■文学――

もいないテルで」。

どういえばいいのだろう。

ついさっきまで読んでいた小説は、レジナルド・ヒルの「死は万病を癒す薬」につづいて書かれた「ダルジール&パスコー」シリーズ長編22作にあたる傑作本で、つまり、――音響効果がすばらしいという話である。単にすばらしいだけでなく、

「古いオルガンだっていいフーガをたくさん演奏できる。肝に銘じておくんだな」ダルジールは文句あるかといわんばかりに二人をねめつけた、と書かれている。つまり、S・バトラーの「世の常道」の一節「古いバイオリンが奏でる名曲は数多い」の部分を読み上げていっているのだが、その意味は、「老人もそれなりにいい仕事ができる」という意味なのだと、本文内では( )でくくられて書かれている。

例によって、レジナルド・ヒルの「午前零時のフーガ」の第4部最後のセリフ、その松下祥子さんの訳はすばらしい。

422 ページのその本を読み終わって、つらつら考えに耽っていると、時計の針が、午前2時40分を過ぎてしまった。

きのうもそうだったが、きまってぼくは、デスクの上にある原稿用紙をひろげ、――あるいはまた、コーヒー店で本を読み終えたとき、コーヒーカップをずらして、そこに原稿用紙と文鎮をおき、何か書き始める。

 

 ペーター・シュタム「誰もいないホテルで」(新潮クレストブックス、2016年)

 

万年筆でおおぶりの文字で書きはじめる。たいていは手紙だ。手紙というのは差しだす相手がいる。ところが、ぼくが書く手紙は、いつも書きながら、真ん中あたりで、だれに出そうかと考える。だから始末がわるい。

ある人に、200字詰め原稿用紙に300枚ほど書いて送った。

それから何かのついでに、その人と会ったとき、

「なるべく、10分で読めるものを」と注文をつけられた。そりゃあそうだろうと考える。それ以来、その人に出す手紙は、ぐーんと短編のような小粒になった。

書いてしまったものは、もう書きなおせない。――先日、須賀敦子さんの手紙を読んだ。読んだというのは、彼女の手紙集が1冊の本になって出版されたからだった。すばらしい手紙だった。

それはそれとして、1冊にまとめられた小説というのは、最初の数行を読むと、だいたいの傾向がわかる。だから、ぼくはいつも手に入れるときは、最初の1ページをかならず読む。長編であろうが、短編であろうが、おなじだ。

たいていの作家は、冒頭の1ページに、ありったけの才能をぶつける。だから、ときに才走って、読みたいとおもわなくなることもある。すぐれた、こころに残る小説は、みんなに推奨したくなる。

たとえば、ドイツの作家、ペーター・シュタムは、1963年生まれの54歳。ちょうど油の乗り切った気鋭の作家だ。彼の顔がそれを証明している。20年ほどまえから、長編、短編をいろいろ書いている。また彼はラジオドラマの脚本家でもあるという。ディビッド・ゾベティさんみたいな人か、とおもえる。彼も58歳。

ディビッド・ゾベティさんはスイス生まれだが、小説はちゃんとした日本語で書く。彼とは、某テレビ局で毎週のように会っていた。ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、日本語の5か国語に通じるマルチリンガルである。視覚障害女性を描いたフィクション「いちげんさん」は、すばらしかった。直木賞にノミネートされた。

ペーター・シュタム(2012年)。

 

さて、ペーター・シュタムのほうは、英語版の短編集「We're Flying」は、フランク・オコナー国際短編賞にノミネートされたり、ラウリーザー文学賞や、ラインガウ文学賞、ヘルダーリン賞などを受賞している作家で、日々の平穏ななかで、それを揺るがす出来事を描き、それに向き合う人びとの驚きや、悲嘆、歓びを、じつに丹念に、じつにこまやかに描いている。

この描き方は、先のディビッド・ゾベティさんのフィクションと見まがうほどである。あるいは、米の作家レイモンド・カーヴァの視点と似ているかもしれない。中ほどで、時をへてつづきを読んだりすると、レイモンド・カーヴァの小説を読んでいるような心地になる。それはぼくだけではないかもしれない。

で、先日読んだ「誰もいないホテルで」(松永美穂訳、新潮クレストブックス、2016年)は、力こぶの入った佳品ぞろいで、いずれも短編だが、きっと米の作家レイモンド・カーヴァのファンなら、手に取って読んでいるかもしれない。

タイトルがいい。

「誰もいないホテルで」というのだ。原文は「ゼーリュッケンSeerūcken」というのだが、これは地名で、「訳者あとがき」によれば、スイス北東部のドイツとスイスの国境にある丘陵地帯。作家は、このゼーリュッケン地方のシュルツィンゲンというところで生まれたという。

