「竹光始末」に見る藤沢文学。
藤沢周平「竹光始末」(新潮文庫)。
藤沢周平の「竹光始末」の話をしてみたい。
主人公は小黒丹十郎といい、35、6歳で、その武士のなりは、黒紋付に袴(はかま)をはき、腰には大小をさしてはいるが草鞋(わらじ)ばきの足もとは埃にまみれ、手にした笠はあちこち傷んでアナがあいている。
よく見ると、妻子が着ているものはおびただしい継ぎあてがしてあり、武士の紋付なども、紋のかたちがくずれて判然としない。
そのうえ、4人とも疲労困憊した顔つきで、彼は頬がげっそりとこけ、無精ひげをのばしている。
海坂藩の城門を通りぬけようとするこの4人を見た門番は、
「これ、いずれへ参られる」と、口調きびしく声をかける。
「それがしは、もと越前松平家の家中で、小黒丹十郎と申す者でござる」と答える。きけば、はるばる柘植(つげ)八郎左衛門をたずねてやってきた者とわかる。
この冒頭の文章を読むだけで、どのような窮乏を耐えてきた人間かがわかる。
「いや、それがしは面識はござらん。しかし……」といって、懐から取りだしたものは一通の書状で、
「この通り、柘植どのへの周旋状を持参した者でござる」という。
一面識もない柘植と名乗る者を紹介した周旋状を見せるのである。丹十郎は柘植ひとりを頼って、はるばるやってきたというのである。そしてこの男が、柘植の周旋で、藩の討手になるという話である。
2000年ごろのじぶん。好んで藤沢周平の小説を読んでいた。
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時代小説の多くは、このような内容の小説の場合、敵味方にわかれて斬り合うシーンに重きをおいて展開されるはずだ。だが、藤沢周平のばあいは違う。子や妻の物語を書かずにはいられないのだ。お目当ての当人は留守をしていて、柘植八郎左衛門とまみえるまでの4、5日間は、柘植の妻のはからいで信用のおける旅籠に身を寄せることになる。
柘植の妻は、継ぎあてだらけの4人の衣服を見て、妻女のなかに憐れみのこころが動く。周旋人の名前を見ても、妻女には心当たりがなかったが、目のまえにいる人物は、ボロをまとってはいるものの、素性は卑しくない。長く禄(ろく)にありつけない暮らしをしてきた人間を見て、
「いっそ、この家に泊まられてはいかがですか。窮屈でなければ、お世話致しますよ」といった。
「いやいや、とんでもござらん。こちらはつてを頼ってお願いにあがった身。さよう厚かましいことは出来申さぬ」という。
――それで、妻女のすすめる旅籠で数日を過ごすことになる。
それから藩から討手の命を受けるまでのあいだ、妻子との物語が展開される。これがあるために、一編の時代小説の懐がぐーんと深みを帯びることになる。たんなる時代小説ではなくなるのである。藤沢文学のよって立つ視点は、それであろうとおもう。
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藤沢周平がようやく円熟の期に差し掛かったのは、1980年代だったようにおもう。「時雨みち」、「霜の朝」、「龍を見た男」など名作がずらりと居ならぶ。なかでも、映画にもなった「小川の辺(ほとり)」という小説は、人間愛の機微を描写していて、なかなかおもしろいが、この話はすでに書いた。
「武士」って何だろう?
