■スティーブン・クレインという作家。――
“The Blue Hotel”を読んでみたら。
スティーブン・クレイン。
スティーブン・クレイン(1871-1900年)については、以前にも書いた。先日から、あらためて「The Blue Hotel」を読んできた。
いいなあ、とおもう。
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彼はニュー・ジャージー州の牧師の子として生まれた。
少年時代をニューヨークの片田舎で過ごし、Lafayett CollegeとSyracuse Universityにそれぞれ1年ずつ学び、その後ニューヨークに出て、Herald紙、Tribune紙の記者になり、そのかたわら小説を書いて身を立てようとした。
よく知られている「Maggie: A Girl of the Street(街の女マギー)」(1893年)はそのころ、――シラキュース大学在学中に最初の草稿が書かれた。これは彼の処女作である。
ニューヨークのバワリー地区のスラム街に生まれた娘が街の娼婦に転落する悲哀を書いた。この作品は、いくつかの出版社で刊行を拒絶され、やむなく自費出版されたものである。当時の自然主義の影響を受けつつも、印象的な独自の視点で書かれ、のちにスケッチ風(sketch)の物語を書いた。これをstoryとは呼ばずに、アメリカでは単にsketchと呼ばれている。
批評家ウィリアム・ハウエルズや、アメリカのリアリズム文学に貢献した作家、ハリスン・ガーランドなどの知己を得ると、それらは短編だが、作品にするどい批評性を盛り込んだ作風を生みだした。
最初の「街の女マギー」は、売れ行きはかんばしいものではなかったが、これは虚構ではなく、みにくい現実をありのままに書いたマギーの物語であり、それは当時のアメリカ文学界のW.D.HowellsやH.Garladなどによって高く評価された。市民には見慣れた現実を描いているのだが、ニューヨーカーも、びっくりするほど吐き捨てたい嫌悪感のある現実をとらえ、さすがにそのショックは大きかった。
マークトゥエンから出発した、これまでのストーリーの常識を打ちやぶったのである。
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ニューヨーク。――ニューヨークといえば、ポール・オースターについて何か書きたくなる。ポール・オースター(Paul Auster 1947年~)は、ニューヨークの街をさかんに描いている。
特にブルックリンのあたりを舞台にした好きな小説がある。
彼の作品が日本で比較的読まれている理由は、オースターの表現がアメリカの雰囲気を感じさせ、扱われている土地が日本人になじみの多い場所が多いからだろう、という人がいる。しかも、彼の文章は、過去に遡るようにニューヨークを描くことが多く、あのシャーウッド・アンダーソンのように現在時制では描かず、ひと味違った描き方をする作家である。
ぼくが彼に注目したのは1980年代からだった。
彼の作家としての地位をゆるぎないものにしているのは、なんといっても「シティ・オブ・グラス(City of Glass, 1985年)」、「幽霊たち(Ghosts, 1986年)」、「鍵のかかった部屋(The Locked Room, 1986年)」の3作ではないだろうか。いずれもニューヨークを舞台にして描かれている。
この3作に共通しているのは、ニューヨークに住む孤独な人物が登場し、ふとしたことから、都市空間の迷宮に入り込むというような描き方をしていることだろう。まるで迷子になったかのように、人間の存在感の揺れる物語なのだ。
たとえば、……。
ニューヨークは果てしない空間、出口のない迷路だった。どんなに遠くまで歩こうが、またどんなによく隣人や街路を知るようになろうと、彼はいつも自分が迷子になった気持ちがした。街のなかだけではない。自分自身のなかでも。散歩をするたびに、彼は自分を置き去りにしているように感じた。
(ポール・オースター「シティ・オブ・グラス」より)
――まあ、こんなふうに語っている。
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1962年、ぼくが北海道のいなかから出てきて、銀座の街に住むようになって、世の中を見渡したとき、まさにそんなふうな気持ちがしたのをおぼえている。
当時の日本は東京オリンピックをひかえ、銀座通りの石畳が掘り返され、都電がなくなり、地下鉄工事がはじまって、銀座の通りはいたるところに、つるつるした鉄板が敷きつめられ、その上を歩かされた。雨が降れば、鉄板の上を雨水が流れこみ、危険な道になる。
