べてはえてゆくのだから」

 ローランス・タルデュー「すべては消えてゆくのだから」(赤星絵理訳、早川書房、2007年)。

 

なんとなく図書館から借りてきた本を見ていたら、装丁のきれいな小説本があった。

装幀は水戸部功氏。きれいなカバーデザインだ。水戸部功氏の手になる装丁本には、格別の興味がある。45歳。

作者のローランス・タルデューは知らない。1972年マルセイユ生まれと書かれている。49歳。「すべては消えてゆくのだから」(赤星絵理訳、早川書房、2007年)をはじめて読んだのは、たぶん10年前だろう。。

 

 僕は、もう会わないと誓ったかつての妻

 ジュヌヴィーヴから手紙を受け取った。

 「ヴァンサン、私はもうすぐ死ぬの、

 会いにきて、もう一度だけ」

 車に飛び乗り、

 猛スピードで高速を駆ける僕の脳裏に、

 次々と想い出がよみがえる。

 出会いの頃の幸せな日々。

 旅行で訪れたイタリア。

 一緒に住んだ狭いアパート。

 そして、僕たちの一人娘クララ。

 八歳だったクララ。

 僕たちの運命が濁流に

 呑みこまれる原因になった、

  最愛の娘のことを……。

 

 

 ローランス・タルデュー。

 

 ここには大いなる喜びと悲しみが書かれている。

主人公のヴァンサンは、辛い記憶を掘り起こす元妻ジュヌヴィーヴにおびえながら、なにかに突き動かされるように彼女のもとへと駆けつける。ついにジュヌヴィーヴと再会。はじめは思い出話を避けるようにして身を堅くしていたヴァンサンだったが、死をまえにして、静かに語る彼女にすこしずつ心を開いてゆく。だんだんとこれまでの苦しみから解き放たれていく。

しかし、最後はあまりの哀しさに、この本を読む人はきっと耐えられなくなるだろうとおもう。中身を説明することはしたくない。

ぼくにとっても、これは他人事ではない。

ぼく自身にも過去に苦い思い出がある。それはべつの機会、――たとえば、もうすこし時間がたって、自分の物語を書くときがやってきたら、静かに語りたいとおもっている。

人間というのは、過去を背負っているものだ、とおもう。

いろいろな過去を背負っている。そのなかで人に一度も語ったことのない過去も含まれるだろう。多くの人は、一度も語らずにこの世を去る。ぼくの父が数年前に語った物語は、戦争の話だけじゃなかった。戦時のどさくさのなかで偶然のようにして結ばれた母。そしてぼくが生まれて、小学校にあがるころ、父はロシア人の娘を雇った。母が結核性の病気になり、ずっとベッドで寝ていたからだった。

彼女は子守りの女の子だったが、わが家になつき、寝たきりの母の世話や子供たちのめんどうをみながら、家族全員の食事の世話をしたり、洗濯の仕事に精を出した。

父はそんな彼女と、いつの間にか、できてしまった。きっとそうだ。

ぼくが大学を出て、成人したころ、父はぼそりといったのをおぼえている。彼女の嫁入りの労をとりながら、その魅力に負けてしまった、といったのである。

彼女はわが家に8年いたが、彼女が23歳ごろ、いきなり解雇してしまった。ペニシリンを打った母が病気を克服し、働けるようになったからだった。しかしそれは表向きの話で、寝たきりの母は、父が何をしているか、ちゃんとわかっていたのだ。

だから母は、彼女をいきなり解雇したのだ。――と、ぼくはおもっている。

長男のぼくが中学2年生になる年の正月、「いままで、ご苦労だった」といって、父は彼女に給金に入った封筒を手渡しながら、見たこともないような引き締まった顔つきで、父は頭を下げた。

父の書いた物語は200枚ほどの文章だが、そのなかに、彼女の話はほとんど出てこない。まるで避けるようにして書かれている。100歳になっても、父の記憶は鮮明で、何もかも、ちゃんと覚えていた。母が亡くなっても、父は一向にナターシャのことを語ろうとしない。

そういう父を見ていて、自分もきっとそうするかもしれない、とおもった。

ぼく自身、なんという、やましいことだらけだったのだろうと、自分をおぞましくおもうことがある。ひとつやふたつ、人にはいえない過去があっても当然かもしれないとおもった。

小説に出てくるヴァンサンの物語は、なんら自分と変わっていないとおもった。

おもい出すこともなかった自分の過去が、この小説を読んで、怒涛のように、つぎつぎに想い出されてきた。人が生きるっていうのは、なんという罪づくりなことなのだろうとおもった。いまさら、自分の不明をわびても仕方のないことで、もうとうに過ぎてしまった話である。そういう意味で、この本を読んでも人ごとではなく、自分自身の過去の不明をおもい知らされるのである。

2022年元旦を迎えた。妻とテレビを見ながら、漠然とそんなことを想い出していた。