■映画。――

映画「生門」、衝撃の0周年記念グランプリを受けたとき。

京マチ子さん。

 

きのう、ヨーコは越谷の友人あてに、手紙を書いた。

ヨーコはいつも、じぶんあてに、手紙のようなものを造作もなくすらすらと書いているのに、季節のまくら詞(ことば)をどう書いていいか、しばらく迷っているようすだった。

そこで、「はやり雨の降る季節となりました。いかがお過ごしでしょうか」という文例を書いて見せた。「はやり雨って、……そんなイキなことば、お父さん、だれにもわからないわよ」とヨーコはいう。

驟雨のことを「はやり雨って、いうんだ」といっても、よくわからないという。ざーっと降って、ぴたりとやむ雨。英語ではa sudden showerという。

驟雨は、夏の雨で、いよいよ秋になるという寒い季節に夕立ちのように降る雨のことである。季語としては夏だが、ほとんど秋の雨といっていいだろう。

むかしの陰暦では、夏は4月から6月までをいい、8月の盆を迎えたらもう秋たけなわ、冬を予感する季語だった。立夏から立秋までを夏と呼ばれていた。――ところが現在は、天文学的にいえば、夏至から秋分までを夏という。

秋は秋分から立冬までをいう。陰暦から現在の太陽暦に変更されたのは、たしか、明治5年の12月であったとおもう。この季節は、台風や前線の影響でとつぜん雨が降る。

かとおもうと、とつぜんぱーっと晴れ渡る。

天気は微妙に変わりやすいので、「秋の空」は、おんな心とかけて、いろいろ移ろいやすい心境をあらわすことばになった。

「女ごころと秋の空」とか。

ふつう「はやり雨」は「驟(はや)り雨」と書く。愁雲(しゅううん)ということばもある。これは、ある意中の人を雲に託して思いえがく、秋の切ない状態をいうらしい。漢字の「愁」のなかに「秋」という字が書かれている。そのまま読めば、秋のこころである。そうはいっても、こんなことば、いまどき使っても、ヨーコのいうとおり、だれにも分からないかもしれない。

雨が降れば、「秋の大水」ともなる。それを「秋出水(あきでみず)」といった。高浜虚子の句に「音も無く殖えて悲しや秋出水」というのがある。

または「秋の契り」ともいう。文字どおり秋に会おうという約束の意味もあるが、それもほとんど男女の約束を意味する。「秋」を「飽き」にひっかけて、さめてきた男女間の情愛をいう。今朝読んだばかりの新聞の旬の俳句は、

 

「向日葵の実はうんざりしてをりぬ」(栃木県 あらゐひとしさん)

 

という句だった。もう一度読んでみる。ははーん、「実は」を、「じつは」と読んでみると、おもしろいじゃないか! とおもった。「お父さん、何かおもしろいこと、あったの?」とヨーコがきいている。

さて、こういう話をすると、亡くなられた京マチ子さん(95歳)の映像が脳裏に浮かんだ。――「痴人の愛」(1949年)、「羅生門」(1950年)、「雨月物語」(1953年)など、じぶんにとって、なつかしい映画だったなと想いだされる。

「羅生門」は、いつだったか、脚本家の橋本忍さんが、テレビのインタビューで話しておられた。映画がつくられた翌年、ベネチア映画祭に出品し、グランプリを受賞した。橋本忍さんはその話を聞いたとき、

「グランプリって、何や?」と、おもったそうだ。

「羅生門」が、ベネチア映画祭に出品しているなんて、橋本忍さんは知らなかったそうだ。

橋本忍さんは、「羅生門」で、プロの脚本家としてスタートを切ったのである。そして、ベネチア映画祭の創設50周年にあたる1982年、これまでの「グランプリ作品」のなかで、もっとも優れた作品として、「50周年グランプリ」が発表された。それは黒澤明の「羅生門」だったのである。このことは、あまり知られていないかも知れない。

京マチ子さんが亡くなられた2019年5月12日のおなじ日に、「ケ・セラ・セラ」の米歌手・女優のドリス・デイさん(97歳)も亡くなられた。先日、おなじ映画人の淀川長治さんの話を書いたら、LINEに、出会ったことのないある人から、「見ていますよ。……」とだけ書いたことばが届いた。

いまは、季節の手紙ではなく、SNS((Social Networking Service))でやりとりする時代になった。利用者同士が交流できるWebサイトの会員制サービスのことだ。じぶんも絵の仲間たちと、これを使って交流している。

