シア女を抱いた。                                                             

ぼくは、ずっとまえ、――平成10年ごろのことだが、――父が書いた「自叙伝」の原稿の一部をコピーして読んだことがある。北海道に帰省したときにコピーして持ち帰ったのは、原稿用紙にして70枚ぐらいのものだった。それによると、母との出会い、ぼくが誕生したころの話、3人の子守りの女の子の話などが書かれていた。

母は結核性肋膜炎でながいあいだベッドに臥()せっていた。母ははたらくことができなかったので、家にはいつも子守りの女の子がいた。いずれも彼女たちの名前は書かれていない。

最後にいた子守りの女の子は、日本人の母と、ロシア人の父とのあいだに生まれたの女の子だった。彼女はサハリンで生まれ、日本人の引揚げ者といっしょに北海道にわたってきた。

当時、サハリンからの引揚者は100万人を超えていたとおもわれる。

日本人妻のいる家族は、ロシア人の夫とともに北海道へ渡ってきた。ナターシャは、ぼくより8つ年上だった。彼女の父親は、北海道で行商をしていた。

ぼくが8歳のとき、彼女が子守りの女の子としてわが家にやってきた。

ぼくの下に弟がふたりいた。生まれたばかりの弟は、ナターシャの背に負ぶさって母のおっぱいを吸っていた。――わが家は、雨竜郡北竜村という農村地帯に家があった。父は、陸軍旭川第7師団から満州の戦場へと駆り出され、戦時中は、母がひとりで家の切り盛りをしていた。

本州方面からの出稼ぎの季節労働者が北海道に渡ってきたので、母はそういう彼らを雇って、田畑を耕していた。

父が帰ってきたのは終戦の年の暮れだった。ぼくはすでに生まれていた。

いまおもい出しても、むかしの写真を見るように、ぼんやりとしている。自分がまだ幼かったころの記憶は、ほとんどない。わずかにおもい出すのは、本家のばあさんのことだった。父のいない家には、おそらくばあさんが母のめんどうをみていたに違いない。

ナターシャには野良の仕事をさせなかった。家の切り盛りのすべてを任せていた。母のめんどうや、弟らの子守り、食事・洗濯など、彼女には休みというのはほとんどなく、家族のように暮らしいていた。

ぼくが小学校6年生のとき、馬の世話をして、馬を自由にまかせてくれたことがおもい出される。農家も農閑期になるとヒマになり、せいぜい田んぼの草取りをするくらいで、ぼくはあちこちに馬を連れだして、馬とともに過ごした。

そのころの夏、恵岱別川(えたいべつがわ)で釣りをしたり、馬の脚を洗ったりして、父と偶然、川原の土手で出会うことがあった。

なぜか、そばにナターシャがいた。

彼女は、夏には浴衣を着ていた。

ナターシャは父よりも背が高く、たぶん170センチはあったろうか。ブルネットのヘアをしていて、目は茶色っぽかった。

肌は白く、お尻の大きい子だった。

彼女は背が高いので、母は和服を着せていた。おそらく彼女のサイズに合う服はなかったのかもしれない。和服なら、背丈に合わせることができる。よく母の履いている下駄を、気に入って履いていた。

恵岱別川から家に向かう農道は、水路に添ってまっすぐに伸びていて、途中に小豆川があり、その橋にかかる樋(とい)でできた水路は、川をわたる真ん中に調節弁がついていた。あまった水は、調節弁を開いて水を川に放出していた。

そのあたりにはイタドリが群生していて、水は深く、ときどきそこでみんなと泳いでいた。

彼女もやってきて、いっしょに泳いだこともある。

川はそれほどか深くはなかったけれど、急流で、押し流されそうになった。ぼくはうしろから彼女の浴衣の帯をつかんで、しがみついていた。

お姉ちゃんが、川に流される! とおもった。

そして、お姉ちゃんがおぼれるとおもって、ぼくはお姉ちゃんの浴衣の腰にしっかりしがみついていた。ぼくは、少し水を飲んだ。ふたりは流されてコンクリートの護岸のある壁につかまった。

真上に用水路の樋(とい)のあるところだった。

樋から水がぽたぽた川に漏れ落ちていた。木々のあいだから洩れてくる太陽の光が、いくつにも散らばって見えた。

お姉ちゃんは、護岸の壁が尽きたあたりにある柳の小枝につかまった。

そこは木の茂みの影で暗くなっている。彼女は、ぼくの腕をしっかりつかんで、「ゆき坊、がんばって!」と叫んだ。

お姉ちゃんは、片手で自分の浴衣の帯を解くと、それをぼくのからだに巻きつけた。そして、川岸をよじ登っていこうとした。お姉ちゃんのお尻がゆれて、からだがぼくのうえにずり落ち、ふたりとも川に背面から音をたててすべり落ちた。

