江藤淳の「と私」「年時代」を再読する。

幸せなころの江藤淳と妻・慶子さん。

 

ぼくは、会社を経営していた1999年ごろから5年間、港区大門の都心のマンションに住んでいた。そのころは、文科省がすぐ隣りで、官僚たちの街だった。

そのころ、年若い友人が三田に住んでいて、よく三田の慶応義塾大学で待ち合わせをした。友人の友人はまだ学生で、慶応ボーイとはいかないが、大学から入学してきた北海道出身のいなか育ちの男で、文学部英文科3年生だった。

「だったら、江藤淳を知ってるだろう」とたずねると、知らないという。日本のジャズ・ピアニストの守安祥太郎を知ってるか? ときくと、それも知らないという。

なんだ、こいつは? とおもった。

やっぱり、こいつは慶応ボーイじゃないな、とおもった。

俗にいう「慶応ボーイ」というのは、幼稚舎からずっと無試験で大学まであがってきたやつらのことをいい、必ずしも成績優秀なやつらではない。そういう生え抜きの学生をいうのだが、三田の丘の上には、ぼくなどには居心地の悪い、落ち着かない空気を溜めていた。だが、みんな若く、さわやかなキャンパスだった。こっそり授業を受けたりしていた。

ぼくは英文学については、ロシア文学ほど情熱をあげていなかった。

山本夏彦の本に「米川正夫論」というものがあり、一度読んだことがあるが、それについて、くわしく論じた本が、向井敏氏の「文章読本」という本なのだが、それを読むには読んだが、もうすっかりわすれてしまい、もう一度読み返したいとはおもわない。

われわれの世代は、ロシア文学とえば、なんといっても米川正夫であり、中村白葉であり、原久一郎である。

すべてロシア語から直接翻訳をした人たちである。ことにトルストイ、ドストエフスキーの翻訳は、この3人が独占していた。そして同時に、「翻訳文」というものを確立したのも彼らだった。

なかでも、米川正夫の訳文は名文といわれていた。それまで作家たちが使わなかったことばを使った。だから、すらすら読めない。熟読吟味しながら読むしか方法がない。たとえば、――

 

かれこれ一時間ばかりすると、廊下に足音がひびいて、さらにノックの音が聞こえた。二人の女は今度こそ十分に、ラズーミヒンの約束を信じて待っていた。案のじょう、彼はもうゾシーモフをつれて来たのである。ゾシーモフは即座に酒宴を見捨てて、ラスコーリニコフを見に行くことに同意した。しかし、二人の婦人のところへは、酔っ払ったラズーミヒンが信用できないので、だいぶ疑念を抱きながら、いやいややって来たのである。ところが、彼の自尊心はすぐ落ちつかされたのみならず、うれしくさえなってきたほどである。実際、自分の予言者(オラクル)のように待たれていたことを、事実に合点したからである。

(ドストエフスキー「罪と罰」、米川正夫訳)

 

棒線部分の「彼の自尊心」というのは、だれのことか?

ゾシーモフのことを指している。

この文章は、一読してただちに理解できる人は、かなりの読書家であろう。このような文章を読まされると、読者はいいようもない苦痛を強いられる。山本夏彦氏のいうドストエフスキー文学の輪郭は、そういう米川正夫によってつくられた。

さて、森鴎外の文章はどうか? ――たとえば、

「午前六時汽車は東京を発し、横浜に抵(いた)る。林家に投ず。此()の行の命を受くること六月十七日に在りき。徳国(ドイツ)に赴いて衛生学を修め、兼せて陸軍医事を訽(たづ)ぬるなり。……」

と書かれている。

これは漢文で書かれた「航西日記」を読み下し文に書きなおしたものである。

いまさらながら、若いころの鴎外のみずみずしい文章に魅せられてしまう。漱石とはちがうのだ。――明治17年8月24日、23歳の森鴎外林太郎は、フランスの商船メンザレー号に乗ってドイツへと旅立つ。

鴎外の「航西日記」や「独逸日記」に描かれた文章はいかにも硬質で、文体は、見ればおわかりのように、きびきびしていて、気骨あふれる文章である。

ぼくはこういう文章にあこがれた。

長谷川如是閑もいいけれど、鴎外もいい。しかし、ぼくは永井荷風の文章は、鴎外より多くの時間を海外で過ごしているけれど、鴎外のような気骨は少しも感じられない。

さて、江藤淳が「妻と私」を書いたのは、自殺する少しまえだった。

――実は、ぼくはその話をしたかったのだ!

