アンナのいる街が好き。(改定)
1968年、――そのころの自分、26歳。
ぼくは26歳だった。――その年のことは忘れない。大学を出て2年間のイギリス留学をして帰国した年だった。
1968年(昭和43年)という年のはじめから、佐世保に米の原子力空母「エンタープライズ」が寄港し、寄港反対の運動がはげしく展開された。
年が明けるやいなや、何やらあやしい雲ゆきを見せ、《昭和元禄》という泰平ムードがはじまった。
東京・王子の米軍施設が返還計画をやめ、米軍野戦病院に鞍替えするというので、4月上旬にかけてデモ隊が警官隊と衝突をくり返した。この年、学園闘争が多くの大学にひろがり、東京大学では安田講堂を学生が占拠したため、卒業式は中止になり、5月には日本大学で全学共闘会議が結成された。
いっぽう夏にかけて、東京・神田の学生街ではしばしば学生と警官隊の衝突をくり返した。神田小川町に校舎のある明治大学記念館講堂のまえは、学生たちのたまり場になっていた。
新聞には、この年、明治100年の記念式典がおこなわれ、日本は、GNPがイギリスを抜き、世界第2位に躍進して、「経済大国」ということばが新聞・ТVでさかんに喧伝された。
だが、その実感はほとんどなかった。
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イタリアのオリベッティ社が、日本に上陸したのは、その7年前だった。
イタリアのオリベッティ社が1961年9月21日、22番目の同系会社として、「日本オリベッティ(株)」が設立された。
社員数わずか20名のスタートだった。
初代社長はカルロ・アルハデフといい、東京・日比谷の帝国ホテル内に事務所が置かれた。
発足当初、日本におけるオリベッティの知名度はきわめて低く、「世界のオリベッティ」が日本へ上陸と一部の新聞が伝えるだけだったが、ぼくは友人のひとりとアルバイトで、オリベッティ社に勤務した。
イタリアに興味をもったのは、イタリアオペラを聴いていたからだった。
むろんオリベッティ社はオペラとは無関係の会社で、タイプライターを販売していた。日本語版の社内報を出すということになり、応募すると、ふたりとも合格し、翌年の1月から、ぼくは移転したばかりの目黒の自社ビルに勤務した。
アルバイトで入社をしたのだが、1年後、カルロ・アルハデフ社長は、正社員になることをすすめてくれた。契約書にサインをして、池田直也とぼくは正社員に遇された。ぼくの仕事は社内報から拡大した日本語版「広報誌」の編集だった。
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1908年、カミッロ・オリベッティにより創業され、1933年、長男のアドリアーノ・オリベッティが事業を継承したが、1960年、アドリアーノ・オリベッティが死去した。
この年からオリベッティ一族の不和がいちどに噴出し、しだいにオリベッティ本体も経営危機に陥った。
イタリア財界の助力によるオリベッティの救済再建が実施された。
1964年に実施されたイタリア財界の助力によるオリベッティ再建救済の内容は過酷なものだった。
オリベッティ一族の持ち株比率を75パーセントから35パーセントに減らし、経営の実権も事実上一族から離れるというものだった。大型コンピュータ部門を米のGEの支配に委ねることになった。後年になって、ぼくはミシェル・ビュトールの「心変わり」という小説を読んだ。まさに、この本に書いている通りの実人生を、ぼくは体験することになった。
ぼくはイタリア・トリノの本社にはじめて出向したとき、2年間ほど滞在し、あるイタリア女性と知り合った。
アンナに教えられたヴィーナス。「淋しくなったら、わたしだと思って見て」といった。
くらくらするほどの生々しい肉感に圧倒された。
彼女アンナ・ヴィッティは26歳で、イタリアの大学院を出ておなじ広報セクションで働いていた。2年間だが、家具付きのアッパルタメント(アパート)を紹介してくれたのも、アンナだった。アンナは電車で20分ぐらいのサン・マウロ・トリネーゼという街に住んでいた。
勤務がおわると、ぼくはアンナの街にひとりで出かけていき、アンナの街を歩いた。そこは料理人の街で、何を食べても美味かった。
ぼくはニコンのカメラを持っていて、街々の石造りの壁に尻を向けて腰かけているおじさんたちを写真に撮った。長年の労働の徴(しるし)みたいに刻みつけている日に焼けた顔に笑みを浮かべ、
「どこから来た?」という顔でこっちを見つめていた。
アンナとその街で会おうといったとき、彼女はびっくりした顔をした。アンナの両親は離婚していて、サン・マウロ・トリネーゼにはいないといった。
「どこにいるの?」ときいた。
「ふたりとも、別々に死んで、いま天国にいるわ」といった。
そして、「《過ぎ去った水は粉を挽かない(Acqua passata non macina più.)》」とイタリア語でいった。ことばも意味も、ぼくにはわからなかった。アンナは日本語で、「済んだことは水に流しましょ。わたしの過去をきかないで!」といった。
「過ぎ去った水は粉を挽かない」というイタリアのことばが、ぼくの脳みそをいっぱいに浸した。
