っこうのる村で。

「かっこうの囀(さえず)りなしには春は訪れない」と、イギリスの詩人P・B・シェリーはいっています。そのとおりですね。春のおとずれとともに季節を告げる鳥の声を耳にします。

おなじカッコウ科に分類されている鳥で、ツツドリ、――この鳥はおもしろいことに「夏鳥」とも書かれますが、その名のとおり、北海道では夏になるとツツドリのさえずりを耳にします。――ぼくにはなつかしい渡り鳥です。夏になると、ツツドリの声をよく聴いたものです。

札幌の街の真ん中にある北海道植物園で、よくツツドリを見かけました。ぼくは花よりも、木を見るのが大好きで、札幌に、息子の小児ぜんそくの療養のために7年間住みましたが、そのとき、ぼくはカメラを持って、小学生だった息子といっしょに植物園に出かけたものです。

子供たちに北海道の木をおぼえさせることが目的でしたが、息子は木よりも、そのころは昆虫に夢中で、彼の興味は、カブトムシとかカマキリとか、ふつうの昆虫ではなくて、水生昆虫といって、釣りの好きな同輩たちがいうように、サケ・マスなどの降海型の魚、――幼いときは川や沼に棲息し、やがて広い海に向かって棲家を変え、生涯を終えるころ産卵のために遡河(そか)する魚たちですが、その採餌(さいじ)になるようなムシに興味があったようです。

「そんなんもの、どこがおもしろいんだ?」ときくと、

「お父さん、知らないの? 釣りをしている先生がいってたよ。そいつは魚の餌になるんだって」

「それで、何を釣るんだ?」ときくと、

「それは知らないけど、……。ぼくは、水生昆虫に興味があるよ」といって、タガメとか、ゲンゴロウ、トンボ、ゲンジボタルとか、そういう昆虫の名前をいろいろいっていました。ぼくのまったく知らない分野です。

ぼくの子供のころは、北海道・石狩平野の北端の農村地帯「北竜村」で過ごし、本家の近くの恵岱別(えたいべつ)の山に入ると、意外にも低地の森のなかでホホーッ、ホホーッと啼くツツドリの声を聴いたものです。ぼくにとって、鳥は格別の好みではありませんでしたが、夏にはきまってツツドリの啼き声を聴きました。

秋になると、カケスが庭先にやってきて、スズメたちといっしょに餌を啄(ついば)んでいました。農家の庭先には、鳥たちの好みそうな餌がふんだんに落ちています。苦労して探す必要がないほど落ちています。それをねらってやってくるのです。

豊穣の秋とは、鳥たちにもいえることで、天からの恵みを受けて、みんな生かされています。

カケスはほかの鳥とおなじように、けっこう怖がりでしたが、よく獲ったものです。土をふるいにかけるときに使う大きな金網の張った箱を使います。大人たちはこれをふたりがかりで土を選り分けます。

その金網の箱を立てかけて置き、そこに屑米(くずまい)をぱらぱらっと撒いておくだけで、鳥がなかに入ると、支柱の杭をヒモで引っ張って箱を落とします。パタンという音とともに土ボコリをあげ、なかの鳥がおどろいて羽をバタバタしています。なんの苦もなくアミにかかります。運がよければ、一度に何羽も捕獲することができます。

それがおもしろくて、何羽も捕獲しましたが、殺すことはしませんでした。うっかりアミにかかったカケスを、忘れたまま放っておくと、アミから逃れようとしてあばれまわり、飛び跳ねて頭を傷つけてしまい、血を出したりします。

「おまえ、バカだなあ、……腹いっぱい食べたら、好きなところへ飛んでいけ!」といって、アミから出してやります。

べつに鳥たちに感謝されなくても、生き物を助けることは、なんだかとても気持ちのいいものです。

あれは危険だなんて、鳥たちはおもわないのでしょうか、つぎつぎとやってきます。そばにいるボルゾイ犬も、それをじっと見ていても、知らん顔。

「おまえ、知らせろよ!」といっても、ちっともいうことをききません。何の関心も示さないのです。

わが家ではニワトリを飼っていたので、ニワトリに悪さをする野犬を追い払うのがやつの仕事で、鳥という鳥には、いっこうに見向きもしません。

ナターシャがやってくると、可愛そうだから、カケス獲りはもうやめなさい、といって叱ります。彼女が機嫌のいいときは、家からヨードチンキの小瓶を持ってきて、カケスの傷ついた頭につけてやります。羽も傷ついているとかいって、そこにも塗り込みます。

夏になると、天気のいい日には、みんなで川に泳ぎにいきます。

たいていは近くの恵岱別川に行くのですが、村の近所の仲間たちといえば、男はぼくとふたりきりで、あとはぜんぶ女の子。6、7人あつまるとみんなで泳ぎにいきます。恵岱別川の向こう岸に渡る浅瀬があって、そこらを渡渉するとき、ちっとも怖くはないのですが、ちょっと増水していると、女の子たちは怖がります。

そういうときのために、大人たちがつくった大きな木の幹に巻いてしばった太いロープを引き出して、それをたよりに渡ります。

男ふたりがロープを引っ張ってきて、ひとりが向こう岸に渡り、ロープを引っ張って、女の子たちはそのロープを伝ってひとりひとり渡りきります。

全員が渡りおわると、黒い大きなバッタがぴょんぴょん跳ねる小石のあるところを歩きます。そこを出ると、砂でできた洲のある広い場所にたどりつき、そこの茂みのあるところにビニールの敷物を敷いて基地をつくります。

