ムライのき方に学ぶ。

間もなく、東京五輪がはじまる。

新型コロナウイルスが、その炎暑の東京都に燎原の火のように広がってきた。

「……汗のごとし」とは、一度口にしたら、もう取り返せない喩えである。ことば集の「礼記(らいき)」に、日本人は古来ずっと厚い信頼を寄せてきた。

きょうは、その話をしてみたい。

 

       

         司馬遼太郎。

数年まえ、糖尿病をわずらっているТさんと会って以来、なんの音沙汰もなかったのに、きのう彼からとつぜん手紙をもらった。藤沢周平の小説について書いてある。――近ごろ、たいがいはメールなのだが、昭和17年組は、手紙なのである。

彼の「たそがれ清兵衛」を再読したが、田植えがおわってから一滴の雨も降らず、雨は降れば降ったで、領内の川は氾濫して人家が押し流される。その冒頭の文章に、藩の窮乏が描かれ、ままならない藩政にいたく感動した、と書かれている。

そういう状況のなかで、筆頭家老の専横がいよいよはげしくなるという物語なのだ。藩は、家中、町方、郷方(さとかた)の順に合積(ごうづも)り――配給――制度をしいていく。金のない領民には貸付けの手配もし、それもムリという極貧の領民には、ひとり当たり一日1合5勺のお救い米を支給。

で、明治の北海道の北竜の人たちは、どうだったのか、という話が書かれている。

ぼくはТさんに、何を話していたかなど、とうに忘れている。

北竜町の話が出てくるところを見ると、そんな話もしたかもしれない。藩は未曽有の凶作に見舞われるが、北竜の人びとも、そういう体験は嫌というほど経験しているにちがいない。6年前の8月、ぼくは北竜町をおとずれたが、そういう話はもとより聞いていない。

そして彼の手紙は、サムライの話におよんだ。2年まえにТさんと会ったときのことを想いだした。そのときもТさんからサムライの話を聞いている。

「でも、さいきんぼくは明治維新その他、そのころの歴史をもっと知りたくなりましてね、武士道などを読んだりしています」というと、

「司馬遼太郎さんの本を読むといいですよ」とТさんはいった。

「司馬遼太郎さんの本は、ほとんど読んでいます。《この国のかたち》、《明治という国家》、《坂の上の雲》、《殉死》、など、……」

「ほう。……代々の武士よりも武士らしく生きようとする近藤と土方の星雲の志をえがいた《燃えよ剣》とかも、けっこうおもしろいですね。篠原泰之進の爽快な生き方をえがいた《新選組血風録》とか、《幕末》とか、吉田松陰の先生だった玉木文之進の生涯なんかもえがいた《世に棲む日日》、あれはいい小説でしたね」という。

「Тさんも、司馬遼太郎さんの本を、けっこう読んでいるほうですね?」

「ええ、読みましたね。《坂の上の雲》は2回も読みましたよ。――で、いまごろになって、明治維新に興味を持ったというのは、どうしてですか?」という。

「いや、よくわからないんです。明治という時代は、はたしてどういう時代だったのかとおもって、……」

「ぼくにも、わかりませんよ。司馬さんの本を読んで、わかったような気分になるだけですかね。サムライってさ、生まれるもんじゃないですね。司馬さんの本を読んでいると、サムライは、つくられるものだと書いてあります」

「そういえば、吉田松陰は、玉木文之進の塾生として徹底的に鍛えられますね? 松陰のこうした教育は、5歳から20歳まで受けていますね。たしかに、サムライはつくられる、いわれれば、そのとおりですね」

「そうです。サムライとは何か? この命題を力まかせに幼い松陰たちに叩き込むわけですね。うむをいわせないんですな」とТさんは力説する。そして、「それが大事です」

司馬遼太郎さんは書いている。

玉木文之進は、天保13年に松下村塾を開き、兵学のほかに歴史、馬術、剣術を教えている。その教えは、ことばの解釈などではなく、武芸のワザでもなく、「サムライとは何か」というものだったとТさんはいう。

司馬遼太郎さんはいう。

「――玉木文之進によれば、侍というものの定義は、公のためにつくすものであるという以外にない」ということだと。

これこそ兵学の祖、山鹿素行が打ち立てた武士道の真髄であり、文之進はきょくたんに私情を排する。「学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である」ということを書いている。この表現が、とてもおもしろい。

「おもしろいですね」

そういえば、司馬遼太郎さんは「風塵抄」のなかで、こんなことを書いている。

「こんにち《公》という概念が、宙空にあって輝いている。その色は清らかでその性質は無私で、ひたすらひとびとの役に立つという存在である」と。司馬遼太郎さんの膨大な幕末維新小説群は、まさしく現代日本から失われつつあるこの「公」の精神を、いまに蘇らせるために打ち鳴らされた警鐘のように思われてくる。