 

江藤淳。東工大教授のころ。

 

江藤淳の「妻と私」は、「文藝春秋」に一挙掲載されたものだった。そのときに、ぼくはすでに読んでいた。

文庫本「妻と私 幼年時代」(文春文庫、2001年)の巻末の解説に、石原慎太郎が「追悼 さらば、友よ、江藤よ!」と題して長文の記事を寄せている。冒頭に「今日鎌倉で、江藤淳の骨を拾ってきた」と書かれている。

この本は、そのころ買い求めたものだが、さいきんヨーコが読んでいたらしい。寝室のベッドの枕元に、本が裏返しになって伏せられていた。その装丁がすばらしいと思い、スキャナーでスキャンした。そして、なつかしい気分になった。

小島信夫の「抱擁家族」は、そもそも、この家の崩壊は、戦後すでにはじまっていた物語なのだ、――と江藤淳は書いた。

駐留軍の米兵と不倫する時子は、男らしくない亭主に、もうあきあきしていた。家長としての俊介は、家長らしくない振舞いをし、なにごとにもためらい、なにごとにおいても未決断でとおし、優柔不断で、なにもしない。

時子の心理的な動揺と肉体的な危機とが、つねにオーバーラップして追い打ちをかけていく。だが夫の俊介は妻の姦通をとがめることもできず、家庭の再建に右往左往するばかり。妻を閉じこめるために塀のあるおおきな家をつくり、アメリカ式の別荘風の家をつくったものの、まもるべきその「家は」、もう「主婦」のいない家となり、無用の家となっていく。――江藤淳の論述はいよいよ冴える。

この小説は、昭和40年「群像」に一挙掲載され、単行本として講談社から出た。この作品は多くの評論に取り上げられ、江藤淳の「成熟と喪失」(昭和42年、河出書房)をはじめ、磯田光一の「小島信夫の文学」(昭和46年、講談社文庫「抱擁家族」の解説)、平野謙の「文芸時評」(下 昭和44年、河出書房新社、昭和44年)にも取り上げられている。

つぎに、江藤淳は、安岡章太郎の「浜辺の光景」では、「成熟と喪失、――母の崩壊」を論じた。びっくりするほどの説得力をもっていた。

作品「浜辺の光景」は、1959年に出た。作者の但し書きによれば、「かいへんのこうけい」という。「はまべ」と読んではならないと書いている。

戦前の家庭では、「父親そっくりに子供を育てることが母の務め」だった。戦後は、《母》の崩壊で、家の家長制資本主義社会における別の《母》を描き、息子には父親よりも出世してほしいと願う母が描かれる。それは本来は、あり得たはずの父親像を、こんどは息子に託す家族の姿を描いたことになると論じている。

昭和40年ごろ、ぼくは夏目漱石についての論文を書いた。

江藤とおなじ「夏目漱石論]と題されていた。それを読んでくださった文芸評論家の平野謙氏が、ぼくを呼んで注意してくださった。そして、江藤が学生時代(慶応義塾大学文学部英文科)に書いた「夏目漱石論」のポイントを要約してくださった。

はっきりおぼえていないけれど、「おまえには、書けない」という意味のことを、さりげなくおっしゃったのだと思う。

わずか100枚程度の論文だったが、江藤淳が書いたような、きらりと光るものは何もなかった。すでに知られていることを、漫然とならべたにすぎない。

論文というものは、どういうものかを改めて教わった。

あとで考えたら、学生が一流の文芸評論家の平野謙氏に、あつかましくも論文を持っていったというのも、いま思うと、赤面のいたりである。ぼくは、あんなに偉い先生とは知らなかった。教授と学生という間柄ではあったが、よく、ちゃんと最後まで読んでくださったものだと思っている。

「これは何という字?」

 

 江藤淳「妻と私 幼年時代」、文春文庫。

 

原稿に書かれている漢語を指さして質問された。

「烟滅(えんめつ)」という字と、「衍(はびこ)る」という字の読みと意味について質問された。論旨については何もおっしゃらなかった。いうまでもないと思われたのだろう。

そして、おっしゃった。

「こういうときは、ルビを付すように」と。たったこれだけしかいわれなかった。ぼくは少なくとも、文芸評論家にはなれそうにない。そう思った。

大学の講座には「評論研究」というものがあった。

そのころぼくは、ドストエフスキー文学にのめり込んでいた。ベリンスキーという批評家がいたので、ドストエフスキーは文壇にデビューすることができたと書かれている。そのいきさつについては、よく知られている。批評家とはそういうものだと思う。

マシュー・アーノルド、レズリー・スティーヴン、アーサー・キラークーチ、夏目漱石、ゴア・ヴィダル、エドワード・サイード、チャールズ・スクラッグス、……いろいろいる。研究家であり批評家でもある。

とくに、夏目漱石の評論は、東西一流のものである。漱石は評論家としては生きなかったが、その「文学論」、「文学評論」はつとに知られているばかりでなく、多くの批評家デビューの礎となった。

江藤淳も、もともと慶応ボーイではなく、日比谷高校から入っている。

昭和25年、江藤は都立一高(のちの日比谷高校)の学生だったが、弁舌さわやかに弁じ立てて、仲間たちを煙に巻いた。その年、日比谷高校と改称され、江藤は福田恒存の「キティ颱風」を三越劇場で見て感動して帰る。

