■クラシック音楽の醍醐味。――

ッチーニ最後の「ゥーランドット」を聴く。

プッチーニ(1858-1924年)

 

ヴェルディ以降、最大の人気を博したイタリア・オペラの作曲家であったプッチーニ(1858-1924年)は、オペラ界の偉大な後継者だったといえる。後期ロマン派、近代楽派の手法を自分の曲に色とりどりに塗り上げたある意味ではその改革者だったといえるかもしれない。

いま、ぼくは名作「トゥーランドット」の第3幕第1場のスコアをながめている(Puccini Turandot nessun Dorma、日本楽譜出版社、解説・濱田滋郎)。好きな曲は、なるべくスコアを見ることにしている。

「トゥーランドット」は、プッチーニ最後のオペラで、結末まで書き上げることなく未完の作品として残された。未完は未完でも、おしいことに最後のクライマックス・シーンでとつぜん擱筆(かくしつ)している。

 

アルトゥーロ・トスカニーニ。

 

初演されたのは1926年4月25日で、ミラノスカラ座で行なわれ、アルトゥーロ・トスカニーニが指揮している。

トスカニーニは、プッチーニがペンを擱()いた最後のページ、奴隷の娘リューが死ぬシーンにさしかかり、オーケストラをぴたりと止めた。そして、聴衆に向かってこういった。

「みなさん、プッチーニはここまで書いて力尽きたのです」と。

ちょうどクライマックスにやってきて、プッチーニの心臓も最高潮のヒートアップし、突然停止したのである。そして、翌日、フランコ・アルファーノ(1875-1954年)の手で補筆された最後のシーンが演奏され、「トゥーランドット」全曲が演奏された。

トゥーランドットは、中国・北京の鼻持ちならない、高慢ちきな皇女だが、じつは彼女は氷のように冷たい女である。彼女は、相手が王子であろうが貴公子であろうが、いかなる男の求愛にも頑として跳ねのけ、そればかりか彼らを憎悪し、意地悪い仕掛けをする。

求愛する男たちには、3つの謎を与え、もしもその謎が解けたら男の愛を受け入れようというわけである。ギリシア悲劇にも、これとそっくりな難問を仕掛ける作品があった。

 

 フランコ・アルファーノ。

 

そこにあらわれたのがタタールの王子カラフで、彼はトゥーランドットの美しさに魅せられ、求婚する。そして与えられた難問、3つの謎をみごとに解いてみせるのである。

トゥーランドットがタタール人を嫌うのには、じつはそれなりの理由があった。

タタールの若者が北京の城に攻め込んで、かつて姫を惨殺したという故事があり、トゥーランドットはその復讐(ふくしゅう)のために、異国からきた求愛者たちにつぎつぎと難問を突きつけて、それに答えられないようならば、彼らを惨殺することをおもいついたのだった。

謎を解いたあと、自分の名前を明かしていないタタールの王子カラフは、そこでこんなことをいう。

「明朝までにあなたがわたしの名前をいい当てたら、わたしは殺されるでしょう。だが、あなたが、もしもいい当てられなかったら、そのときは、かならずや、あなたはわたしのものになるのです」

そういって、彼は皇女にむかって最後の条件を出す。

その最終幕では、カラフは、かねてからおもいを寄せていた奴隷の娘リューの、その自己犠牲が生んだ感動から、さすがのトゥーランドットの冷たい氷のようなこころも、カラフの愛の炎で溶けはじめ、冷酷非情の女にも、神秘の力がはたらいて愛に目覚めるというわけである。

 

 《王子》

 誰も寝てはならぬ! ……

 誰も寝てはならぬ! ……

 あなたはしかし、おお、姫よ

 あなたの冷たい部屋の中で

 愛と希望とに

 打ちふるえる

 星たちを見つめている!

 だが、私の秘密は私の内に秘められたまま

 私の名を知ることは誰にもできまい!

 いや、いや、私はそれをあなたの

 唇の上に告げよう、光が照り渡るその時に!

 そして私の口づけは解き放つだろう

 あなたを私のものにする静寂の時を!

 

 《女たちの合唱》

 彼の名は誰にもわかるまい……

 そしてわたしらは、ああ、死ななければなりません……

 

 《王子》

 立ち去れ、夜よ

 星たちよ、沈み行け!

 星たちよ、沈み行け!

 暁には、私は打ち勝つのだ

 勝つのだ! 勝つのだ!