そのときぼくは、じぶんという一個の存在が、とても小さな存在であることをおもい知らされた。
オースターという作家は、都市を描きながら、ニューヨークは、アメリカのどんな都市とも違う視点で描写している。たとえば、トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出(A Christmas Memory, 1956年)」や「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's, 1958年)」とはちがう描き方をしている。
ヘミングウェイの「日はまた昇る」は、人によれば、観光案内のような描き方をしているという人がいるけれど、オースターのばあいも、シティとしてのニューヨークの都市空間機能、――交通アクセスや、観光名所などがいろいろと登場し、旅行者がながめるような視点で、驚きをもってニューヨークの街が描かれている。
「きみは想像する。このおなじ玉石の上を最初のオランダ人入植者たちは木の靴で歩いた。そしてさらに時を遡れば、だれもいない小路をすすみアルゴンクイン族の勇士たちが獲物を追いつめていったのだ」と書いたのは、ジェイ・マキナニーである。
ソール・べロウもまたニューヨークを描いた。
彼の傑作「この日をつかめ(Seize the Day, 1956年)」は、アップダウンのブロードウェイ沿いにあるホテルの窓辺から眺めるニューヨークが描かれている。
ニューヨークは、人種や階級の雑多な人びとが住んでいる街で、ほとんど一様に成功した老人がまことに多い。そういう人たちがホテルに住んで暮らしているのだ。ブロードウェイに出ると、じつに雑多な人びとが歩いている。
ブロードウェイはまだ明るい昼下がりであった。排気ガスの立ち込めた空気は鉛のような陽光の輻(や)の下でほとんど動きがなく、おがくずの足跡が肉屋や果物屋の玄関先に残っていた。そして大きな、大きな群衆。あらゆる人種と階級の尽き果てることのない数百万の人びとの流れが吐き出され、ひしめき合っている。あらゆる年齢、あらゆる能力、あらゆる人間の秘密の持ち主たち。
(ソール・べロウ「この日をつかめ」より)
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先日、電話をかけてきた友人は、まだ50代で、日本橋の証券マンである。大学がぼくとおなじで、学部はちがうが、先輩、後輩の間柄だ。
後輩は若いころヘミングウェイの「日はまた昇る」を読んだらしいが、格別の感想は聴いていない。というより、後輩は文学とは無縁の生き方をしている。その彼から、さいきんのニューヨークの話をいろいろと聞いている。
その話のなかに、映画「タクシー・ドライバー」に登場するデ・ニーロの話が飛び出してきた。ニューヨークを舞台にした映画「タクシードライバー」がいいといってくれたのは後輩だった。主演はロバート・デ・ニーロ。第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞した。
「そのタバコが燃え尽きたら、あんたの時間はおしまいよ。(When that cigarette burns out, your time up.)」
(アメリカ映画「タクシー・ドライバー」より)
こんなセリフがあった。
その話をすると、友人は「あっははははっ」と笑った。
この映画には、元海兵隊員で、不眠症のタクシー・ドライバーが登場する。大都会ニューヨークへの嫌悪と絶望を抱いている男である。
街の恐怖と退廃を、鮮烈に描いた映画だった。1976年の問題作。少女の娼婦が、ドライバーに身を売るシーンのセリフである。身を売るとはいっても、スカートを開いて、あそこをちょっとばかし見せるだけである。その持ち時間は、たばこ1本が燃え尽きるまでというわけ。
――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせ、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができる。――スティーブン・クレインの描く「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説、あれはすごかったなとおもう。
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彼の第2作、「The Red Badge of Courage(赤い武勲章)」(1895年)は、はじめて出版社から出て、作家としての地位を確立することができた。
