ティ・オブ・

朝日がのぼると、ビルの麓(ふもと)のあちこちに強い影ができ、遠くから見ると、外濠川(そとぼりがわ)に沿った水にうかぶ船のような建物に見えた。なかでも有楽町の朝日新聞社の社屋はモダーンな建物の姿をしていた。

昭和40年代まで、有楽町には、朝日、毎日、読売の三大新聞社があったため、ロンドンの新聞街にあやかって「日本のフリート・ストリートFleet Street」などと呼ばれたりしていた。

そこはまさに、シティ・オブ・ロンドンの主要な道路のひとつに見えた。

その読売新聞の朝刊婦人欄に、毎週コラムを書くことになるなんて、考えてもいなかったし、朝日新聞の日曜版に毎週コラムを書くことになることも夢想もしていなかった。

それが大学を出て数年後に実現した。

朝日新聞社から住宅情報雑誌が発刊されると、㈱リビングデザインセンターを代表してさっそくじぶんも加わったりした。住宅雑誌数本、ファッション誌「男子専科」「メンズクラブ」にレコードの紹介記事などを書かせてもらった。たぶん、そのころ将来、男子の服飾評論家となる出石尚三さんとのおつき合いで実現したのではないかとおもわれる。出石尚三さんとは、彼がデビューする前にすでにふたりは付き合っていたのだった。ぼくは、出石尚三さんと知り合う前に、彼の師匠であるファッションの大家・小林秀雄先生をすでに見知っていた。

60年代に入って、ファッション界はアメリカのアイビーへとシフトした。その象徴となるのが、1965年に発刊された「TAKE IVY」という写真集だった。アメリカの東海岸の8校からなる名門私立大学を総称したアイビーリーグ校、アイビーリーガーのファッションは人気が出てきた。

ぼくはそのころ、石津健介さんとよく会っていた。明治大学の先輩にあたる方だった。そのころだった。アイビーリーガーの大学といえば、なんといっても慶應義塾大学だったなとおもう。

ぼくはいつも、銀座から自転車で晴海通りを突っ走り、三田の慶應義塾大学のキャンパスに出かけていた。そこにピアノの名手がいた。

あの軽やかな慶応ボーイ、ヨット部の主将にして、戦後のジャズ界の最先端をゆくモダン派の巨匠だったし、昭和の天才ジャズピアニストは、31歳の若さで、目黒駅のホームから身を投げて自殺した。

何があったのだろうとおもう。

その名のとおり、守安祥太郎は「風のように走りぬけて行った」音楽家だった。ぼくは、その伝説の男のことを知らずにいた。新宿のピットインで仲間から守安祥太郎の話を聴くまでは。

ぼくは彼と会ったことはなかった。 中村八大が守安祥太郎にかわって、コンサートピアノのイントロを引き受けていた。ぼくはかつて、明大マンドリン倶楽部に所属し、中村八大の軽やかなピアノ演奏に聞き惚れていた。

中村八大といえば、坂本九の「上を向いて歩こう」だろう。

石原慎太郎の「太陽の季節」も戦後の時代を塗り替えた出来事だったなとおもう。

 

 

坂本九「上を向いて歩こう」

 

坂本九「上を向いて歩こう」

ぼくは学生のころからクラシック音楽が格別好きだった。レコードを聴いてその記事を書くと、原稿料のほかに、LP判のレコードをいただけるのだ。それが欲しくて書いた。ぼくは27歳くらいから毎週、音楽漬けになっていた。なかでもピアノ音楽が好きだった。

ぼくが朝日新聞社のちょっと奥まったところに建つ別館に足を踏み入れたのは、昭和37年の2月半ばだった。その外濠川(そとぼりがわ)はすでに埋め立てられ、「君の名は」で知られる数寄屋橋ももうなかった。

目の前にあったのは日劇だった。

「これが日劇かあ」とおもった。

有楽町と朝日新聞社のあいだには、戦後のマーケットのような商店街がにぎわっていて、そこは学生らにも楽しいところだった。

なぜなら、ベトナム戦争の前期だったため、そこに米海兵隊員も大勢やってきて、まさにロンドンのような街角に見えた。

近くのジュークボックスが鳴りはじめると、若者たちがあつまってきて路上で踊りはじめた。日本人の女の子らも踊っていた。背の高いセーラー服を着た黒人兵らも、彼女たちの腰に長い腕をまわして、音楽に合わせてスイングしていた。