2014年3月号の「文藝春秋」に、磯田道史の「明治維新を支えた武士の人材育成術」と題する記事がある。それによると、江戸時代の 大名家臣団は大別して3つあり、「侍」、「徒士(かち)」、「足軽以下」と3つを指しているという。
それらは家格によって決められ、足軽の子は足軽以上にはなれないが、ときとして物頭という足軽大将になることができ、家格は代々世襲によって受け継がれていく。
武士とは、領主なのか、それとも官僚なのかということになるが、この問題をはっきりさせないまま今にいたっていると書かれている。その伝でいくと、伊藤博文はもともと百姓で、のちに中間(ちゅうげん)に転じたものの、士分ですらなかった。
だが、足軽といえども武士のはしくれで、外出するときは帯刀することが義務づけられていたが、通常は袴を着けてはならなかった。足軽は士分に出会うと、下駄を脱いで深々と土下座しなければならない。
これほどの違いがあるのに、従来からひとくくりに武士とされてきた。
乃木希典、大山巌、児玉源太郎など、日清・日露戦争の将軍たちも、ほとんど徒士(かち)の出身である。徒歩というのは行軍の際は馬に乗れず、徒歩行軍する身分である。
そう考えると、主人公の小黒丹十郎は、袴をつけ、帯刀している。ボロは着ていても軽々に見てはならないだろう。そのものいいは分をわきまえ、まことに礼儀ただしい男として描かれている。妻子を養うために職を求める姿が、いかにもすがすがしいのである。
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「オンライン生活? ほう」とぼくはいった。
友人は70歳だけれど、オンライン生活を楽しんでいるそうだ。彼は「膨張するネット宇宙」といった。エドウィン・ハッブルじゃないけれど、この世界も膨張しつづけているようだ。しかしそれは、いまはじまった話ではなさそうだ。
「どういうものか、人間ってさ、いつの時代でも、そうじゃありませんか? 世間というオンライン上に乗っかって生きてるってこと。むかしからね……」
何の話だろうとぼくはおもった。
「さっきの和辻哲郎の《倫理学》の話ですか?」
「そうじゃありません。……秩序とか道徳とか、定義されたものじゃなくて、これは、定義されない世界の話ですよ。学の世界じゃなくて、民の世界ですよ」と彼はいった。
「民の世界ですか。……」
「民ですよ。藤沢周平の世界かな?」と彼はいい足した。
このことばを聴いて、ぼくはピーンときた。
「人間」とか、「関係性」とか「存在」とか、そういう話のまえにある世界。彼はひさしぶりに多弁になり、「田中さんの書く小説も、そうじゃありませんか?」ときいてきた。
なーるほど、そうだなと合点した。
藤沢周平の名が出てきたので、ぼくはその話をした。すると、友人はこういった。
「藤沢周平が読まれるようになったわけ、ご存じですか?」といった。さーて、ぼくは即座には答えられなかった。
「昭和の時代と符合しているんですよ」と彼はいった。
「どんなふうに?」
「バブルがはじけてから、急に読まれるようになった」といった。
「その前は、司馬遼太郎さんが読まれた。そのまた前は、松本清張さんが読まれた」
「ほう、なーるほど」
「バブルがはじけちゃって、世の中の価値観が変わったんですよ。すると、生きにくい江戸時代の底辺に生きる、次男、三男といった貧乏なサムライたちの暮らしを描いた藤沢周平、彼の小説にむらがるようにして読まれたんです。その小説にみんなは共鳴した。そういうわけですよ。長男は家を継ぎますからいいのですが、次男、三男は自分でどこか、自分より家格が上の娘を見つけて婿入りするかしなければ、生きられない。結婚相談所なんてなかったしね、……」
「そうですね。《冤罪》という小説には、そういう話が書かれていますね」
「それなんか、傑作中の傑作だとおもいますよ」と彼はいった。
「ある女を探していたら、尻から見つかるという話でしたね」とぼくはいった。
「藤沢周平の小説に、ときどきそんなのがありますね。女が藪のなかで、おしっこをしている最中、その白いお尻を見つけます。なんと、ここにいたのか、と男はおもう。おもしろいですね」
彼は、用を足して藪から出できた女に、「明乃どの」とことばをかける。
女は驚いて振り返る。
「いい日和でござるな」などという。
お尻を見たことなんかおくびにも出さず、平然としていう。
「心配していたのだ、そなたのことを」と。
「さよう。できれば、そなたを妻にと考えておった」とぬけぬけと告白したりする。
「そなたを見つけて、天にも登る気持ちでござる。……それがしには、そなたが無事だったことだけで十分だ」
「私のことを……。そういうわけで、私は婿をもらう身です」
明乃は他家の養子となり、やがて婿を迎えることになっていた。男は考える。都合のいいことに婿を迎えるというではないか。源次郎は身を乗り出した。
「その婿、それがしがなろう。どんなものだろうか、明乃どの」
「まあ」
「それに、そなたといっしょなら、少々の苦労は厭わん」
「でも養い親がどういうか、聞いてみないと解りません」
そのとり澄ました横顔を見ていると、不意にさっきの崖の上で見た、明乃の丸くて白い尻がおもい出されて、源次郎はおかしくなった。
「巷にあふれた現代の浪人たちは、そこに自分らの境涯を重ねて読んだんですよ」と彼はいった。その説得力は、批評家を超えている、とぼくはおもった。
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それから、わが国の「腰肚(こしはら)文化」の話をし、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の話におよび、日本の文化は、陰翳にあるという話になった。つまり、「影」をいかに表現するか、ということ?