この作品は南北戦争を取材して書かれたもので、クレイン自身は戦争の体験は少しもなかったが、そのためにまったくの想像で書かれた。これによって彼はアメリカにおける戦争文学の先駆者となった。
その後、戦争文学として知られているのは、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ(Gone With the Wind)」で、これが出たのは、それから半世紀近くたった41年後、1936年ことである。
クレインは、その後も新聞記者のかたわら、つぎつぎに作品を発表していった。それまで5つの小説と、86のエッセイ風スケッチや短編小説を書き、128の新聞記事を書き残している。
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ぼくは、彼の短編のなかで記憶に残っているのは、「新しい指なし手袋(His New Mittens)」とか、「屋根なしボート(The Open Boat)」、「青いホテル(The Blue Hotel)」を読んできた。これらはまだ翻訳されていなかったころで、――というより、スティーブン・クレインの小説は、「勇気の赤い勲章」をのぞき、いままで一度も翻訳本では読まなかった。これらは、短編集「The Monster and Other Stories」に収められていて、かんたんにElibron Books版で手に入れることができる。先の「街の女マギー」は、現在、ネットではフリーで読める。
そのなかでも目を見張るのは、E.Hemingwayに強い影響をおよぼしたとされる「青いホテル(The Blue Hotel)」という小説だ。
クレインの小説のなかで、主人公の心理描写は描かず、人物と行動をできるだけ客観的に描写することに努めたのは、この作品においてであるといわれている。クレインの試みは功を奏し、彼が新聞記者であったことと関係があるかもしれないが、自然主義文学のおこったその時代のアメリカで、このような小説があったことは驚愕に値する。
この物語の貫通行動の担い手であるスウェーデン人は、異常ともおもえる強迫観念のとりこになっている男で、その彼と、ホテルのオーナー、その息子との確執を描いてみごとというしかない。あるシーンでは、ぼくにはS・モームの短編のいくつかをおもい出させる。
激烈にして果敢な行動、それと非主観的描写を貫いたヘミングウェイを彷彿とさせる作品で、ホテルのオーナーは、スウェーデン人の客をなんとかなだめようとして苦労するが、彼は、いっそう何かに恐れて虚勢を張り、怒鳴りちらし、それを振り払うかのようにして、かえって大胆な振る舞いに出る。
外は荒れ狂う吹雪。
常軌を逸した客人に、オーナーはとうとうかんにん袋の緒を切ってふたりの格闘がはじまる。それに勝ったスウェーデン人は勝ちに乗じて、近くの酒場で酒をくらってあばれまくり、あっ気なく命を落とすのである。
なんという無意味な死だろうか。
そこには、過去・現在にいたるひとりの人間の尊厳など、みじんも感じさせないのだ。男がひとり、不運な死を迎えるという結末に、なんともいえないアイロニーを感じてしまう。
スウェーデン人の死には、高名な動機づけもなく、人間の努力のすえの死でもなく、そこには狂った上の恐怖との闘いによる偶然の所産としての死があるだけで、こうした死は、年々成長を遂げる近代都市ニューヨークの寒い空の下で、希望もなく這いつくばって生きるしかない人びとの日常の姿なのである、といわんばかりにたんたんと描かれていく。
この小説を読んで、ぼくはヘミングウェイの先駆者としてのクレインの目のつけどころに、こころならずも、うなってしまった。
彼を死なせたのは、ホテルのオーナーか、それとも息子か、それとも酒場のばくち打ちか、彼を打ちのめし、死なせた下手人は、たしかに直接的な最後の一発だったかもしれない。
しかし、そうではないだろう、と作者自身が、人の口を借りていわせているところがおもしろい。それは「abverb(つけたしの)副詞」みたいなものだといっている。
……And you ――you were simply puffing around the place and wanting to fight.And then old Scully himself! We are all in it! This poor gambler isn't even a noun. He is kind of an adverb. Eevery sin is the result of a collaration. We, five of us, have collabaorated in the murder of this Swede.