彼らのしゃべることばは、聞いたこともない米語だった。

有楽町界隈(かいわい)には、映画館があり、デパートがあり、三大新聞があったころの駅前には、「すし横丁」という飲食店街ができていた。その「すし横丁」が解体されて建てられたのが、交通会館だった。

じぶんがはじめて有楽町に足を踏み入れたのは、まさに交通会館が建築中のころだった。ビヤ・レストラン「レバンテ」――レバンテ (Levante 風) というのは、地中海西部に吹きつける東風のことで、それも移転してしまった。三大新聞も、やがて有楽町から姿を消し、毎日は竹橋へ、読売は大手町へ移転し、朝日だけまだ有楽町の一角を占めていた。

有楽町駅の高架下、そこは「焼鳥横丁」と呼ばれ、赤ちょうちんが並んでいた。夜になると、そこは学生らも姿をあらわす。

激変する東京の街だが、有楽町のあたりはむかしから少しも変った印象がない。いまもって、その姿をとどめている。いまでもぼくの足は、しぜんと交通会館のほうに足が向いてしまう。絵画のギャラリーが多いのも楽しいし、物産館が多いのもうれしい。

ヨーコに「馬油」をよく頼まれる。有楽町と馬油。――まあ、わが家ではそう呼んでいる。

朝日新聞社別館の2階のオフィスは広く、活気に満ちていた。ぼくがそういう朝日新聞社に関係する仕事に就くことに、なんとなく誇らしいような気分になった。

「北海道から、よくいらっしゃいましたね。疲れたでしょう」といって、お茶をすすめられた。ほんとうは珈琲を飲みたかったが、それはいえない。

40歳ぐらいの男は、ぼくが先に送った履歴書を広げ、「北海道の旭川には知り合いがおりまして、……」とかなんとかいいはじめた。

「そこには、第7師団がありまして、……」とぼくがいうと、

「ああ、関東軍とともに、戦った……その第7師団ですか」といって男は感嘆したような顔をして、茶を飲んだ。ぼくの顔を見ながら、彼は戦後の話をした。

「吉田義男さんという、東大法科を出られて、朝日新聞の記者活動をなさっていた方です。きょうお会いできます。もうすぐ、係の方がこられますから、彼といっしょに銀座の店に行ってください。えーとですね、……そこは銀座1丁目で、昭和通りの、……」といいはじめた。

じぶんの勤務先である朝日新聞尾張町専売所というところに勤務する話である。ということは、ぼくは面接には合格したということかなあ、……とひとり考えていた。

やがて30歳くらいの、星野竜男さんという人があらわれ、有楽町駅で夜具を運び出すと軽三輪車の荷台に積み入れ、「店は、すぐですから」と星野さんはいった。

運転席のとなりの助手席に腰かけると、都心を迂回して、晴海通りから昭和通りに入って、東銀座の角を新富町方面に向かって走らせた。寮にはすぐに着いた。

きょうからじぶんは、銀座の寮生活者となるのだ、とおもった。

それからじぶんは、駿河台の明治大学文学部を受験し、合格した。一校しか受けなかった。

ぼくは吉田義男氏に会うと、彼の口から、関東大震災後の「東京復興」ということばが飛び出した。その建物は、まさに関東大震災後の東京復興のなか、朝日新聞社の社屋は、昭和2年に建てられたという建物だった。

吉田義男さんにお目にかかり、東大では柔道5段だったという話を聴いた。きみは何かスポーツは? ときかれた。

「じぶんは、スキーをやります」といった。

そして、ぼくは、北海道のいなかの養鶏事業でできた特製のたまごをお土産に持ってきた。父が木の特製箱をつくって、もみ殻を入れ、たまごを何段にも入れられるようにしつらえてくれていた。背負ってきた箱ごと差し上げたら、社長の吉田義男さんは立ち上がり、びっくりしたみたいに、「これをきみが、北海道から運んできたのかね? これ、全部たまごなのかね?」

「はい、全部、ニワトリのたまごです。100個くらいあります」といった。

「はい、寮の皆さんにも、食べてもらいたくて、……」とつけ足した。

「きみ、きみは将来、大物になるよ、うははははっ」といって吉田義男さんは大きく笑った。その翌日から、じぶんは銀座の区域をあてがわれ、新聞配達をすることになった。北海道のいなかでは、高校生のころ、アルバイトで郵便配達をしていた。冬はスキーを履いて配った。長距離電報配達は、馬をひき連れて冬の夜道を歩いた。

