父は「分でめろ!」といった。

ぼくはかなり年をとってから、北海道のふるさとに帰って眺めた風景は、とても美しいものだった。バスのなかから見た田園の風景は、見慣れた風景なのに、なぜかよそよそしく感じられた。

ぼくは、そこに寄りつかなくなって、50年がたっている。

50年は、ほんのひと時のようにも感じられ、はるか遠い時間のようにも感じられ、その50年間は、そのときのぼくには、100年にも感じられた。

55年まえ、北海道のいなかの家の花畑には、ひまわりが咲いていた。母の好きなひまわり。放し飼いにしていたニワトリたちが、玄関先のパドックを遊び場にして、あちこちに群れていた。ひまわり畑に隠れるようにして地面をついばんでいるやつもいた。

パドックには、彼らのお目当てのご馳走がいっぱい落ちていた。ときどきカケスがやってきて、先取りされていく。

「おーい、ハシゴをかけてくれ!」と父がいった。

父は鶏舎の屋根にのぼり、トタンを張り換えていた。こんどは、妻側の屋根のエッジ部分のトタンを張り換えるという。ぼくは大きなハシゴを持っていき、屋根のケタ方向に立てかけた。

「そこじゃない。こっちだ!」といっている。ハシゴを足場にして張り換えるらしい。そこは小屋組みの、屋根のてっぺんに近く、ちょっと危険なところだ。重いハシゴを移動し、父のいうところに立てかけた。

そうだ、そこだ! 

といって、ハシゴの桟に両足を乗せると、トタンを張り、エッジのふくらみを金づちでトントンと叩いて、軒板の上までじょうずに張り渡した。

「ぼくにもやらせて!」というと、

「やめておけ!」といい、そして「見ておれ!」といった。ぼくは首が痛くなるまで父のやることを眺めていた。

2013年、101歳でこの世を去った父のことを少し考えた。

「おまえは、東京へ行け!」

父は、そういってぼくを東京の大学に送りだした。

それから数年たって、こんどは、

「おまえは、イギリスへ行け!」といって、父はぼくをイギリスの大学へ送りだした。父は「これからは、自分で決めろ」といった。

考えてみれば、父は恋愛も結婚も、戦争のために自分で決められない時代を生きた。

母のすぐ上の姉は、札幌で事業家の家に嫁いだ。

子供ができず、ぼくが遊びにいくと、おばちゃんたちは喜んでいた。ぜひ進学しなさい、資金はおばちゃんがみんな出してあげるから、……と約束してくれた。

「大きな援助は、返せませんよ」というと、

「いいのよ。あなたが事業をして、返せるようになったら、ほかの人に援助してあげて。そのころには、おばちゃんたちはもういなくなるから、……」という。

ふーん、そういうものか、とおもって父に訊くと、「おばちゃんがそういったのか?」と父は訊いた。

 

 

佐渡に向かう船の中で。

ぼくは、ずっとまえ、――平成10年ごろのことだが、――父が書いた「自叙伝」の原稿の一部をコピーして読んだことがある。北海道に帰省したときにコピーして持ち帰ったのは、原稿用紙にして70枚ぐらいのものだった。

それによると、母との出会いや、ぼくが誕生したころの話、3人の子守りの女の子たちの話などが書かれていた。

母が結核性肋膜炎でながいあいだベッドで臥せっていた。

母ははたらくことができなかったので、家にはいつも子守りの女の子がいた。いずれも彼女たちの名前は書かれていない。

最後にいた子守りの女の子は、日本人とロシア人のあいだに生まれたハーフの女の子だった。彼女はサハリンで生まれ、日本人の引揚げ者といっしょに北海道にわたってきた女の子だった。

当時、サハリンからの引揚者は100万人を超えていた。

日本人妻のある家族は、ロシア人の夫とともに北海道へ渡ってきた。ナターシャは、ぼくより8つ年上だった。彼女の父親はロシア人で、軍の事務局で働いていたらしい。北海道にわたると、ニシンなどの行商をしていた。

ぼくが8歳のとき、彼女が子守りの女の子としてわが家にやってきた。

ぼくの下に弟がふたりいた。生まれたばかりの弟は、ナターシャの背におぶさって母のおっぱいを吸っていた。

――わが家は、北海道の雨竜郡北竜村という農村地帯にあった。父は、旭川第7師団から満州(長春)の戦場へと駆り出され、戦時中は、母がひとりで家の切り盛りをしていた。秋田、青森方面から出稼ぎの季節労働者が北海道に渡ってきたので、母はそういう彼らを雇って、田畑を耕していた。

父が帰ってきたのは終戦の年の暮れだった。

ぼくはすでに生まれていた。いまおもい出しても、むかしの写真を見るように、ぼんやりとして何も覚えていない。自分がまだ幼かったころの記憶は、ほとんど消えている。

わずかにおもい出すのは、本家のばあさんのことだった。父のいない家には、おそらくばあさんが母のめんどうをみていたに違いない。

ナターシャには野良仕事をさせなかった。家の切り盛りのすべてを任せていた。母のめんどうや、弟らの子守り、食事・洗濯など、彼女には休みというのはほとんどなく、家族のように暮らしいていた。