そういうわけで、彼はふるさとでの出来事を描いているというのである。だれも知らない地名をタイトルにしても、日本の読者にはわからない。そういうわけで、第1章の「誰もいないホテルで」をタイトルカバーに使っているというわけである。ブックカバーの良しあしで、けっこう購買訴求のパワーを発揮することがあるようだ。ぼくもその口だ。

これは図書館で見つけた本なのだが、「誰もいないホテルで」という、控えめで、こぢんまりしたタイトルがちょっと寂しげで、とても気に入った。

ホテルなのに、だれもいないのか、とおもった。

 

一人でいらっしゃるの? その女性は電話口でもう一度尋ねた。彼女の名前は聞き取れなかったし、どの地方の訛りかも判断できなかった。ええ、とぼくは言った。静かに仕事できる場所を探しているんです。彼女は笑ったが、その笑いはいささか長く続いた。それから彼女は、何の仕事をするかと尋ねた。執筆です、とぼくは言った。何を執筆なさるの? マキシム・ゴーリキーについての論文です。スラブ文学の研究者なので。彼女の好奇心に腹が立ってきた。あら、そうなの? 彼女は言った。彼女は一瞬、ためらったようだった。そのテーマが自分にとっておもしろいかどうか、よくわからないみたいに。いいわ、とようやく彼女は言った。いらしてください。道はおわかりですね?

ペーター・シュタム「誰もいないホテルで」より

 

近くまで行って、ようやくアナが見えた。ぼくは彼女の隣に座って、夕日の最後の光を楽しんでいるんですか、と尋ねた。長い冬ですからね、とアナは目を開かずに答えた。ぼくは彼女を観察した。眉は異常なほど幅が広く、鼻のかたちもかなり独特だ。唇の薄さが、表情に厳しさを添えていた。彼女は両足を折り曲げていて、スカートがちょっとだけめくれていた。ブラウスの一番上のボタンは開いていた。ぼくのためにわざわざそうして横になっているのではないかという考えが、頭から離れなかった。

すると彼女は目を開け、ぼくの視線をぬぐい取ろうとするかのように、額の上で平手を動かした。ぼくは咳払いしてから、シャワーが使えません、と言った。あら、お話してなかったかしら? トイレの水洗もダメですよ。臨機応変でやってください、と彼女は感じのいいほほえみを浮かべて言った。少なくとも、雪はもう消えたんですから。ここでは観光シーズンはいつ始まるんですか? ぼくは尋ねた。それはいろいろな要素によりますね、と彼女は答えた。ぼくたちはしばらくのあいだ、隣り合って黙って座っていたが、彼女は体を起こし、洋服の乱れを整えて、あなたは静かにお仕事したかったんですよね、と言った。それはもう、どうだかわかりませんね、と言った。夕食は七時からです、と彼女は言い、立ち上がると姿を消した。

ペーター・シュタム「誰もいないホテルで」より

 

部屋の甕の水がなくなってからは、ぼくもアナと同じように毎朝、小川で体を洗うようになった。彼女が戻ってくるのが見えるまで、食堂で待っている。それから外に出ていくのだった。岸が平らで、水が静かに流れているすてきな場所を見つけた。軟らかな土の上に濡れた足跡を発見して、アナが水浴びに来ているのも同じ場所だろうと想像した。氷のように冷たい水に顔を突っ込むと、頭が爆発しそうに思えたが、そのあとは午前中ずっと爽やかな気分が続くのだった。ただ、小川の流れる音が気になりはじめた。音を避けることはできなくて、ホテルのなかにいても小さく聞こえてくるのだ。ぼくはずっとアナのことを考えずにはいられなかった。一日中、ぼくたちは落ち着きなく互いの周囲をぐるぐるとまわり、ぼくたちのうちのどっちが相手を追跡しているのか、わからなくなることもしばしばだった。

ペーター・シュタム「誰もいないホテルで」より

 

午後まだ早い時間に,車が入ってくる音がした。窓から見てみると、古いボルボが車寄せに停まり、男性が二人降りてきた。一瞬隠れようかと思ったが、ぼくはそのまま座って本を読み続けた。一時間ぐらい経ったころ、退屈して推理小説を脇に置いたところで、両開きのドアが開き、二人がなかに入ってきた。彼らはぎょっとした様子でぼくを見つめ、一人の男がぼくのあいさつを無視して、ここで何をしているんだ、と尋ねた。本を読んでいるんですよ、とぼくは言った。どうやってここに入った? と男は訊いた。ドアからですよ、とぼくは言い、立ち上がった。ここに泊まってるんです。湯治場は去年の秋から閉まってるんだよ、とその男は言った。オーナーが破産したんだ。この建物は一ヵ月後に競売にかけられる。

ペーター・シュタム「誰もいないホテルで」より

 

――まあ、そういう展開の小説なのだ。改行が少ないのが気になった。

筋のこの先はいえない。興味のある人は、この先を読んでいただきたいとおもう。ちょっとミステリアスだけれど、ミステリーではない。