■英文俳句と日文俳句。――

とわれとがの中。

さいきんの「読売歌壇」に、こんなのが載っていた。

 

いつまでも我慢してると思うなよ小便の犬に電柱の言う  (所沢市 鈴木照興さん

 

――という歌に、ぼくは腹をかかえて笑ってしまった。

散歩の犬がいつも引っ掛けているおしっこ。その電柱になり代わって怨み骨髄の歌である。電柱はいつも、何もいわないけれど、腹立たしい思いをしているのだ。「なめるなよ!」というわけである。もしもほんとうに、電柱がしゃべったら、人間のほうが卒倒するだろう。いつだったか、早朝の自販機からコーヒー缶を取りだしたら、「毎度、ありがとうございます」って自販機がしゃべったのだ! おしっこを漏らすところだった。

江國滋氏の「旅券は俳句」(新潮社、1990年)という本を読んでいたら、212ページに、「日米HAIKUコンテスト」の話が書かれていて、そのときの兼題が「霧 fog」で、英語部と日本語部のそれぞれ特選になった人の句が載っていた。

 

 fog……

 just the tree and I

 at the bus stop  ――Jerry Kilbride

 

 バス停に樹とわれとが霧の中

 

 蟹せせりをり対岸に霧動く ――田上さき子さん

 

どちらもすごいな、とおもう。

英語部のジェリー・キルブライドさんの句は、啄木みたいに3行に別れているところがいいな。なかでも「fog……」という出だしは、絶妙だ。訳文は少し変えた。何も動かない霧の情景がいいとおもう。

いっぽう田上さき子さんの句は、動く。

蟹も霧も動くのだけれど、対岸の風景を丸ごと覆って動く霧と、その中で、よく見ると手前の岸で小さな蟹もまた動いているというのである。光景をパンフォーカスしているのはもちろん蟹のほうだ。

すべてが霞んだようにアウトフォーカスしている中で、蟹にだけに焦点が合っている写真のようである。

霧の中で写真を撮るとき、むかしのモノクロ・フィルムでは3000か、6000くらいに増感すると、このような写真が撮れる。増感すると印画紙の像のキメが荒れるので、2号くらいの柔らかいペーパーに焼くといい。そうすると、句のようななめらかな像がしっとりと現われる。

この作品について江國滋氏は、何も書いていないけれど、彼は俳人でもあったので、これを取り上げようとおもったのだろう。この本には少ししか絵は載せていないけれど、彼の本業は画家であったとぼくはおもっている。彼の「にんげんスケッチブック」(毎日新聞社、1988年)は名作で、絵もエッセイも絶品である。

俳句かあ、……

いいなあ、とぼくはおもうだけだが、このような作品に触れると、こころが洗われる。

 

 

江國滋「旅券は俳句」、新潮社、1990年)。(岩田麻央「このままでいいの?」(みらい社、2020年)

2年まえ、北海道・北竜町の仲間から1冊の句集が送られてきた。送られてきのは6月だったが、北海道の労働の風景と、木々の香りがふんぷんとただよってきた。そのころ、父も母も元気だった。

「啄木のは、貧乏人の歌じゃないか」と父はいった。

ぼくは父のことを尊敬していたが、啄木を嫌う父は好きになれなかった。ぼくがはじめて新聞に俳句を投稿したのは中学3年生のときだった。選者は西東三鬼さんで、「学問を卒えたる途の冬小立ち」という句だった。新聞に載せてもらったはじめての句だった。中学生の部で、主席に載せてくれた。担任の高橋隆先生はほめてくださった。

「馬の背にカバンくくりて丘に立つ」という句もある。

というより、「田中、俳句なんかつくるのか!」という驚きのほうが大きかったのではないだろうか。

ほかの生徒も、じぶんが俳句を詠むなど、知らなかったとおもう。ぼくは先生にはじめて褒められた。

昭和33年の3月、そうしてぼくらは北竜中学校を卒業した。

そしてぼくは、高浜虚子、飯田蛇笏、正岡子規、芥川龍之介、中村汀女らの俳句をよく読んでいたほうだとおもう。だから、ぼくは子どもだったが、大人ぶった句がしぜんに身についた。先生からもうやうやしく俳句のつくり方などを、教わった記憶はない。しぜんに身についていったのだとおもう。