作品「峠」のあとがきで、司馬遼太郎さんはこう書いている。

 

 

映画「たそがれ清兵衛」より。

 

「人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸期の武士道倫理であろう。人はどう思考し、行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている」と。そして、儒教のテキスト「礼記(らいき)」なども、よく読まれた、といっている。ことばによる信頼をより掘り下げたのは、じつに「礼記」においてであったといわれる。

たとえば、「公」、「美」、「志」――という語がそろう江戸期の武士の生き方を、そこに要約されていることに気づく。そこには、この3つの理念が失われつつあるという現代日本の危機感が浮き彫りにされていく。

司馬遼太郎さんがなぜ、あのように長大な物語を、あらゆる角度から微に入り細をうがって克明に描ききったのか、それを考えた。

作品「翔ぶが如く」にはこう書かれている。

「朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」。

司馬遼太郎さんの文章には、特長がある。

多くは地の文ではなく、人びとの会話の部分に「公」、「美」、「志」の理念があらわれているとおもわれる。

たとえば、元治元年は、長州藩にとって、まさに激動の年だった。

6月に京都池田屋で多くの志士が斬られ、7月には禁門の変が勃発し、京都に攻め入った長州軍は壊滅した。この変で来嶋又兵衛や久坂玄瑞は自刃し、松陰門下の多くが戦死した。

8月、英仏米蘭の4ヵ国艦隊が下関を攻撃し、長州藩にとっては危急存亡の秋(とき)が訪れる。

しかし長州藩の戦意は、少しも衰えない。

「戦うのだ! 日本武士がどういうものか、世界に見せてやる」これが長州藩士の総意だったらしい。

司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」の「談判の章」は、4国連合軍の武力を背景にした圧迫をものともせず、貫くべきことを貫き通した高杉晋作の強靭な武士道精神をつづっている。

高杉晋作は旗艦に乗り込むと、司令長官クーパーに媾和書を差し出すが、これには「降伏」の「降」の字も書かれていない。

長州藩は全砲台を破壊され、沿岸は敵の陸戦隊に占領され、長州藩全体が連合艦隊によって逆封鎖されるという最悪の状況にあった。クーパー長官は、高杉晋作の差し出した媾和書を、ちらっと読んで突き返す。

「これでは問題にならない」

そしてクーパーは謝罪書を求める。しかし晋作は、

「それでいいのだ。わが防長国主の文書には、外国艦船の下関海峡通過は以後さしつかえないと書かれている。それが講和という意味なのである。いま通詞は降参々々といわれるが、日本語にあっては降参とは戦(いくさ)に負けたときにつかわれる。考えてもご覧じよ、長州藩はべつに戦に負けておらぬではないか!」

これには、クーパー長官も仰天する。

「あれでも負けていないと貴君はいうのか?」

そこから見える砲台は破壊され、連合国陸戦隊がそこを占拠している。晋作はうなずき、そしていう。

「負けていない」と。

「砲台の5つや6つどころか、もっと欲しいといわれるならいくらでも差しあげる。戦いの勝敗というものは、そういうものではない。貴艦隊の陸戦兵力はわずか2千や3千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長2ヵ国であるけれども、20万や30万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降伏するのではない」

まことに堂々たる論旨である。

そして日をあらためて行なわれた談判でクーパーは重大な問題を提起する。

「彦島を抵当として当方が租借したい」と切り出した。

英国は、この方法で中国から香港を奪った。おなじ手で長州にたいして使ってきたのである。

ところが晋作は、この租借という言葉の概念がよくわからない。

けれども、晋作は外国租界となった上海を見ている。そこでは、外観内実ともに西洋の港市になりきっており、シナ人は奴僕以下にあつかわれている。クーパーのいう租借とは、彦島が上海になることだと晋作は直感する。そして晋作は演説する。

「そもそも日本国なるは、高天が原よりはじまる。はじめ国常立命(くにのとこたちのみこと)ましまし……」と、翻訳不可能な言辞を弄して。

晋作にとって一か八かの演説だった。

この談判の通訳を仰せつかったのが伊藤博文である。司馬遼太郎さんの文章では、そのときのことを語った伊藤博文の述懐をつづっている。

「あのときもし高杉がうやむやにしてしまわなかったなら、この彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。おもえば高杉というのは奇妙な男であった」と。

きょうТさんから、ひとつ学んだ。人は、サムライになるのではなくて、サムライはつくられるのである、ということである。

いまさらながら藩校の大きさをおもい知らされる。

司馬遼太郎さんが再三にわたっていっているように、幕末維新期ほど、「公」の理念が高揚した時代はわが国の歴史には、かつてなかったとおもわれる。「公」の理念や、それに対をなす思考・行動の美意識は、男子一生の志といったものを忘れかけている現代人にとって、教えられるところがまことに大きいとおもった。