ぼくはたぶん、伊丹万作氏の映画を観ていない。

どういう映画をつくっていた監督なのかもよく知らない。15年ほどまえ、「橋本忍 人とシナリオ」を読んで、ぼくはえらく感動した。

作家志望のIさんに会ったとき、橋本忍の本を読んだことがないというので、その「羅生門」が載っている「橋本忍選集」(全3巻)のうちの一冊を差し上げてしまった。その巻には名作「切腹」も載っていた。ちゃんと読んでくれたかどうかわからない。

じぶんが読んだ資料は、その他「橋本忍 人とシナリオ」、「脚本家・橋本忍の世界」の2冊だけである。「橋本忍 人とシナリオ」は、日大芸術学部映画学科のテキストにもなっているという話を、聞いたか読んだかしたことがある。

橋本忍さんは、1918年(大正7年)、兵庫県神崎郡鶴居村で生まれている。1934年、尋常小学校を出ると、国鉄に入り、鉄道教習所を経て播但線で駅の勤務を5年ほどして応召。鳥取歩兵40連隊に入隊し、中国戦線に配属されたが、肺結核を発病して永久服役免除となり、傷痍軍人量要所に入り、レントゲン検査では余命2、3年と宣告された。

橋本さん自身、それを覚悟していたらしい。

ところが、病状は予想に反して悪化しなかった。橋本さんの結核は、意外にも浅かった。肺のレントゲン写真だけを見ると、「この人はいつ亡くなられたんですか?」ときかれるほどひどかったらしいけれど、中のほうまで病巣が広がっていなかった。

そして、1942年、橋本さんは自然退所し、ある民間企業に就職した。療養所にいたころからシナリオの勉強をし、伊丹万作に作品を送って批評を受けていた。2週間に1本の割で、作品をつぎつぎに送りつづけていた。

やがてふたりは会う。

伊丹氏は、自宅の和室の床のなかで、結核の療養をしている自分の枕元に橋本を呼びつけ、橋本さんの脚本を読む。そして、批評する。伊丹氏の批評は一字一句おろそかにしない。はじめは同病者の共感からコメントしていたが、すぐにも橋本さんの才能を見抜き、弟子として遇した。この伊丹万作氏から直接指導を受けたのは、橋本忍さんただひとりである。

「きみは、口達者だから、プロデューサーになったほうがいい」といわれた。だが、橋本さんはプロデューサーにはなりたくなかった。ならばと思い、力作を書いて、また伊丹氏の家を訪れた。

伊丹氏はそれを読む。

「きみには、文才がある。原作物をやってみろ」といわれた。この話を聴いた翌月の1946年9月、伊丹万作氏はこの世を去った。この伊丹万作氏の最後のことばにしたがって書いたのが、芥川龍之介の「藪の中」という小説だった。このシナリオ作品は、恩師伊丹万作氏はむろん読んでいない。

そして一年がたち、伊丹万作氏の1周忌の法要が京都で執り行なわれた。その席に、伊丹万作氏の助監督として仕えていた若手映画監督の佐伯清が東京からきていた。伊丹監督の未亡人は、その席で佐伯を彼に紹介し、

「この人は、主人がめんどうを見ていた人だから、これからは、この人のめんどうはあなたが見てよ。うちにある主人のものは全部、あなたに渡しますから、……」といった。

佐伯清は、おなじ助監督仲間として、黒澤明と部屋をおなじくして同居していた。黒澤は、伊丹万作氏から「達磨寺のドイツ人」という脚本をえらく褒められ、それ以来、黒澤は伊丹万作氏にすっかり私淑していた。

「伊丹さんがめんどうを見ていた人ならば、ぜひ読ませてほしい」と黒澤がいった。そういうことで、いままで伊丹万作氏に送りつづけていたシナリオ作品の習作を全部、黒澤に見てもらうことになった。

その結果、「藪の中」を脚色したシナリオが目にとまり、自作のシナリオがはじめて映画になった。それが、黒澤明監督の「羅生門」である。

「羅生門」のひとりの下人が、森の木の幹に寄り掛かってうたた寝しているとき、馬に引かれた女人がそこを通る。下人は目をさます。馬の音を聴いたのではなく、女の匂いがぷーんと漂ってきたからだろう。

太陽の木漏れ日が、男のぎらつく汗を映している。このシーンが忘れられない。

 

映画「羅生門」より。

 

映画「羅生門」より。