つき返し、財布の口を締めるというがごときおよそ不人気となるべき役どころを全部背負い込まねばならなかった」と。
さて、このふたりのどちらが幸せな人生だったのだろうか?
文藝春秋社社長、菊池寛
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その質問は愚問だろう。
松本清張の作品の最後に引用した遺書。その中にあるいくつかの文章を引いている。
菊池寛の死について「菊池らしい簡潔な文面である。/音羽の護国寺での葬儀は会葬者2500人、戦後はじめての盛葬となった」と書かれている。――フランスのヴィクトール・ユゴーの葬儀に7万人が参列したという数字には、はるかおよばない。いっぽう佐佐木茂索については、格別何も記してはいない。
ただ、「憎まれても仕方ない。/慕われない人、それで充分。《さびしい人だった》」と書かれているだけである。
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文芸評論家の亀井勝一郎が亡くなったのは、昭和41年11月14日だった。その年の10月7日、4回目の入院をしたときはがんの転移は胃、十二指腸、肝臓におよび、65キロあった亀井の体重が45キロまで減った。読売新聞の安東という文化欄担当の記者が病床を見舞うと、亀井はいつもの和やかな表情を浮かべ、
「あと2週間もすれば楽になるよ」と口にした。それからちょうど2週間後に、亀井は息を引き取った。59歳だった。
亀井勝一郎とは、明治大学文学部の平野謙教授の研究室で、一度だけお目にかかっている。亀井が亡くなる5日まえの11月9日、文藝春秋社長の佐佐木茂索が体調をくずし、虎ノ門病院に収容された。
昭和41年11月29日、深夜になって容態が急変し、手術を受けたが、12月1日正午、家族、友人、社の幹部らに看取られながら死去した。
72歳だった。
病名は心不全に腸間膜動脈栓塞だった。――この年の3月7日には千代田区紀尾井町3番地に地上9階、地下2階の文藝春秋社ビルが落成し、関係者を招いて新築披露パーティが催されたばかりだった。
その日は小雨が降り、肌寒かったが、そのなかを2000人にのぼる招待客が訪れ、佐佐木茂索にとって生涯最高の晴れがましい一日となった。
そればかりか、新社屋竣工の地は佐佐木茂索にとって思い出深い因縁があった。佐佐木茂索は、この新社屋の建てられた土地に、妻の房子とふたりで暮らしたことがあった。昭和のはじめ、菊池に乞われて文藝春秋社に入社したとき、佐佐木茂索は創立時の社があった麹町下6番町の旧有島武郎邸ちかくの家に転居している。
この建物は旧式で、門のかたちがすこし変わっていた。隣家が作家の直木三十五で、口のわるい直木から、「のれんをかけたら質屋だ」といわれたらしい。
当時、芥川龍之介の媒酌で結婚した佐佐木茂索の妻房子は、「ささき・ふさ」のペンネームでしゃれた小説を書く閨秀作家として知られた。
新婚夫婦は、世間からいわゆるモボ・モガ(モダンボーイとモダンガール)の典型のように見られていた。佐佐木茂索の死去の翌日12月2日、文藝春秋本社で通夜が営まれ、3日、本社ホールにて葬儀、告別式が執り行なわれた。正四位勲2等、瑞宝章ならびに日本将棋連盟から6段位が贈られた。葬儀委員長は専務の池島信平がつとめた。
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――さて、松本清張は、この本を書くにあたって、自分とは肌の合わない佐佐木茂索という人間を、たんにだれからも「慕われない」さびしい人間としては書かなかった。たぶん、これは私見だけれど、松本清張その人を描いたのかもしれないと、ぼくはおもい直した。こういう描き方があってもいいとおもった。考えみれば、松本清張らしい物謂いである。

