北海道でァイオリンをいていたころ。

1997年、東京・六本木のテレビ局にいたころの自分。昔のことをいろいろ想い出していた。

 

先日、遠いむかしの仲間たちのことを想って古い中学時代のアルバムを引っ張りだしてみた。みんな違った道をあゆみ、それ以来、いちども顔を合わすことなく過ごしてきた。そんななかで、ひとりだけ、中学時代のぼくのことをおぼえていて、

「田中は高校生になって文学に情熱をあげるようになったな」

といった。60年以上もむかしの話だ。

あのころは、ぼくはみんなとはくらべようもないほど遅れていて、勉強しなかった自分を恥じた。どうやってみんなに追いつくことができるか、そういうことばかり考えていた。北竜高校に入学し、沼田高校にも通学し、札幌の札幌南高校にも通った。テキストは二倍。ぼくには一年を通して休みという日はなかった。そして、少しずつ物事を覚えていった。知る喜びを覚えると、ぼくはヴァイオリンを弾いた。

そのころ本を読むことをおぼえ、北海道の歌人、小林孝虎氏の主宰する「北方短歌」の同人になり、短歌をつくって投稿し、新聞にも投稿し、やがて石川啄木の世界を知るようになった。

小林孝虎氏はながいあいだ旭川中学、常盤中学校の校長などの教職にあった。のちに旭川市文化奨励賞、旭川市文化賞を受賞し、歌集に「ビルの上の塔」、「アンモナイト」などがあり、古潭荘の庭園には歌碑があった。「まひるまの幻聴として山鳩のかなしむこゑを心処にきく」と刻されていた。

そしてぼくは、小説を読むようになり、岩波文庫版で、ヴィクトール・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を読んだ。豊島与志雄訳だった。ぼくはその訳文に魅せられた。

ぼくの家は農家だった。父のいいつけで、馬の世話をするのが日課だった。

日々の馬の食事をつくったり、寝藁(ねわら)をとりかえたり、散歩をしたりはじぶんの仕事にしていた。

農閑期には馬の背に乗れた。学校に遅れそうになると、馬に乗って通学したこともある。晴れた日には、学校のグラウンドの林に馬の餌をやって、つなぎとめておく。

冬になると、早朝、馬を外に出し、よく走らせた。運動不足はからだによくない。

ところが、中学2年生の冬を迎えるまで、わが家には電気というものがなかった。すべてランプの灯りがたよりだった。

勉強するにも、ホヤつきランプの灯りの下(もと)で勉強した。だから、ランプのホヤを磨くのもじぶんの仕事で、家族が食事を摂るときは、5分芯(ごぶしん)の灯りにする。来客があると、目いっぱい明るくする。ふだんは3分芯の灯りだった。猫が炉端で丸くなって寝ている姿を判別できる程度の灯り。父は5分芯の灯りで新聞を読んだ。

 

北海道音更町の牧場では、冬、140頭の馬たちを一斉に走らせているという。壮観な風景である。

ぼくはヴァイオリンを弾くだけで、ほとんど勉強しなかったので、中学生までの成績は下から数えて10番目くらいという、どうしようもない落ちこぼれだった。国語は満足に読めなかったし、英語にいたってはちんぷんかんぷんだった。数学も理科も、どうしようもない成績だった。

それで恥ずかしいともおもわなかった。

「おまえは中学を出ると、農業後継者として仕事をしろ」と父にいわれていた。いくどか父といっしょに村の会合に出ることがあった。だが出てみると、そこで話されていることがさっぱりわからず、書類に目を落とすと、これまた文章がぜんぜん読めなかった。

これじゃダメだと自分でもわかった。

ぼくは高校進学を考えていなかったが、中学校を卒業する3ヶ月ほどまえ、親に進学したいといった。このまま社会人になるのは、そら恐ろしかった。

それが、高校生になって猛烈に勉強をはじめた動機である。

仲間たちに追いつくには並みたいていのことでは追いつけないだろうとおもった。父はそういう自分のために、自室を用意してくれた。8畳ほどの自分の部屋をつくってもらうと、たくさん本を買い込んでいろいろ読んでいった。

辞典も買った。まず手に入れたのは「広辞苑」の初版だった。例文がたくさん載っている「例解国語辞典」や「英和辞典」、「漢和辞典」などを用意した。

ただし読むとはいっても、もともと文字を読めないのだが、ふしぎなことに、ぼくは詩を書きはじめた。書いた詩を、気まぐれに新聞社に投稿すると、載せてくれた。

 

  きょうもまた静寂に夜めぐり来て

  床に一日(ひとひ)の疲れ擲(なげう)つ。

 

  病む馬を曳きつつ通る堤防の

  浅瀬は白し蛙鳴きてをり。

 

これらは中学3年生のときの作だった。文章は読むばかりでなく、文章を書けば、文字はしぜんに覚えるだろうと考えた。だから読んでは書き、読んでは書きした。そしてその夏ごろ、「たそがれの梟」という100枚ほどの小説を書いた。