ポータブルタイプライター「ヴァレンタイン」が出たのは翌年の1969年だった。ボディの赤は、イタリアのとてもスタイリッシュな赤だった。
とても高価なタイプライターだったが、カルロ・アルハデフ社長と交渉して、安く手に入れることができた。そのころ、ぼくはニュージーランドの女の子とまだ文通がつづていた。そのタイプライターでぼくはトリノから彼女にレターを送った。タイトルは「トリノからキーウィの国のあなたへ」と書いた。
文字がとてもきれいで、ぼくはわくわくした。すると彼女から、マオリ族の彫ったペーパーナイフが一本送られてきた。
アンナに見せると、彼女は欲しがった。
「プレゼントするよ。アンナの誕生日はいつ?」とぼくはきいた。
「イタリアの4月は、典型的な地中海の春よ。わたしは4月生まれなの」といい、「あなたは?」ときいた。おなじ4月だといった。
アンナ (預言者) という名前は、新約聖書の「ルカによる福音書」に登場すると彼女はいった。――ハンナ (Hannah) 、アンヌ (Anne)、アンネ (Anne)、アナ (Ana)、アン (Ann) などもおなじ由来をもっているといった。
――「アンナの秘密」という映画ができたのは、いつだったろうか。
最愛の夫が不慮の事故で性的不能になってしまい、心とは裏腹に止められない愛欲の高ぶりに悶えるアンナが描かれ、それまでの愛欲遍歴や、性の悦びについてや、自身の秘密について、赤裸々な告白をはじめる映画だった。……
カトリックでは、司祭=神父は、生涯未婚が条件だとアンナはいった。
「結婚したら、どうなるの?」とぼくはきいた。
「カトリック教会では、ミサ(聖祭)の司式ができません」といい、「そういうときは、結婚証明書を役所に申告しなければいいのよ。女性と性的関係になることは、やむを得ないわ。でも、司祭の地位を捨てることになるのよ」といった。
ヨハネ・パウロ2世教皇は、「童貞であることは、貞潔であることの証拠である」といい、天に召されても、イエス・キリストとおなじその本来の意味を持ちつづけることができるといったらしい。
「ぼくは、そんなのは嫌だな」といった。
「わたしも」と、アンナはいった。
そして彼女は、
「処女は、童貞より深く重んじられない」と、ぽつんとつけ足した。
「ぼくは童貞じゃない」というと、
「わたしも処女じゃありません」といい、ふたりは顔を見合わせて笑った。
アンナにはまだ恋人がいなかった。
仕事が恋人といっていいくらい、彼女はがんばった。会社も、多忙だった。
ぼくが入社したころは、トリノの本社の大型コンピュータ開発でてこずってオリベッティの社運がぜんたいに傾きかけたころだった。アドリアーノ・オリベッティの死を乗り越えて、事業救済に乗り出そうとしたころで、日本オリベッティに課せられた期待はとても大きかった。
それから、社員は100人、200人と伸びていった。
帰国して目黒の会社に通勤しながら、ぼくはイタリアの本を読みはじめた。そしてアンナにレターを送った。
「こんどイタリアにくるとき、近くのバス停にいて。ほら、このあいだ会った場所よ」と書いてあった。手書きの地図まで書いてあった。昼間のバス停の時間は、約1時間おきになっていた。
「リベッルラlibellula」というバス停だ。訳して「とんぼ」。おもしろいなとおもった。
それから1年と何カ月がたった年の暮れ、ボーナスをはたいて、ぼくはミラノに飛んだ。ミラノ・スカラ座のコンサートを予約し、アンナを呼んだ。ミラノに3日間いて、昼も夜も、アンナといっしょに過ごした。
「あなた、よかったら、このままイタリアにいて」と、彼女はいった。ぼくはイタリアが気に入っていた。
日中の気温は、最高18℃くらいで、12月の札幌の気温より温かかった。
ミラノのことを、彼女はミラーノといった。
アンナだけでなく、みんなミラーノといっている。イタリアの詩人ウンベルト・サバのことも、サーバと呼んでいる。ウンベルト・サーバといえば須賀敦子さんを想いだす。
「須賀敦子全集」(全8巻)の第5巻に載っているイタリアの詩人ウンベルト・サーバの詩集は、彼女が翻訳している。
トリエステの町を撮った写真がいろいろ載っていて、凪いだ海もあれば、石づくりの道や家々もあって、たのしそうな本だった。
トリエステには冬、ボーラという北風が吹く。夫はその風のことを、なぜかなつかしそうに話した。瞬間風速何十メートルというような突風が海から吹きあげてくるので、坂道には手すりがついていて、風の日は、吹きとばされないように、それにつかまって歩くのだという。「きみなんか、ひとたまりもない。吹っとばされるよ」と夫はおかしそうに言った。
(須賀敦子「ミラノ 霧の風景」より)
「ボーラ」というのは、季節風のことで、この町にかぎらず、アドリア海の北側に面した海岸では、風速30メートル以上の風がいつも吹きあれるらしい。
この町で生まれた詩人サーバにあやかって「ウンベルト・サーバ書店」という名前の書店があると書かれている。古書店だ。ふつうサーバといわれているそうだけれど、彼女はサバと書いている。そんな写真集みたいな本を見ていると、その町のことはなにも知らないけれど、須賀敦子さんが愛した町だから、ぼくまでがなんだかなつかしくおもえてくる。