 (濱田滋郎訳)

 

プッチーニ《トゥーランドット》の歌い手たち。

 

 

 

 

これは第3幕、王子カラフ(テノール)の有名なアリアである。

第3幕の幕が開くと、そこには中国皇帝の館が見え、広い庭園がひろがる。スコアには「神秘的」と記された謎めいた覚え書きがあって、いかにも神秘的な趣きの舞台がひろがる。

この部分はテノール8人の合唱で、布告人たちの声が聴こえる。

「トゥーランドットさまのご命令で、今夜、北京でだれひとりとして眠ってはならぬ!」と彼らに告げ、命令にさからえば、

「死刑であるぞ! 異国の者の名は、夜の明け染めるころ、かならずや明かされようぞ! だれも眠ってはならぬ!」と唱えながら遠ざかって行く。

この間、トレモロの哀愁のともなった神秘な奏楽がつづき、そして、とつぜんアンダンテ・ソステヌート(アンダンテよりやや速く)に変わると、王子カラフが登場する。

彼は布告人たちのことば、「誰も眠ってはならぬ」を聴いて、棒読みでことばをなぞって歌いだす。それを繰り返してから、皇女への想いを、抒情あふれる旋律に乗って歌う。

この部分がプッチーニの独壇場で、前の旋律とそれにつづく、おなじ旋律を長2度ほど高めて新しいシークエンスをつくり出す。トゥーランドットへの想いを高らかに歌うテノールの最高傑作、これはみごとというしかない。

先のスコアでは、16ページに挿入されている。舞台裏から遠くに聴こえる女たちの合唱もまた、オーケストラ演奏の奏でる弦を強く弾く旋律とあいまって、幽玄な調子を出している。

第3幕の最後は、北京での役人たちが登場し、おもしろおかしく喜劇役を演じられ、そのうちに、カラフの父親とタタールの奴隷の娘が出てきて、召使になっているリューをしばって引き立ててくる。

ふたりをしばって、タタールの王子の名をいわせようとする。

そこにトゥランドットも姿を見せ、「さあ、王子の名をいえ!」と決断を迫る。そのとき、リューは、

「愛のためには身を捨てることもいといません」

とばかりに、そこにいる役人の刀を抜くと、自分の胸に突き立てて息絶える。

この突発的な出来事が、トゥーランドットのこころを動かし、ついて王子の愛を受け入れるというわけである。

ぼくは、この部分を何回も聴いている。

マリオ・デル・モナコをはじめ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、フランコ・コレルリなど、みんな日本の年号でいえば、昭和時代の歌い手たちなのだが、ぼくの脳裏には、そうした錚々(そうそう)たる歌い手のテノールを、いまも忘れることができない。

しかも、プッチーニ最後の大作とあってみれば、未完ではあるものの、あふれ出るロマン派後期の最後の輝きを放っているのはたしかで、プッチーニは、この「トゥーランドット」には並々ならぬ意欲と、死ぬほどの願望を示している。

自分の死が近いことを予感して、命の最後の力をふりしぼって書き上げたものである。

1924年はじめ、喉頭がんをわずらい、手術後に心臓発作をおこしてこの世を去った。享年66だった。

1924年、つまり大正13年、――日本では、「フランス現代美術展」が開催されていた。

そこで、音楽ではないが、ロダンの彫刻「接吻」が大問題となり、卑猥きわまりないとして撤回問題に発展した。じっさいに撤回はされなかったが、特別室あつかいされて鑑賞された。

そういう通達が警視庁から出されたことにたいして、フランス大使館は外務省に厳重に抗議したといわれている。

わが国におけるオペラの受容期は、いつごろだったのかといえば、明治時代になってからで、1894年11月24日、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)奏楽堂で、オーストリア=ハンガリー大使館職員により「ファウスト」第1幕が上演され、これが現在日本で行なわれているオペラの原点になったとされている。西洋の楽器とともにもたらされたものである。

それまでは、プッチーニもヴェルディも、日本人は知らずにいた。それはそれとして、この「トゥーランドット」の結びの部分だけが未完のまま残されたのだが、のちにフランコ・アルファーノによって補筆され、さいわいにして、このオペラは完成した形で聴くことができ、いまも多くのファンを魅了している。

フランコ・アルファーノという作曲家については、よく知らないが、プッチーニと親しかったらしく、もとよりピアニストとして活動するかたわら、オペラの作曲にも着手しているらしいが、不運つづきであったと伝えられている。