そして昭和28年、東京大学を受験したが失敗。

慶応義塾大学英文科にすすむ。そして山川方夫(まさお)を知る。江藤は、東京・銀座の並木通りにあった「三田文学」の編集部にひょっこり顔を出す。山川方夫からなにか書くようにいわれる。

「日本の作家について書け」

江藤はそのとき、夏目漱石、小林秀雄、堀辰雄の3人の名前をあげた。そして、「ほんとうは、漱石をやりたいんです」と付け足した。

「じゃ、漱石を書きたまえ!」

そうして江藤は書きあがった原稿を編集部に持って行った。すると、

「いいか、きみは、大事なことを簡単にいいすぎるんだよ。簡単に書いちゃだめだよ」といわれる。そうしてできたのが、「夏目漱石論」だった。

ぼくらの世代は、山川方夫の小説は群を抜いてひろく読まれていた。日本にはこういう作家はいなかった。

こうしてできた「夏目漱石論」は、江藤の生涯を決定づけた。これまでの「漱石神話」をぶち壊したのである。

平野謙教授は、それをいいたかったのかも知れない。

江藤の書いた「妻と私」は、そういう評論ではない。ながく連れ添った妻があっけなく亡くなり、江藤は呆然とする。その話の一部始終が書かれている。

これは多くの日本人のこころを揺さぶった。そして多くの人びとによって「妻と私」が書かれ、出版され、ちょっとした出版ブームを巻き起こした。

江藤淳の代表作「成熟と喪失」は第三の新人の作品を素材にして、文学における母性について論じた代表作である。――第三の新人とは、1950年代の中ごろに新人の多くが芥川賞を受賞して、文壇に登場してきた作家たちのことである。その新人というのは、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、小沼丹、曽野綾子、三浦朱門の7人である。

のちに、これに遠藤周作を加えて8人となった。

ぼくが学生だったころは、第三の新人たちの小説が圧倒的に多く読まれた。最も多くの関心を持って読まれた作家は、それよりも若い、大江健三郎、開高健、石原慎太郎、江藤淳だった。批評家では江藤淳が多くの関心を持った。江藤淳のいう「異化」、――芸術において、言葉は異化されなけれはばならない、というシクロフスキーの言葉について、大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」などの諸作を通して、ぼくは学ぶことが多かった。

ぼくが大学に入学したのは、1962年だった。

そのとき江藤淳は、米プリンストン大学にいた。江藤淳は、そこで日本文学を講じていた。妻慶子さんもいっしょだった。

アメリカの大学側は、特に「勉強をしなくてもいいから、1年間過ごして、アメリカのいいところを実感してほしい」という意味のことをいわれたという。その前には、小島信夫、阿川弘之、安岡章太郎、有吉佐和子といった人たちがすでに渡米していた。

そういうことも刺激となって、ぼくは、ようやく日本が渡航の自由化を迎えた1964年に、ロンドン大学に留学することができた。当時は無試験だった。

 

そして、……。

1998年暮れ、慶子さんが死去。

1999年7月21日、江藤淳は、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀をつかい、手首を切って自殺、66歳没。

妻の葬儀のあとのことで、じぶんも脳梗塞の後遺症に悩んでいた。

ライフワークであった「漱石とその時代」は、数回を残し、未完に終わっている。妻の闘病生活を綴った「妻と私」を残し、つづく「幼年時代」も未完に終わっている。江藤には、余命が残されていなかった。それを知った江藤は、どんな気持ちがしただろうかとおもう。

慶子さんのいない生活は、どんなに寂しくて、空しいことかを知ったに違いない。

葬儀は神道形式で行なわれ、慶子夫人との間に子供がいないため、喪主は実妹が務め、石原慎太郎らが弔辞を読んだ。

「妻と私」は、妻・慶子さんとの幸せな日々を思い出すように書かれた記録である。

慶子夫人の「治療不能のがん」の診断がくだされてから、江藤は、彼女に付ききりの看病がつづき、否応なくせまる死、そして臨終の時を経て、江藤自身も病魔におそわれ、死の淵にたった。

江藤は、おしっこの排泄器官が異様に腫れあがり、大腿部の皮膚が真っ赤になって、男の排泄器官はほとんど使えなくなった。

こうなると、前立腺だけの問題ではなくなり、全身におよぶ劇症肝炎を誘発するたいへんな事態となった。感染症で敗血症になれば、死ぬしかない。

夫婦って、いったい何だろう? 江藤は深く考えたに違いない。

――そうして書かれたこの本は、大きな反響を呼んだ。

これを書いてしばらくたち、江藤はさらに「幼年時代」を書き、とうとう完成を見ずに自殺した。

ぼくは彼の死を知って、同情を禁じ得なかった。慶子さんとの幸せな夫婦の写真を見て、江藤の問う「夫婦って何だろう?」と、強く思う。