この砂場は、年々姿を変え、春の急峻な濁流がいっぽうの川岸をけずり取り、川は大きく蛇行していきます。

そのあとには、広い砂場がつくられます。

そういう砂場の手ごろなところに基地をつくります。なんだか儀式めいていますが、女の子は女の子の、男の子は男の子の基地をつくります。ぼくらは何も知らない子供だったのですが、小学生ともなると、男女のけじめをつけ、だれがいうともなく、男女は別々の基地をつくっていました。

たぶん、女の子はそこで着替えをするので、――着替えといっても、海水パンツに着替えるのではなく、泳いだあと、乾いたズロースに履きかえるだけの話ですが、そのための基地です。そのために、女の子の基地にはからだを隠す茂みが必要なのでした。男の子のほうは、何もありません。だいたいぼくらはフルチンで泳いでいましたから、隠すようなものは何もなかったのです。

だれかがおにぎりなんか持ってくれば、目ざとく察知したツツドリに、狙われます。もしかしたら、ツツドリには興味はなかったかもしれませんが、ホホーッ、ホホーッと啼くツツドリの声をそばで聴いていました。あれは、欲しがっている証拠だ、とみんなはおもっていました。

近くには流れてきた大きな流木があって、へんな形をした流木の先にトンボが数匹とまっていたりします。トンボは、ぼくらの2メートル上空を、すいすい滑降しています。まるでスキーで雪山をすべるように、1メートルほどまっすぐに飛んだかとおもうと、飛ぶのをやめて、上空でホバリングして、ぼくらのやることをじろじろ見つめています。

喋々が、あっちにひらひら、こっちにひらひらして、草花の蜜を求めて、ぼくらのようすをうかがっています。それにしても、蝶の飛行は巧みだとおもいます。予測のつかない妙な飛び方をしています。いつからあんな飛び方をするようになったのだろうとおもいます。

ときどき女の子の基地のほうから、叫び声が聴こえたりします。

毛虫を見つけたようです。

よく見ると、カゲロウの幼虫だ。カゲロウの幼虫は水のなかでも暮らします。葉っぱの上にいることもあります。ちっとも怖くないのですが、女の子には怖いのです。濡れた石ころを転がすと、そこに幼虫がへばりついしていることがあります。この幼虫は、たぶん息子には興味ぶかい生き物でしょう。ぼくには、これといって興味はありませんでしたけれど。

それには、よーく見ると、小さな小さな不透明で奇妙な目がふたつくっついています。平べったくて顎もあって、一見して獰猛な生き物のような面構えをしています。カゲロウが脱皮すると、鳥の翅(はね)みたいなものができて、魚の大好物の餌になります。

だから、釣り人がよく毛バリを使うのは、この成虫を模したものだとわかります。ぼくは釣りをやらないので、人から聞いた話ですが、その翅のモサモサしたモノが水のなかに漂うと、魚たちは黙っていないのでしょう。

そんなことは、そのときは何も知りませんでしたが、女の子たちの怖がる、ちょっとした奇妙な生き物をつかまえたりしたものです。女の子のまえでは、男の子らしく、勇気のあるところを見せたりして、さわいでいました。

大きな石を動かすと、湿った地面の下から、さまざまな見たこともない小さな生き物が出てきます。やつらは、ぼくらとは別の世界に生きている生き物で、こんな湿っぽい場所でも、眠ることができるというのは、ぼくにはふしぎでした。彼らは、巨大な石で、下敷きになったまま生きているのです。そこは、とても極楽とはおもえませんでした。

川のふちで暮らす水鳥たちが、トンボをくわえて飛んでいく姿も見ました。ならば、天敵の水鳥のいないところへ行けばいいのに、住む世界はいっしょなんです。静かに流れる水面、その茂みのあるところは水の色が変わって見えます。茂みのないところは、明るく抜けたように澄んで見えます。その水面を、すれすれにトンボが飛んでいます。水に、トンボの姿が鏡のように写っています。何を探しているのだろうとおもいます。

トンボは、見あきるほどいました。小さな水鳥も、つぐみも、カッコウも、見れば見るほど、きれいな衣服につつまれています。ビロードみたいにきれいで、光のかげんで、いろいろな色に変わる羽につつまれ、彼らの一張羅の服は、夏も冬もそれで通すことができるオールシーズン用の衣服なのです。暑くないのだろうか、とおもったり。

鳥たちは水を浴びても決して濡れたりしません。その目は小さく、落ち着きなくきょろきょろしていますが、人間の目のように、あまり瞬きをしないので、人工的なビー玉みたいに見えます。大きな鳥でも脚はほそく、とても俊敏です。

「フクロウの首、くるっと一周するってほんと?」

むかし、小学校の先生が、フクロウの話をしてくれました。

でも、いくらフクロウでも、それはムリ。いまならそういえますが、そのころは、フクロウの首は、くるっと1回転できるとほんとうに信じていました。

フクロウの首が、左右それぞれ270度もまわるのは、人間とちがって、眼球が人間みたいに動かないからだとだれかがいっていました。人間の視野はおよそ170度といわれていますが、フクロウは110度しかないそうです。それも、ぼくには信じられない話です。

あのときの先生は、間違っていました。

いまさら気づいても仕方ありませんけれど、……。

ぼくらの村は、田園に囲まれた静かな村で、玄関にはどこの家にも鍵がなく、よそ者が襲ってくる気遣いもなく、村の子供たちはみんなの子供たちで、知らないおじさんにいろいろなことを教わって大きくなったわけです。夜になってもまだ遊んでいると、

「おまえ、そろそろ帰れよ!」と、声をかけてくれたものです。ぼくは、あのころの村が大好きです。いまはもう、おもい出すだけになりましたけれど、……。