「Loveletter/4月の雨」とベトナムの若者たち。
アーネスト・ヘミングウェイ。
――きょうも、こちらは晴れるそうです。
北国にもひばりがやってきて、それと入れ違いに、雁はもう、寒い国に飛んでいったかもしれません。
古典落語ではありませんが、雁は海を渡るとき、じぶんの翼を海に浮かべて休ませるために、木片を咥えていくそうです。
ある村のおじいさんは、雁の落とした木片がまだあるのに気づき、やつはもう死んだかもしれないとおもい、その木片を拾ってきて、風呂を焚いて供養をしたそうです。これは「雁風呂」という落語のお話で、ほんとうはウソらしいのですが、ちょっとその話を想い出しました。
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アメリカには、じつにさまざまに作家や詩人がいます。たとえばビリー・コリンズは、じぶんとおなじ世代の詩人です。
だからというわけではありませんが、たまに彼の詩を読みます。
そしていつも驚かされます。
ぼくはいつもおもうのですが、アメリカの芸術家たちは、じつにさまざまな出自を乗り越えて、じぶんたちの生まれた母国語を捨ててアメリカ語で創作に励む人びとが多い。それは、ぼくには聞いたこともないアメリカ語なのです。
そういうなかで目をひくのが、ビリー・コリンズ(Billy Collins, 1941年生まれ)という詩人です。ビリー・コリンズはエッセイ「What's American about American Poetry? アメリカの詩のアメリカ的なところとは?」のなかでいっています。
じぶんの詩は英語ではなく、アメリカ語で書かれているのだと。イギリスで自作の朗読会をしていると、eggs over easyとか、aweat the finalといった表現がでてくると、みんなきょとんとしているといいます。a state flowerはイギリス人には、eatate flowerと聞えるらしい。そして、アメリカ的ないいまわしは、フランス語やドイツ語はおろか、英語に翻訳するのもむずかしいだろうといっています。
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「Loveletter/4月の雨」。――2013年7月、ポニー・キャニオンから発売されたaikoさんの30作目となるシングル盤だそうです。この曲をずっと聴いていて、ぼくは北海道の季節――秋のrain treeの音をずっとイメージしてきました。今泉ひとみさんも歌っていますが、彼女とはぜんぜん違うのです。aikoさんのはロック調です。ぼくはどちらも好きです。
さて日本は、雨と聴いて、梅雨の季節をおもい出しますが、北海道には梅雨がないので、いたってカラッとしています。カラッとはしていますが、ぼくが住んでいた町は北緯43度線ですからやはり寒いのです。
ぼくの雨の多くのおもい出は、東京・銀座にあります。1962年に上京してから、ぼくは銀座に住んでいました。有楽町から電車に乗って大学へ通学していました。そのころ、銀座には学生がたくさんいました。学生の街でした。喫茶店に入れば、学割がきいてコーヒー一杯が60円のところ、30円で飲めました。そんな喫茶店、今はどこにもありません。
「お友だち、連れていらっしゃいよ」と、店の女の子にいわれ、仲間を連れていくと、全員30円で飲ませてくれました。明治大学の学生たちです。
「ラ・ボエーム」という名曲を聴かせてくれる店は、いつの間にか学生たちのたまり場になりました。その店は銀座2丁目の銀座通りに面したところにありました。そこにはピアノがあって、ときどき生演奏がかかります。友人たちは、だれも音楽なんか聴いちゃいません。
ときどき米兵、――海兵隊員、――がやってきて、コロラド州の話をしてくれたり、アメリカの田舎の農場の話をしてくれたりしました。
「来てくれるなら、嬉しいよ。そのときはぼくを訪ねてくれ」といわれ、住所などを紙に書いてくれたこともありました。もちろん、訪ねたことはありません。彼らとは一瞬の出会いです。2年間の兵役期間、彼らは田舎の高校を出たばかりで、みんなベトナム戦線で過ごしたわけです。五体満足、ケガもなく帰還できたことに、みんな感謝しているようでした。
ぼくらだけでなく、こうして交わった仲間たちの多くも、一瞬出会って、「また会おうぜ!」といいながら、その後いちども会うことはありませんでした。
ぼくは、たぶん北海道の話をしたとおもいます。
彼らはベトナムでの兵役を終え、これから本国アメリカに帰還するという人たちです。東京でのしばしの休暇を楽しみ、ベトナムでの活動を写真におさめ、それら記念すべきアルバムが一冊の本になるまで、東京での自由な空気を吸っていました。本格的にベトナム戦争がはじまる少し前だったようにおもいます。
そのときに降っていた銀座の雨は、虹色に溶けたみたいな都会の色をしていて、とてもきれいでした。フランス映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg 1964年)」のタイトルバックの風景は、銀座で撮影されたという話を聴きました。銀座通りを真上から撮影していて、舗道を歩く人たちの傘が躍っているみたいに写って見えました。そのときの風景はモノトーンなのに、傘だけがカラフルで、とっても印象に残りました。
この物語にも雨が降っていました。