これはひじょうに繊細な文化であり、人の立ち居振る舞いを規制した、儀礼というかたちで受け継がれてきたようだ。茶道の発達した文化は、みてくれにはあらわれない。影の文化は、姿かたちのない文化である。儀礼も、すがたかたちのない文化である。
これを「腰肚文化」と呼ばれているわけだけれど、とうぜん「恥(礼節)の文化」をふくむ。――武士は、じぶんの恥を帳消しにするために腹を切るのである。「生き恥をさらす」ことはしない。
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そして、藤沢周平の「蝉しぐれ」の話になった。
文四郎は、牧家に養子としてもらわれていったが、当時、長男をのぞけば、次男、三男は、どこかの家に養子にもらわれていくしか、生きるすべがなかった時代である。文四郎の父は、血がつながっているわけではないが、彼は父の生き方に共鳴している。
父は、田畑を洪水から救うために、村人の先頭に立って直訴をした人物である。村人たちから、なにがしかの金銭を得るためではなく、村の田畑を救うために、堤防をまもり、濁流うずまく洪水を、別の堤防を決壊させて救った。
村人は、そのときの父のはたらきに恩義を感じている。そういう父が、ある日、屋敷に呼び出されたまま帰ってこない。人がやってきて、父が切腹させられたらしいという話を聴く。江戸に住まう殿様に、ふたりの息子が誕生し、その跡目争いに巻き込まれたらしいというのである。
里村という主席家老によって父は切腹をおおせつかったのである。
文四郎は、若干15歳で家長となり、父の亡き後、冷や飯を食わされるハメになる。その後、文四郎は旧禄(きゅうろく)に復され、もとの暮らしにもどされるが、むかし隣り近所の娘だった小柳フネは、ふたたびお殿様の子をはらんで、郷里の欅(けやき)御殿に帰ってくる。これを知った里村一派は、子供を亡き者にするために刺客を送り込む。
文四郎のはたらきで、難をのがれ、舟に乗って城下に出ると、その子をかかえて直訴する。おフネの命も助かる。事の仔細が発覚し、里村は切腹させられるという物語である。
「父を恥じてはならぬ」と、文四郎の父はいった。
「なぜですか?」ときく。
「やがて分かる」と、父はいう。
それが、父との最後の別れとなる。この「恥じてはならぬ」ということばが、男の生き方を代弁しているようにおもわれる。そういう意味で、武家社会では、武士は「恥」のために生きたり死んだりしている。
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ぼくが藤沢周平の作品を読むようになったのは、ここ20年ぐらい前からである。「驟(はし)り雨」、「龍を見た男」、「橋ものがたり」など、なかなかいい作品がある。なかでも傑作であり、彼の代表作は、なんといってもこの「蝉しぐれ」であろう。いずれもぼくは新潮文庫で読んでいるが、この「蝉しぐれ」だけは、ふしぎなことに文春文庫にしかない。
「――きょうは、楽しかったですよ。藤沢周平の話なんか、しばらくやっていませんから」と、友人はいった。
「きょうは感動的な話、藤沢周平とバブル崩壊の話、よくわかりましたよ」とぼくはいった。友人のいう「膨張するネット宇宙」の話を、もっと聴きたかったなとおもう。