じぶんは、こういう仕事はいっこうに平気だった。5、6時間のひとり旅はかっこうの勉強時間になった。石川啄木の歌500首はこうして諳(そら)んじた。声をだして覚えた歌は、いまでもすべて記憶している。

日本は、雨と聴けば、いつも梅雨の季節をおもい出す。

北海道には梅雨がないので、いたってカラッとしている。カラッとはしているが、札幌は北緯43度線だから、やはり寒い。

ぼくの雨の多くの想い出は、東京・銀座にある。こうして1962年に上京してから、ぼくは銀座に3年間住んだ。有楽町から電車に乗って大学へ通学した。そのころ、銀座には学生がたくさんいた。銀座は学生の街だった。

喫茶店に入れば、学割がきいてコーヒー一杯が60円のところ、半額の30円で飲ませてくれた。

「お友だち、連れていらっしゃいよ」と主任の女の子にいわれ、仲間を連れていくと、全員30円で飲ませてくれた。

「ラ・ボエーム」という名曲を聴かせてくれる「ラ・ボエーム」という珈琲店は、いつの間にか学生たちのたまり場になっていた。その店は銀座2丁目の銀座通りに面したところにあり、ピアノがあって、ときどき生演奏がかかった。

友人たちは、だれも音楽なんか聴いちゃいない。

ときどき米兵、――海兵隊員、――がやってきて、コロラドの麦畑のひろがる農場の話をしてくれたり、アメリカの田舎の州の選挙運動の話をしてくれたりした。「来てくれるなら、嬉しいよ。そのときはぼくを訪ねてくれ!」といわれ、住所などを紙に書いてくれたこともあったが、もちろん、訪ねたことはない。

彼らとは一瞬の出会いである。

ぼくらだけでなく、こうして交わった仲間たちの多くも、一瞬出会って、「また会おうぜ!」といいながら、その後いちども会うことはなかった。

ぼくは、たぶん北海道の話をしたとおもう。

彼らはベトナムでの2年間の兵役を終え、これから本国アメリカに帰還するという人たちだ。東京でのしばしの休暇を楽しみ、ベトナムでの活動を写真におさめ、その記念すべきアルバムが1冊の本になるまで、東京での自由な空気を吸っていた。ベトナム戦争が本格的にはじまる少し前だったようにおもう。

そのときに降っていた銀座の雨は、虹色に溶けたみたいな都会の色をしていて、とてもきれいだった。

 

明治大学文学部2年のころ。

 

フランス映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg 1964年)」のタイトルバックの風景は、銀座で撮影されたという話を聴いている。銀座通りを真上から撮影していて、舗道を歩く人たちの傘が躍っているみたいに写っていた。この物語にも雨が降っていた。

映画は、1964年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。ジャック・ドゥミ監督。ぼくはカトリーヌ・ドヌーヴという女優をはじめて見た。こういう映画には雨が似合う。フランス映画に登場する雨はいいなあとおもった。

映画「あなただけ今晩は」の舞台はパリ中央市場(レ・アール)の側の娼婦街カサノバ通り。警察は賄賂(わいろ)を取って見てみぬふりをし、手入れも形式的でヒモたちから賄賂をもらうのが常だった。子犬を連れたイルマ・ラ・ドゥース(英語に訳せばIrma the Sweet)も娼婦のひとり。

ヒモのヒポリートは腕っ節が強くて、イルマにも暴力的なのだけれど、そこへ、正直で仕事に熱心すぎるネスター・パトゥー巡査が赴任してくる……。しゃべることばは、英語だが、はじめて聞くような英語で、ビリー・ワイルダー監督は、ムスターシュの口癖、「これは余談だが、……」といって映画を締めくくるところなんか、さすがはビリー・ワイルダー監督とおもわせた。

ぼくは若いころ、パリに40日間滞在したことがあったが、フランスには梅雨はないようだ。

先年、パリから贈られたメールにも、そう書かれている。

1日じゅう、しとしとと雨が降りつづく日もあまりないようだ。だから、傘をもたないし、また多少の雨が降っても、傘をささないフランス人が目だつ。

「しかし意外にも、傘に愛着を抱いているフランス人は少なくないようです。その証拠といえるのが、パリ3区のランクル横町passage de l'Ancreにあるpep’sペプス。現存するパリ最後の傘修理店といわれていて、年間8000本から1万本もの傘を修理しています」と、Lattre de Parisの記事には書かれている。