沈んだ耳のなかで、お姉ちゃんの叫ぶ声がぼんやりと聞こえた。水のなかはべつの世界だった。これが魚の世界なのかと、ぼくははじめておもった。

水のなかで、太陽が見えた。

きらきらして、まぶしいくらいだった。

彼女は柳の小枝につかまり、べつのルートを探してよじ登っていった。丈の短い笹(ささ)がたくさん生えていた。ホウの木やクマゲラが好きそうな橅(ぶな)の木があった。

ロロロロロと聞こえるクマゲラのドラミングの音は、このあたりでしていたのかもしれない。

彼女は、土手にあがると、笹を掻きわけて農道のほうに歩いていった。

父が向こうから歩いてきて、いきなりナターシャの頬を打った。

「ナターシャ! 川で何をしていたんだ。おまえたちの姿が見えたので、きてみると、これはなんだ!」と、父は怒鳴った。

父は中国の戦地で戦ってきた元日本兵だったから、叱り方が怖かった。父は機関銃兵だった。帯をつけない、ぬれたままの浴衣着のお姉ちゃんは、見たこともないほどきれいだった。

ブルネットの長い髪がぬれて、顔じゅうに張りついていた。

「ゆき、おまえは、馬に餌をやれ!」といった。

それから父は、彼女を連れて恵岱別川のほうへ行った。

ぼくは叱られて家にもどった。

父のあとからついていくナターシャのぬれた浴衣姿を見て、父は、彼女をどうする気なのだろうとおもった。ふしぎな光景に見えた。

夕方、西日が落ちて、父たちが帰ってきたとき、父は上機嫌だった。何があったのだろうとおもった。

それ以来、このときの記憶は忘れてしまい、それから数ヶ月して、秋のおわりごろ、稲の収穫に多忙になり、納屋では連日連夜、発動機のエンジンの音を鳴らして、ランプの灯りひとつで、父は稲屑まみれになって精を出した。

夜も遅くなって、納屋は静かになり、ぼくら兄弟は眠った。そして、あることをおもい出して、納屋のほうに行くと、父は、稲わらのなかでナターシャと抱き合っているのを見た。

父には、見たことを知られたくないとおもい、それ以来、ぼくはこの話を封印した。

一瞬、お姉ちゃんがいじめられている! とおもった。

だが、それは違ったようだった。父の機嫌のいい日はめったになかったが、ある日、父はふたたびナターシャと泳ぎに出かけた。

「おまえは、家にいろ!」と父はいった。ぼくはおもった。

父はナターシャが好きになったに違いないと。母は病気で、ベッドでいつも寝ていた。

その帰り、父とナターシャが農道を歩いてくる姿を見た。

そして、ナターシャが家に帰ると、父の下着を洗濯しているのを見た。

それからぼくが成長し、中学2年生になった冬、母が元気になり、母はナターシャを追い出した。

父は、「ながいあいだ、ご苦労さまだった」といって、給金の入った封筒を差し出すと、彼女は深くお辞儀をして、翌日、家を去った。

彼女は25歳ぐらいになっていた。

母はおそらく、父が彼女に通じていたことを、とうに気づいていたのだろうとおもう。子どもたちのまえでは、何もいわなかったが、母は父にたいして、つよい不信感のようなものを感じていたかもしれない。

ところどころ、ぼやけているが、記憶の断片をつなぎ合わせると、父はまだ若かったので、彼女の魅力に抗しきれなかったのだろうとおもう。

そういうことよりも、父はきっと、ナターシャのことを守りたかったのだ。

戦争が終わってみれば、村には軍隊帰りのよからぬ荒くれ男たちが帰還してきた。彼らは定職に就かず、ただ酒だけ飲んで憂さをはらしているだけだった。

そういう男たちから、ナターシャだけは守りたいと父はおもったに違いない。

ぼくはこの年になって、若いころの父は軍隊にいき、ほとんど父の青春というものがなかったことをおもうと、ゆるせる気になった。父の書いた「自叙伝」に、ナターシャのことは1行も書いていなかった。

父が亡くなったのは、平成25年4月27日だった。享年102。