ふるさとの風景のなかでえてみる。

読書は人生を楽しくしてくれる魔法です。

芳香ただよう北海道の5月の丘や田園の風景は、おさないころから見てきた景色そのもので、脳裏に深く刻まれた自分史の1ページでもあります。

5年まえ、ぼくは北海道のふるさとを20年ぶりに訪れて、くねくねした道がまっすぐになって舗装されていたり、新しい建物ができていたり、――サンフラワー北竜温泉がその代表的な建物ですが、――むかしの自然の景色は変わらなくても、街や道が変わり、道ゆく人びとも見たことのない人たちばかりになって、もう北海道に入植して4代目の世代に移り、なんだか、よそよそしい感じを受けたものです。

そりゃあそうでしょうね。

中学時代、同級だった小松茂樹さんもそんなふうなことをいっています。

しかし、本を読んでいると、いまはもう見られない、むかしの風景をいくらでも想いだすことができます。

ある丘に根を張る一家は、むかしのたたずまいを変えても、北海道人としての、よそでは見られない、ずっと語り継がれてきた北海道ならではの物語を間違いなく語ってくれます。

 

北海道北竜町竜西の風景。2016年8月撮影。

 

先年、町の文化振興会の会長さんから、人を介して何か北竜町と関係する自分史のようなものを書いてくれませんか、といってきました。ぼくは頼まれて、すぐ原稿を送りました。

もう何を書いたのか、ぼくは忘れていました。

たぶん、自分史のようなものではなく、おさないころの子守りの女の子のことを書いたのかもしれないと。

自分たちの物語を次の世代に伝えようというもくろみは、きっとだれでも想い描くでしょう。若いころには気づかなかった話、70代になってはじめて自分の過去を振り返り、誇らしく息子たちにいってみたくなるように、一代目的なものの見方をしてしまう、そんな話を書いたのかもしれません。

「文化」というのは、畝を掘り返すことだとぼくはいっています。

そのことに気づくのは、おそらく人の晩年になってやっと気づくとおもうのです。ヘーゲルの「法哲学」の冒頭に、「ミネルヴァの梟は、たそがれとともにようやく飛びはじめる」ということばが書かれています。「ミネルヴァの梟」とはいったい何でしょうか。

だいそれた哲学者でなくても、父は鍬をもつ手を休めて、ふと、そんなふうなことに思索をめぐらすことがあったのでしょう。父は、なにかおもいついたとき、農具を放って、手帳に何か書き込みます。

農業人は土を耕すことが仕事なので、土を掘り起こして畝(うね)をつくるのがじょうずです。――この「掘り起こす」というのはculture(文化)のもともとの意味なのです。ラテン語のcultus(耕地)から生まれた英語です。考えも掘り起こし、歴史も掘り起こし、記憶も掘り起こすというわけでしょうね。掘り起こしてできたものを畝というのだけれど、畝は英語ではverseとつづります。

つまり、詩です。イギリス人は、「poem」ともいうけれど、たいていは「verse」といい、ブランク・ヴァースとはいっても、ブランク・ポエムとはいいませんね。これは無韻詩のことです。畝が3本できたら、詩行が3つできたのとおなじです。

詩は掘り起こされたもの、という意味をもっているようです。人びとは、詩人じゃなくても、自分の畝をちゃんと耕し、掘り起こし、自分の耕地で、自分の文化、自分の詩行を立てているというわけでしょうか。

北海道のふるさとの風景は、そういう畝の見えるところでもあります。

そして、多くの祖先が畝をつくりつづけ、いまもその畝が連綿とつらなって見えるというわけですね。

農業人の表現力は、詩でもなければ音楽でもなく、絵でもない。ひたぶるに、畝づくりに発揮されてきたようです。ですから、農業人の魂を見たければ、彼らのつくった畝を見るしかない。――これは、譬喩(ひゆ)ですが、人びとは人びとの畝というものをちゃんともっているというわけです。

「あなたの畝は、何?」

ミネルヴァの梟は、そういう夕暮れどきに訪れるというのです。

一日の終わりや、年の終わり、人の晩年になって哲学が実る。そういうことだろうとぼくは考えました。

小説家は、実るまでのさまざまな過程をいろいろと書きます。

哲学者は頭のなかで行動しないものとして書きます。ヘーゲルの「歴史哲学」は奇妙な本で、ヨーロッパでうんざりした人間たちが、アメリカにあこがれる民として描かれています。そうしてヘーゲルの時代から、そろそろ新世界アメリカが歴史に登場してきます。