だが、発表の場がなかったので、自分で同人誌をつくった。「学友文学」という同人誌で、高校生の仲間たちに原稿を募って載せた。それは第2号を出して終刊になったが、どういうわけか、ぼくはフランス革命に興味を持ちはじめ、フランス文学史上における「亡命文学」というものに興味をもった。

そして、シャトーブリアン、ヴィクトール・ユゴーという作家を知るようになった。そのころ何も知らないぼくが読んでも、筆舌につくせないほどの壮絶な時代が描かれており、勢いぼくはフランスの亡命文学というものにのめり込んでいった。で、その種の文学史の本を見つけては読んでいき、漠然とだが、じわりじわりとぼくのこころがヨーロッパ文学というフィールドに関心を向けはじめた。

北海道のいなかで、のんびり勉強などをしているときではないような気持ちになった。

1789年のバスティーユ襲撃にはじまる虐殺の横行は、やがてヴェルサイユ行進へとすすみ、虐殺した近衛兵の首を槍先に掲げ、それを笑いながら男女の群集がひと塊りになって街をのし歩くさまは、革命に揺れるパリのむごたらしい情景になって見えた。

シャトーブリアンはそんなフランスを離れ、逃げるようにしてアメリカに向かったものの、アメリカでも理想化していた新生合衆国の実態に、深い失望と幻滅を覚えた。

そこでも、西欧の君主国以上に経済的、社会的な不平等が放置されていて、冷酷非情なエゴイズムが横行していたのである。

そんなことから、シャトーブリアンは、かつてあれほど忌まわしくおもっていた君主制と身分秩序だったが、それ以降、ゆるぎのない絶対王政主義者へと向かい、ヨーロッパへ帰還したのち、亡命貴族の義勇軍に加わり、勇敢に戦った。

だが、プロイセン・オーストリア・ロシアの同盟諸国の足なみが乱れて、瀕死の状態でイギリスへと逃れる。ジャコバン独裁時代に兄が処刑され、母や姉も投獄されるありさまだった。

その後ロベスピエール没落を経てナポレオン時代になり、ようやく帰国を果たしたシャトーブリアンは、フランスの無秩序を克服するため当初ナポレオンを担ぎ出そうとしたが、彼の思惑ははずれた。

そして、1814年に「ブオナパルトとブルボン王家」を書き、世にブルボン王家の復辟(ふくへき)を訴えたのだった。

彼はブルボン復古王政成立後、王政支持者の中道派として政界に乗りだし、外相・イギリス駐在大使、ローマ駐在大使などを歴任した。

外相時代の1823年には、内乱かまびすしいスペインに単独出兵し、当地のブルボン朝政府を再建したが、1830年「七月革命」に遭い、シャルル10世が亡命するとブルボン家への忠誠を守ってすべての公職から身を引いた。そして、1848年の病床で「二月革命」と共和政成立を耳にしながら、その生涯を閉じた。

高校生だったぼくは、文学というのは、作品を出して世に認められるという単純なものではない、ということを知った。「時代をつくるもの」という意識を持つようになった。

シャトーブリアンやヴィクトール・ユゴーという作家は、自分の命を賭けて書いていることに、烈々たる衝撃を受けた。ユゴーは「シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない」と書いた。23歳という若さで、ユゴーは詩人としてレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受けた。

彼らの苦悩は、作品を通して知ることがいちばんだと考え、彼らの小説や詩を読めるだけ読んだ。

すると、教科書に書いてある記事は、なんという味気ない、魅力のとぼしいものであるかをおもい知らされた。ただ年代記的に羅列しているにすぎない。

ぼくは、じっさいに彼らの作品を読んで、その時代を深く知りたいとおもった。

そういうわけで、ぼくは勉強などそっちのけで、読書三昧の日々をすごした。ぼくの部屋は、たちまち本で埋め尽くされた。若いころというのはふしぎなもので、いちど読むと、ほとんど覚えることができた。こんなに一度に脳みそにたたき込んで、迂闊にも漏れ出ることはないのか、と考えた。

見たこともない語を読み、それを音読すると、なんでも覚えることができた。覚えたら、その語を使って文章を書いてみた。書いた文章は、めちゃくちゃだった。文語調、散文調入り交ざって、もうすでに死語になっている語も平気で書いていた。ことばは辞典を繰ってしらべることもやったが、例文のない語は、ぼくにはむずかしかった。

高校の仲間たちのなかに、文学に目覚めた男がいた。

彼は夏目漱石を読んでいた。

ぼくはシャトーブリアンの「キリスト教精髄」やユゴーの「ノートル=ダム・ド・パリ」を読み、一貫して石川啄木と芥川龍之介を読んでいた。そして三島由紀夫の「金閣寺」につき当たり、美とは何か、その思想的な分野に興味を持った。

いまそのとき学んだ北竜高校はもうない。

昭和53年(1978年)年3月をもって閉校となった。だが先年、中学時代の仲間たちに会って、15歳の自分のことをおもい出した。そして、啄木のデビュー作を想いだした。

 

  不来方(こづかた=岩手県の盛岡城)のお城の草に寝ころびて

  空に吸はれし

  十五の心