それにあんた、――あんたはただ騒ぎまわって手だししてたじゃないかよ。そんで、スカリー老人がな、わたしらみんな、ぐるだったんだって! かわいそうなばくち打ちは、名詞とはいえないまでも、まあ、副詞ってとこなんだ、どんな罪でも、いろんな力が合わさって、おもわぬことができちまうのさ。わたしら5人がスウェーデン人が死ぬのを協力しただけじゃないか。
この小説は熟読吟味するほど味わいがある。
この少し前の文章に、「Usually there are from a dozen to forty women……(ふつう、たいていの犯罪の影には女が関係しているものだ)」と書かれている。
そして、この小説の最後にはこう書かれている。
The cowboy, injured and rebellious, crird out blindly into this fog of mysterious theory ; “Well, I didn't do anythin' did I”
カウボーイは気を悪くし、ちょっと意固地になって、この奇妙な理屈の霧を晴らそうと、やみくもに叫んだ。「だって、おれは何もしなかったんだぜ、そうだろ!」
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この小説が出版されて、多くのニューヨーカーは歓迎した。そればかりか、等閑にふされた前作「街の女マギー」が注目をあつめ、改訂出版された。
これによってスティーブン・クレインの名がアメリカだけでなく、イギリスでもヨーロッパでも注目されるようになった。もとより反俗スピリットが持ち味の彼の新鮮さは、きわだっていた。そして、次代に受け継がれたのがセオドア・ドライサー(1871-1945年)だった。
ドライザーはクレインとまったく同世代の作家である。
スティーブン・クレインの「街の女マギー」は、アメリカ文学のもうひとつのベクトルを示す画期的な作品となったといわれる。その証拠に、セオドア・ドライサーの「シスター・キャリー(Sister Carrie, 1900年)」は、「街の女マギー」が、セオドア・ドライサーに強い影響を与えたかどうか、それはぼくにはわからないけれども、ドライサーは、その7年後に、「シスター・キャリー」という小説を書いた。
これは、「街の女マギー」のパターンを、まったく逆に描いた小説で、結婚外で肉体関係をもった女性が、男を踏み台にして成功していくという話である。そのかわり、男たちのほうが破滅していくという筋立てになっている。
この小説が発表された1900年、――つまり、スティーブン・クレインの死んだ年だが、――当初、「街の女マギー」以上に、ごうごうたる非難を浴びたと伝えられている。小説の内容は、当時の倫理観をおおきく外れていたからだった。
スティーブン・クレインの「街の女マギー」は、彼の処女作であり、ドライサーの「シスター・キャリー」もまた処女作だった。
そして、ふたりともニューヨークを舞台に書いている。
「シスター・キャリー」は岩波文庫で現在も読むことができるので、おおく読まれているとおもわれるが、ウイリアム・ワイラー監督で映画化され、邦題は「黄昏」で、名優ローレンス・オリヴィエ主演で、ご覧になった方もおおいとおもわれる。ドライサーには「アメリカの悲劇」という作品がある。これも「陽のあたる場所」という邦題で人気をあつめた。
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「シスター・キャリー」は、こういう物語だ。
いなかからキャリーという無垢な娘がシカゴにやってくる。貧しいいなかでは暮らせなくて、シカゴという大都会へやってくる。彼女は都会のきらびやかな雰囲気のなかで、職を見つけようとするが見つからない。やっと見つかった製靴工場の仕事も、病気でちょっと休んだだけで追い出される。
やがて、キャリーは豊かな暮らしをしている男と出会い、身を任せる。そして、地方まわりのセールスマン、高級レストランの支配人と出会い、つぎつぎと男たちとの関係をつづけ、欲望のままに行動していく。
高級レストランの支配人は、店の金を横領し、キャリーとニューヨークに駆け落ちする。男は、雇われ支配人で、職を辞めてしまえば、ただの男。40を過ぎた男に、新しい街での再スタートはきびしい。金のない男には魅力もなくなり、キャリーは、元支配人との暮らしに物足りなさをおぼえる。
キャリーはブロードウェイにならぶ店に魅了され、宝石店のショーウィンドーに見とれ、この都市は、快楽と愉悦がうずまく運動体のようにおもえ、元支配人との暮らしがみじめにおもえてくる。
男の人生は、悪くなるいっぽうで、金がなければ、いい服も買えず、そうなるといい職にもありつけない。やがて男は病気になり、貧しい者たちのいる慈善病院に運ばれる。
そして、そこを出るとホームレスになり、物乞いをするようになる。警官からも通行人からも追い払われ、人からモノをめぐんでもらうのも困難になり、男は自殺する。しかし、キャリーの人生は、いままでになかったほど輝き、つぎの夢を追いかける。
――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせる街で、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができるのだ。――ここに登場するキャリーという女性は、男を食い物にしてのしあがっていくしたたかな女性として描かれている。ドライサーの小説は、この処女作で決まった。
1925年に発表された代表作「アメリカの悲劇」は、貧しい青年が出世のために恋人を殺害し、死刑になるまでを描いたもので、この作品は、アメリカ自然主義文学の最高傑作とされている。ぼくは、1900年から1930年までのアメリカの自然主義文学は、この2作で代表されるだろうとおもっている。
で、最後にひとこと。――クレインはそういう現実を直視した作家であるとともに、彼は詩人でもあった。彼の詩についてはもう紙幅がなくなったので、いつか書いてみたい。