雨といえば、サマーセット・モームの「雨」をおもい出すが、彼はこの短編で名を売り、ごたぶんに漏れず、短編作家の名手といわれた。

ぼくがはじめて女の子とデートしたのはそのころで、彼女は4、5歳年上の銀座のエレベーターガールだった。

ほら、むかしのエレベーターってジャバラ式で、降りてくると、箱のなかが見えるやつ。最初に見えるのは、エレベーターガールの白い脚。そしてVゾーンの胸のふくらみが見え、顔が見える。そこでおもわず視線が合ってしまうというわけ。

 

映画「あなただけ今晩は」。

 

お客が降りると、ぼくが乗り込む。

すると、

「じろじろ見ないでください」と彼女は、とても静かにいった。

学生服を着たぼくは、顔を赤くして、すみませんと小声でいう。それでも、彼女は、

「いらっしゃいませ。エレベーターは6階までまいります」といった。6階で止まる前に、

「間もなく止まります。お足元にご注意ください」といった。

ぼくは、おかしな気分になった。だが、その気詰まりなこと、ぼくは、どうしようかと考えた。

で、帰りにまたエレベーターに乗り込むわけだが、ぼくはさっきはごめんなさい、といってから、バッグから日比谷映画館のロードショー公開中の映画チケットを2枚取り出した。彼女は、目をパッと輝かせ、笑みを浮かべて、

「まいど、ありがとうございます。……え? いいの? いただいちゃって?」

「はい、いいです。さっきはごめんなさい」とぼくはいった。

朝日新聞から支給された販売拡張用のチケットだった。毎月10枚くらい渡される。集金業務につくときは、客に差し上げるように指導されていた。

「いいのよ、そんなこと。――さっき、あなた、どこ見てたの? 胸?」

ぼくは何もいえなかった。彼女の胸は少し大きかったからだ。

「これって、ロードショーよね? 《あなただけ今晩は》? シャーリー・マクレーンの出る映画よね?」

「そのようです」

「じゃ、あなたと、ふたりでいっしょに観ない? いつがいい?」

彼女とは、その後デートを重ねた。ぼくは緊張していて彼女との会話がぜんぜんできなかった。

すると、

「あなた、わたしといて、愉しい?」ときいてきた。そして、

「あなた、キスしたこと、あるの?」ときいてきた。

「えっ! ありませんけど、……」

「だったら、これから日比谷公園でも行ってみる?」

「外がもう暗いのに?」

「だからいいのよ! わかる?」

ぼくは童貞を失うほど衝撃を受けた。

ともかくじぶんは、舞い上がったのだった。――舞い上がって、北海道の許嫁(いいなずけ)の彼女の顔がおもい浮かんできた。許嫁といっても、彼女とデートもしたことがなかった。彼女の父親は、じぶんの父親とおなじ中国戦線に出征し、生き地獄を共にした。もし生きて帰ることができたら、おまえところの家族と親戚づきあいをしようじゃないか! ということになり、ぼくは高畑家から嫁をもらう約束ができていたのである。

「嫁を選べ」と正式にいい渡されたのは、昭和37年の春だった。高畑家には年ごろの娘が3人もいた。じぶんは、なぜか真ん中の娘を選んだ。

ぼくの青春は、本を読んで世界を知ろうとした。

そのころぼくは、ヘミングウェイの「武器よさらば(A Farewell to Arms)」という小説を読んでいた。もちろん原書で。エレベーターガールとこんなことがあって、しばらく、それどころではなくなった。だが、彼女も本を読む人だった。彼女は恋愛小説を読んでいた。

「《武器よさらば》も恋愛小説です」というと、

「見せて」というので、ペンギン文庫の原書を見せてあげた。

「あなた、英文、読めるの? ふーん、わたしは学がないから、……」とかいって、「わたしはこれ、読んでます」といって、彼女は新潮文庫の「嵐が丘」を取りだした。「でも、ヘミングウェイも読んでみたいわね」といった。

イタリア兵に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーが、イタリア軍は理想とはずいぶんかけ離れ、ヘンリーは、その戦場で看護婦のキャサリン・バークレイと出会い、はじめは遊びのつもりだったのだが、しだいにふたりは深く愛し合うようになる。