ぼくが小学校6年生のとき、馬の世話をして、馬を自由にまかせてくれたことが嬉しかった。農家も農閑期になるとヒマになり、せいぜい田んぼの草取りをするくらいで、ぼくはあちこちに馬を連れだして、馬とともに過ごした。

そのころの夏は、恵岱別川で釣りをしたり、馬の脚を洗ったりして、父と偶然、川原の土手で出会うことがあった。なぜか、そばにナターシャがいた。彼女は、夏には浴衣を着ていた。

「おれはきょう、休暇をとる! おもえたちは家にいろ!」

そういって父は、ナターシャを馬に乗せると恵岱別川に出かけた。

ナターシャは父よりも背が高く、たぶん170センチはあったろうか。ブルネットのヘアをしていて、目は茶色っぽかった。肌は白く、お尻の大きい子だった。その子が馬に乗ると、あぶみに乗せた父の足より、彼女の脚が長く見えた。

彼女は背が高いので、母は彼女に和服を着せていた。

おそらく彼女のサイズに合う服はなかったのかもしれない。和服や浴衣なら、背丈に合わせることはかんたんにできる。よく母の履いている下駄を、気に入って履いていた。

浴衣のすそが割れて、彼女の白い太股が見えたりした。ふたりを乗せた馬は、農道を歩いていった。

恵岱別川に向かう農道は、水路に添ってまっすぐに伸びていて、途中に小豆川があり、その橋にかかる水路は、板でできた樋になっていて、真ん中に調節弁がついていた。あまった水は、調節弁を開いて水を川に放流していた。

そのあたりにはイタドリが群生していて、水は深く、ときどきそこでみんなと泳いでいた。父はナターシャを誘って、そこでひと泳ぎするつもりだったのかもしれない。

 

古関裕而作曲の「長崎の鐘」。

ある日、ぼくは川にすべり落ちた。

川はそれほど深くはなかったけれど急流で、押し流されそうになった。ぼくはうしろから彼女の浴衣の帯をつかんで、しがみついていた。

お姉ちゃんが、川に流される! お姉ちゃんがおぼれる! とおもって、ぼくはお姉ちゃんの浴衣の腰にしっかりしがみついていた。ぼくは、少し水を飲んだ。ふたりは流されてコンクリートの護岸のある壁につかまった。

真上に用水路の樋(とい)のあるところだった。

樋から水がぽたぽた川に落ちていた。木々のあいだから洩れてくる朝日が、いくつにも散らばって見えた。お姉ちゃんは、護岸の壁が尽きたあたりにある柳の小枝につかまった。そこは木の茂みの影で薄暗くなっている。

彼女は、ぼくの腕をしっかりつかんで、「ゆき坊、がんばって!」と叫んだ。

お姉ちゃんは、片手で自分の浴衣の帯を解くと、それをぼくのからだに巻きつけた。そして、川岸をよじ登っていこうとした。お姉ちゃんのお尻がゆれて、からだがぼくのうえにずり落ち、ふたりとも川に背面から音をたててすべり落ちた。

水の中に沈んだ耳のなかで、お姉ちゃんの叫ぶ声がぼんやりと聞こえた。水の中は別世界だった。これが魚の世界なのかと、ぼくははじめておもった。

水のなかで、太陽が見えた。

きらきらして、まぶしいくらいだった。

彼女は柳の小枝につかまり、べつのルートを探してよじ登っていった。丈の短いクマ笹(ささ)がたくさん生えていた。ホウの木やクマゲラが好きそうな橅(ぶな)の木があった。ロロロロロと聞こえるクマゲラのドラミングの音は、このあたりでしていたのかもしれない。お姉ちゃんは、土手にあがると、笹を掻きわけて農道のほうに歩いていった。

父が向こうから歩いてきて、いきなりナターシャの頬を打った。

「おまえたち、川で何をしていたんだ。おまえたちの姿が見えたので、きてみると、これだ!」と、父はいった。父は中国の戦地で戦ってきた機関銃兵だったから、叱り方が怖かった。帯をつけない、ぬれたままの浴衣着のお姉ちゃんは、見たこともないほどきれいだった。ブルネットの髪がぬれて、顔じゅうに張りついていた。

「おまえは、帰って馬に餌をやれ!」と、父はいった。それからのことは、ぼんやりとして、何も覚えていない。ぼくら3人兄弟の子供時代は、戦争のない、とても幸せな時代だった。

食事をしながら、よく妻ヨーコにいっている。

「弁当を残すなんて、彼女に叱られるに決まってる!」

だから、弁当箱は、いつもカラっぽにして持ち帰るようにしていた。父が上機嫌になると、たばこを吸いながら、ヴァイオリンを弾いた。お酒はあまり飲めなかった。

夜、大勢の来客があると、ギターとヴァイオリンの共演がはじまった。古関裕而さんの「長崎の鐘」や東海林太郎さんの「国境の町」など。

中学生の自分もヴァイオリンを弾き、みんなで歌なんか歌っていた。なつかしいなとおもう。みんなさよならもいわずに、いつの間にか鬼籍にひとりずつ入っていった。