映画は、1964年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しました。ジャック・ドゥミ監督。ぼくはカトリーヌ・ドヌーヴという女優をはじめて見ました。こういう映画には雨が似合います。フランス映画に登場する雨はいいですね。
フランスで想い出しましたが、フランスには梅雨はないそうです。1日じゅう、しとしとと雨が降りつづける日もあまりないようです。ですから、傘をもたないし、また多少の雨が降っても、傘をささないフランス人が目だつそうです。
「しかし意外にも、傘に愛着を抱いているフランス人は少なくないようです。その証拠といえるのが、パリ3区のランクル横町passage de l'Ancreにあるpep’sペプス。現存するパリ最後の傘修理店とさえいわれ、年間8000本から1万本もの傘を修理しています。」と、「Lattre de Paris」の記事には書かれています。
雨といえば、サマーセット・モームの「雨」を想い出しますが、彼はこの短編で名前を売り、ごたぶんに漏れず、短編作家の名手といわれました。
でも、ぼくには、もっと想い出深い小説があります。ヘミングウェイの「武器よさらば(A Farewell to Arms)」という小説です。
イタリア兵に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーが、イタリア軍は理想とはずいぶんかけ離れ、ヘンリーは、その戦場で看護婦のキャサリン・バークレイと出会い、はじめは遊びのつもりだったのですが、しだいにふたりは深く愛し合うようになります。
やがてふたりは戦場を離れ、スイスへ逃亡をはかります。そのうちにキャサリンが妊娠していることがわかり、病院で難産の末、子とともにキャサリンは死んでしまいます。
ヘンリーは打ちのめされたように、雨のなか、ひとりホテルへと帰っていきます。そのときの雨が、哀しみの雨を演出していました。
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この小説のタイトル、「A Farewell to Arms」について、ぼくはちょっと考えてみました。
高見浩の解説によれば、
《原詩では、年老いた騎士が主君への奉仕の一線から引退しようとする心境がうたわれているのだが、ヘミングウェイは“武器よさらば”という余韻に満ちた言葉の響きに魅せられたのだろう。それと、英語の“Arms”には、もちろん“腕”という意味もあるから、原詩と離れた原題からは、愛する人のたおやかな腕に別れを告げる意も仄(ほの)かに伝わってくる。そのことも、ヘミングウェイは意識していたにちがいない。ちなみに、彼が最後まで残した他のタイトル候補は次の四つだったという――
The World's Room(世界の部屋)、
Nights and Forever(夜よ永遠に)、
A Separate Peace(単独講和)、
The Hill of Heaven(天国の丘)。》
ぼくは、ほおーっとおもった。
ヘミングウェイの小説は、知られているように「A Farewell to Arms」となっていて、慣用句的に不定冠詞をつけています。
これにはもうひとつ捻った意味が隠されていると、ぼくはおもっています。強いて訳せば、「あの戦争よさらば」とも読めるのです。「あの戦争……」とはいったい何でしょうか。
1918年7月ヘミングウェイは、ミラノのアメリカ赤十字病院に入院し、介護にあたってくれたアメリカ人看護師と恋に落ちました。アグネス・フォン・クロウスキーという、7歳年上の看護師でした。しばらくつきあっていましたが、ヘミングウェイは彼女に振られます。小説に登場するキャサリンは、このときのアグネス・フォン・クロウスキーをモデルに描いています。
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ヘミングウェイにはもうひとつ雨が主題になる小説があります。「雨のなかの猫(Cat in the Rain)」という短編です。彼が24歳のときに書いたものです。
イタリアの海辺の町の風景は雨でぬれています。アメリカ人の若い夫婦が、小さなホテルに逗留し、妻は2階の窓辺にいて、窓のすぐ下に子猫がうずくまっていることに気づきます。雨ざらしのテーブルの下にもぐりこんで、濡れまいとして懸命に体をちぢめています。
「あの子猫、連れてくるわ」彼女はいいます。夫はさっきからずっとベッドの端っこに寄りかかって夢中で本を読んでいます。「ああ、子猫がほしい」と妻はおもいます。
あとで探したときは、猫はいませんでした。
「あの猫がほしかった」とおもいます。メイドがあとで違う猫を抱えてやってきます。「猫を持っていくようにと、主人からいいつかりました」と彼女はいいます。夫は、何食わぬ顔をしています。
妻は夫にかまってくれない寂しさから、猫がほしいとおもったわけです。というより、ぼくにはあの猫こそ、自分だとおもったに違いありません。そんなふうに女ごころの機微をさらっと描いていて、とても悲しい新婚夫婦を描いていたとおもいます。そのときの雨も、哀しく描かれていました。
「窓の真下に水滴を滴らせる緑色のテーブルがいくつかあり、そのひとつの下に一匹の猫がうずくまっていた。猫は滴ってくる雨水に濡れないようにできるだけ身を縮めていた」と書かれています。
「身を縮めていた」のは、ほんとうは妻だったというのが、この小説のいいたいところだったに違いありません。この小説のタイトルにも、定冠詞はありません。いかにも皮肉をこめたタイトルです。いかがですか?