やがてふたりは戦場を離れ、スイスへ逃亡をはかる。

そのうちにキャサリンが妊娠していることがわかり、病院で難産の末、子とともにキャサリンは死んでしまう。ヘンリーは打ちのめされたように、雨のなか、ひとりホテルへと帰っていく。

そのときの雨が、哀しみの雨を演出していた。

この小説のタイトル、「A Farewell to Arms」について、ぼくはちょっと考えていた。その話を彼女にいった。高見浩の解説によれば、

《原詩では、年老いた騎士が主君への奉仕の一線から引退しようとする心境がうたわれているのだが、ヘミングウェイは“武器よさらば”という余韻に満ちた言葉の響きに魅せられたのだろう。それと、英語の“Arms”には、もちろん“腕”という意味もあるから、原詩と離れた原題からは、愛する人のたおやかな腕に別れを告げる意も仄(ほの)かに伝わってくる。

そのことも、ヘミングウェイは意識していたにちがいない。

ちなみに、彼が最後まで残した他のタイトル候補は次の四つだったという――The World's Room(世界の部屋)、Nights and Forever(夜よ永遠に)、A Separate Peace(単独講和)、The Hill of Heaven(天国の丘)。》

ぼくは、ほおーっとおもった。

「どれが好きですか?」と訊いてみた。すると、

「《夜よ永遠に》が好き。だって、すてきじゃない? 夜が永遠につづけば」

ヘミングウェイの小説は、知られているように「A Farewell to Arms」となっていて、慣用句的に不定冠詞をつけている。

これにはもうひとつ捻った意味が隠されていると、ぼくはおもった。強いて訳せば、「あの戦争よさらば」とも読めるのだ。「あの戦争……」とはいったい何だろう。

1918年7月ヘミングウェイは、ミラノのアメリカ赤十字病院に入院し、介護にあたってくれたアメリカ人看護師と恋に落ちた。アグネス・フォン・クロウスキーという、7歳年上の看護師である。

しばらくつきあっていたが、ヘミングウェイは彼女に振られる。

小説に登場するキャサリンは、このときのアグネス・フォン・クロウスキーをモデルに描いた。

ヘミングウェイにはもうひとつ雨が主題になる小説がある。「雨のなかの猫(Cat in the Rain)」という短編だ。彼が24歳のときに書いたものである。

イタリアの海辺の町の風景は雨でぬれている。アメリカ人の若い夫婦が、小さなホテルに逗留し、妻は2階の窓辺にいて、窓のすぐ下に子猫がうずくまっていることに気づく。

雨ざらしのテーブルの下にもぐりこんで、濡れまいとして懸命に体をちぢめている。

「あの子猫、連れてくるわ」彼女はいう。夫はさっきからずっとベッドの端っこに寄りかかって夢中で本を読んでいる。「ああ、子猫がほしい」と妻はおもう。あとで探したときは、猫はいなかった。

「あの猫がほしかった」とおもう。

メイドがあとで違う猫を抱えてやってきた。

「猫を持っていくようにと、主人からいいつかりました」と彼女はいう。夫は、何食わぬ顔をしている。

妻は夫にかまってくれない寂しさから、猫がほしいとおもったわけである。というより、ぼくにはあの猫こそ、自分だとおもったに違いない。そんなふうに女ごころの機微をさらっと描いていて、とても悲しい新婚夫婦を描いているとおもう。そのときの雨も、哀しく描かれていた。

「窓の真下に水滴を滴らせる緑色のテーブルがいくつかあり、そのひとつの下に一匹の猫がうずくまっていた。猫は滴ってくる雨水に濡れないようにできるだけ身を縮めていた」と書かれている。

「身を縮めていた」のは、ほんとうは妻だったというのが、この小説のいいたいところだったに違いない。

この小説のタイトルにも、定冠詞はない。いかにも皮肉をこめたタイトルになっている。

銀座の大沢商会のエレベーターガール、彼女との想い出は、夜の公園でキスを交わした想い出しかない。いや、キスなんかより、彼女の少し大きめのおっぱいを口に吸い入れたときの衝撃のほうがずっと大きかった。お姉さんは、それを許してくれたけれど、からだの関係ができたのは、それから1年もたってからだった。

そのときは、はじめて、じぶんが大人になったような気分になった。