彼女はこんな海を見ていたのか、とおもって。――
翻訳家としての須賀敦子さんもすてきだけれど、文章家しての彼女も好きだ。しかし、彼女がはじめて作家活動を開始したのは、おそろしく遅い。日本オリベッティの文化広報誌「Spazioスパッジオ」に「ミラノ 霧の風景」を連載したのは、1985年、彼女が56歳のときだったと書かれ、これが本になって刊行されたのは1990年で、彼女は61歳になっていた。
そして1998年3月、須賀敦子さんは69年の生涯を終えられた。
そのとき、須賀敦子さんは5冊の本を書かれていた。「Spazioスパッジオ」は「空間・宇宙」という意味で、ヨーロッパ全域で読まれるようになった。
ぼくは須賀敦子さんとは会ったこともない。
だが、須賀敦子さんが日本オリベッティの広報誌に寄稿していたことを知り、少なからず彼女との縁を感じていた。
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それから月日が流れ、ぼくは勤務する会社が変わっても、アンナと会っていた。いつもサン・マウロ・トリネーゼの街に直行し、アンナの部屋で過ごした。彼女のブロンドのヘアは日本の着物がよく似合った。
最初にプレゼントしたのは京都で手に入れた浴衣だった。身長160センチが、可愛く見えた。
サン・マウロ・トリネーゼの街のお祭りに、アンナは浴衣を着て出かけた。
帰ると、彼女がつくったスパゲッティを食べ、あまりに美味しいので、つくり方を教わった。イタリアのパスタには腰がある。これをつくるのはなかなかむずかしいとおもった。
彼女はフライパンで、たんかんにつくって見せた。スパゲッティをタマネギ、ピーマンなどと共に、トマトケチャップで炒めた洋食だが、日本ではこれをナポリタンといった。
その話をすると、アンナは「ナポリタン? うっそー!」といった。
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お腹がいっぱいになると、いつもベッドで寝ころんでキスをし、それから強すぎる夕日を浴びて、彼女を抱いた。
アンナは妊娠しないように、何かしていた。
「いいのよ、妊娠しても。……いまのわたしの気分なら、あなたの子供が欲しいわ」とアンナはいった。
ぼくは堪らなくなった。
ぼくはアンナにふたたびかぶりついていった。激しく二度目の性交をし、おわってから、アンナはポツリといった。
「いまので、きっと妊娠したかも!」
「なら嬉しいよ。……ぼくはこのまま、アンナのいるイタリアの街に住みたい」といった。――こんな、映画のセリフみたいに、流暢なイタリア語でいえたとは思えない。ぼくのイタリア語は、気持ちだけ精一杯の、不慣れなイタリア語まみれの毎日だった。だが、アンナがいれば、それでじゅうぶん。
それからふたりで街に繰り出し、ルキノ・ヴィスコンティの古い映画を上映している映画館に入った。その間じゅう、アンナはぼくの前ズボンのチャックを降ろし、「いいでしょ?」と耳打ちし、ぼくのペニスを握っていた。
その後、アルベール・カミュの同名小説を映画化した「異邦人」、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」、そして、ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの同名小説を映画化した「山猫」を観た。
これはすごかった。映画はルキノ・ヴィスコンティの全盛時代だった。
そのうちに、アンナの書いている映画脚本を読むようになった。それから彼女は2、3年たって、とつぜんオリベッティ社を辞めた。アンナは、映画の脚本家として生きる道を選んだ。
同時に、オリベッティの「広報誌」に、記事を連載するようになった。アンナ・ヴィッティは30歳のとき、いい寄る男を振り切って、小説を書くようになった。それからのことはわからない。
ぼくらはその後会うこともなくなった。彼女はいとちども日本にきたことはない。川端康成の長編「山の音」を読んだといい、須賀敦子さんのイタリア語訳がとてもいいといって褒めていた。
アンナは日本を見てみたいといっていた。
あのとき、もしも日本に連れてきていたら、彼女の人生よりも、自分の人生のほうが、大きく変わっていたかもしれない。ぼくも、あのとき、イタリア生活に根をおろしていたら、アンナと暮らすイタリア人になっていたかもしれないのだ。
アンナはいっていた。
「スクリーンは、わたしたちの考える希望や、夢、……そう、成功の失敗もよ、反射しているのよ。それがルキノ・ヴィスコンティの映画よ」と。
アンナにはもう、じぶんの生きるパラダイムができていたかもしれない。
脚本家みたいにいうプロットポイントの第1局面と、第2局面が。アンナの方向転換は、とつぜんに見えるだけかもしれないとおもった。
さて、自分には何があるのだろうとおもう。人生のプロットなんか、いちども考えたことはなかったのだ。「構成があってはじめて形ができる。その逆ではないわ」とアンナがいったのは、そういう意味だったのだろうか、と、いまになって考えさせられた。