その彼が、「トゥーランドット」の最後のシーンを引き受け、完成させた功績は大きい。

彼はプッチーニより17歳年下で、大学教授であり、ピアニストでもあって、ヨーロッパでの演奏活動が多かったらしい。79歳で没している。

ぼくはプッチーニという人物は、果たして音楽家なのか、職人なのかと問われれば、即座には答えられない。

なぜなら、「トゥーランドット」や、「トスカ」には原作というものがあり、「トスカ」の原作を持ち込まれて、しぶしぶ作曲し、そのころパリにいたヴェルディは、その台本を朗読して、「わたしがもう少し若かったら、自分で作曲したかった」とのべ、プッチーニにゆずるような証言をしている。

「トゥーランドット」にしても、もともとは原作があり、原作をもとにして、フリードリヒ・シラーが翻案した先行作品の戯曲もあり、さらにそれを翻案してフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924年)という男が、オペラをつくっている。

プッチーニは、ブゾーニのオペラをどの程度知っていたかはわからないが、もともとカルロ・ゴッツイ(イタリアの劇作家)の原作からはじまって、プッチーニにいたるまでどのような変化を見せているか、ぼくなどには知るよしもないのだが、それにしても、自分が探していたのは「これだ!」と決めるまで紆余曲折をへて、けっこうな時間をかけているのである。

どんなテーマも、見上げた職人的な取り込みで挑戦している。

たしかにプッチーニは、オペラの作曲家になるべくして生まれたといっていいだろう。彼は北イタリアの主要都市ルッカで生まれ、じつに5代にわたる音楽家の名門の出なのである。プッチーニ一門の音楽家たちは、代々宗教音楽の道をたどり、オペラには目も向けなかった。彼だけがオペラに邁進した。しかし、プッチーニはイタリア・オペラ界の先達にくらべると、ずっと遅咲きの作曲家だ。

1876年の秋、17歳のときに、ヴェルディの「アイーダ」に感動し、オペラの作曲家の道を目指した。「ラ・ボエーム」、「トスカ」、「蝶々夫人」、「西部の娘」、「ジャンニ・スキッキ」など、どれをとっても名作ぞろいである。

名作にしたのは、詩人や台本作家ではなく、やはりプッチーニだったといえそうだ。

たとえば「トスカ」のアリア「星も光りぬ」は、「このメロディに合わせて詩をつくり直してくれ」と頼んだり、セリフにいたっては、最後に決めるのは彼だったからである。原作は、あとかたもなく変えられる。それがプッチーニのやり方だった。

その手法というか、やり方は、なんといってもヴェリズモ・オペラの後継者としてありつづけたことだろう。

かんたんにいえば、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」からはじまったとされているヴェリズモ・オペラなのだが、専門家の説では、それ以前にもちょっとした経緯があるらしい。

19世紀はオペラの全盛時代であり、その頂点にいたのがヴェルディだったが、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功が、その流れを変えた。

変えた先にあったのがプッチーニの曲だったといえる。

 

 

「ジャンニ・スキッキGianni Schicchi」Renée Fleming - O mio babbino caro .

 

「ジャンニ・スキッキ」(Gianni Schicchi)は、ジャコモ・プッチーニの作曲した全も1幕のオペラである。

主人公の中年男ジャンニ・スキッキが、大富豪の遺産をめぐる親戚の騒動と、若い男女の恋のもつれをみごとに解決するさまをコミカルに描いた喜劇。

傾向のちがう3つの一幕物オペラを連続して上演する「三部作」の最終、3番目の演目として、1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演された。現在では、圧倒的に人気がある。

それにしても、たとえば歌う詩は、プッチーニのいうことには、たとえば「トスカ」のアリア「星も光りぬ」は、「このメロディに合わせて詩をつくり直してくれ」と頼んだり、セリフにいたっては、最後に決めるのはいつも彼だったからである。

原作は、跡形もなく変えられる。

それがプッチーニのやり方だった。

その手法というか、やり方は、なんといってもヴェリズモ・オペラの後継者としてありつづけたことだろう。かんたんにいえば、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」からはじまったとされているヴェリズモ・オペラなのだが、専門家の説では、それ以前にもちょっとした経緯があるらしい。

19世紀はオペラの全盛時代であり、その頂点にいたのがヴェルディだったが、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功が、その流れを変えた。

変えた先にあったのがプッチーニの曲だったといえる。

しかしふしぎなことに、彼は俗にいう、「初物嫌い」として通っている男である。女も、結婚している人妻にあこがれたりしている。その相手は、両手にあまるほどいた。音楽も一度演じられたものに興味をもつらしい。悪く変えるのではなく、オペラ・マーケットというものを考えたからだった。

この考えは、ヴェルディにもなかったとおもわれる。19世紀末から20世紀初頭をつなぐ、ロマン派後期最後の輝きを放った作曲家として、もっと記憶されていいとおもう。