コレラはそのころ(1831年)下火になり、市民の多くは、ほっとしていたころ、ヘーゲルはその最後に時期にあたり、最後の犠牲者となりました。享年61。

北海道の村の農民たちは、そういう哲学とはまったく無縁でした。腹のたしにならない学問にはまるで縁がなかったのです。

最大の関心事は天気でした。

天気はどうしようもありません。作物の生育にとって、ただの一日も、無関心ではいられません。

ですから、天気を相手に、彼らはさまざまなことをしました。

寒くなれば水田の水の量を多くして作物を寒さから守ったし、それでも足りなければ、春先の床冷えのする早朝、あちこちにもみ殻をいぶして、温度を上げようとしました。そんなことをしながら、年をとると、経験の少ない者に、――たとえば台風に強い苗を植えさせ、茎の生育をいくぶんでも抑えるために窒素肥料を減らしたりして指導しました。実を豊富につけるために、リン酸・カリをあんばいよく配合することを学ばせます。

そして、ある者は、稲と稲の株のあいだを広くし、根を張りのばす稲特有の分けつや、株張りを注意深く見守り、養分がよりいきわたるようにした者もいたでしょう。そんなとき、詩が生まれるのです。

北竜町には詩人がたくさんいました。

全員が農業人なのですが、北海道を代表する詩人でもありました。アイルランドの詩人イェーツは詩しか書きませんでしたが、北竜町の詩人は、畝をつくり、作物を育てたのです。みんな、若くて活躍していた全盛時代に、畝とともに詩をつくっていたわけです。

北竜村の前身「やわら」は、明治26年、千葉県・埜原村(やはらむら)からやってきた21戸の農民たちだったと資料(昭和30年発行「北竜町農業協同組合十周年記念誌」)には書かれています。「埜原」と書いて「やわら」と発音していたと千葉県庁市町村課の担当者はいいます。げんざいの千葉県印旛郡(いんばぐん)本埜村(もとのむら)がそれであり、新利根川の南にありました。

やわらは、石狩平野の北端、暑寒別岳(しょかんべつだけ)の北東部に位置し、北海道でもっとも広い、肥沃な大地をかたちづくっています。

石狩川水系の雨竜川と傍系の恵岱別川は、ともに二級河川ですが、ぼくたちは、田んぼのすぐ裏手にある川べりへ行って、夏になれば泳いでいました。――その川は、年々大きく蛇行して姿を変えていき、ときには田畑を侵食して、手がつけられないほどあばれまわることもありました。

ぼくが子どものころ、水田の一部が濁流で無惨にも削り取られ、濁流が押し寄せてきたときは、一時はどうなることかとおもったものです。水田はみな水没し、家畜小屋に閉じ込められた動物たちは、水を見て、おどろいたように鳴いていました。

ときにはオオカミのように激しく荒れ狂う河川と、眠った猫のようにおとなしい河川の姿があり、ぼくらは、自然の驚異のまえに、立ちつくすばかりでした。それでも、川には感謝の気持ちを持ちつづけます。川があるから村の暮らしがなりたつのです。

27歳の吉植庄一郎団長は、

「よーし、ここに村をつくるぞ!」といったのです。

渡辺農場、三谷農場、川端農場、板谷農場、広瀬農場、岩村農場、恵岱別農場(阿蘇農場)というように、それぞれの農場は、第1次入植たちの名前をとって名づけられました。

父がむかし、恵岱別にあった吊り橋が切れて、婦人が川に落ち、濁流に飲み込まれて流された話をしてくれました。昭和30年ぐらいが記憶の最後の砦だったようです。当時を知る人びとがまだ生きていたからです。

「10年誌」には三谷農場を代表して、富井直さんが文章をお書きになっていました。そして昭和42年、彼は風呂でおぼれて亡くなりました。富井さんが第一次入植者の最後の人でした。

やわらをつくった名もなき人びとの記憶は、もう父の頭からも記録からも、どこからもすっかり消え失せてしまい、記憶をつめ込んだ人びとはみんな亡くなって、やわらの口承史は昭和30年を境にぷっつりと途絶えたように見えます。

村という社会では、ひとりひとりは脇役で、ときには舞台にさえのぼらない人びとで、物語の主人公にはけっしてなり得ませんが、家にあっては、それぞれが主人公なのです。

無数の舞台が用意されています。

ぼくは、歴史というのは、そういう人びとのほうにあるのだとおもっています。

村をつくった団長の吉植庄一郎社長の名前はあがっても、21戸の家族たち、子どもたちのそれぞれの名前が、歴史の口の端にあがることは、ほとんどありませんでした。舞台の外にいる多くの人びとのために、農具や生活の小道具、それらをしつらえようとした苦心の跡があるだけです。

そのむかし、いってみれば北竜は、まだまだ歴史の見える村でした。あちこちに人びとの記憶が点在していました。――この130年間の歴史は、いま振り返るには、あまりにも遠すぎますが、苦難の過去が、この先もずっと語り継がれていくのはうれしいことです。

イタリアの作家、カルミネ・アバーテの書いた「風の丘」(関口英子訳、新潮クレストブックス、2015年)は、4代にわたるある一家をめぐる悲劇、幸運、絶望、歓喜を描き、古代遺跡のロマンや、ファシズム、横暴な地主などとの闘いを描き、まるで執念から生まれたような労作で、闘いのイタリア史が力づよく描かれています。

ぼくはこの小説を読んで、ますます北海道の物語を書きたくなりました。