戦後、北竜町には、北海道を代表する俳人が大勢輩出した。

北光星、田中北斗、中村耕人、宮脇龍、山田雅風。

北光星の句「鳥帰る渡り大工のわが上を」は、じぶんをしびれさせた。

「世の隅の闇に舌出す烏貝」、俳句はこんなふうにつくるのか! とぼくはおもった。俳句はむずかしいけれど、なんだかおもしろそうだとおもった。ぼくの周囲には俳句をつくる仲間はひとりもいなかった。ときどき郵便局で山田雅風さんにお目にかかったが、俳句の話はしなかった。中学時代、高校時代、ぼくはそういう北海道のいなかで過ごした。

そして先年、中学時代の同期会があり、ぼくははじめて出席した。

みんなとは58年ぶりの再会だった出席者は38名、だれがだれやらわからなかったが、歓談しているうちに、だんだんわかってきた。渡辺晋一先生もおられた。みんななつかしい人たちだ。

ある日、Sさんが顔を出した。

「俳句ですかあ」という。彼はよく俳句をひねる。

事務所にSさんがやってきて、

「朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらひ水」がたいへん有名な句だといったら、「朝顔や――」と置くこともあるようだとSさんはいった。そうすると「切れ字」になって、もっと俳句らしくなる。

――一般には「朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらひ水」という形で流布している。ところが千代女の直筆に「朝顔や」と書かれているものがあることから、本場の金沢では「や」の方を奨励しているらしい。「に」から「や」に推敲。だから金沢出身云々といわれる。

では「に」と「や」ではどのような違いがあるのか。

文法的にはどちらも間違いではない。朝早く起きて井戸まで水を汲みに行くと、朝顔のつるが釣瓶(――の綱?)に巻きついていた。そこで擬人法的に詠んだと解釈できる。わざわざ「もらひ水」をした理由がはっきりしている。

この人は加賀藩の表具屋の娘だと書かれている。どうも、都会的なセンスの持ち主という感じがするので、おそらく江戸の加賀藩邸に関係する仕事をしていたのではないかと想像する。父親は表具職人。

彼女は安永4年(1775年)に73歳で亡くなっている。このころの73歳というのはかなりの長寿である。つまり江戸末期の人。翌年の1776年には、アメリカ合衆国が誕生する。そのころの人である。

ちょうどそのとき、彼女の句が載っている本をデスクの上にひろげていた。そのページに、金子兜太さんの句も載っている。金子兜太さんはぼくの先生でもあった。

「華麗に墓原女陰あらわに村眠り」という句がある。「女陰」ということばが目にとまって、Sさんは、「ここに、田中さんみたいな句がありますねぇ」といった。その隣りには、

「おちんこも欣欣然(きんきんぜん)と裸かな」(相馬虚吼)という句もある。「欣欣然」というのは、歓びでいっぱいという意味。われながら、おかしさがこみ上げてくる。こんな句が俳句辞典に載っているのである。

その日も、Sさんとおしゃべりした。

 

てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。

安西冬衛「軍艦茉莉」より。昭和3年

 

図書館から借りてきた塩田丸男の「日本詩歌小辞典」(白水社)という本に、安西冬衛のこの1行詩が載っている。

だから借りてきたのだが、この詩にはじめて触れたのは、中学3年生のときだった。安西冬衛は、昭和3年(1928年)に創刊された同人誌「詩と詩論」の同人になっている。

彼は奈良の生まれらしいが、官吏だった父の転勤にともなって満州の大連に移り住み、ここで青春を過ごした。

そのころ、滝口武士の「屋根の上にあかしやの枝が折れてゐる」という句もあるが、1行詩といえば、この「てふてふ……」がもっとも有名であろう。韃靼(だったん)というのは、モンゴル部族のひとつ、タタール人のことである。この海峡を最初に発見したのは、タタール人だった。それでむかしは、「韃靼海峡」と呼ばれた。

英語では「タタール海峡(Strait of Tartary or Tatar Strait」」と書かれる。

サハリン北部とシベリアとのあいだにあるこの海峡を、「韃靼海峡」といい、おなじくこの海峡を発見し、サハリン(樺太)が島であることを確認したのは、江戸後期の探検家間宮林蔵だった。そういうことで、現在は、「間宮海峡」と呼んでいる。

安西冬衛は、この海峡を最初に発見したタタール人の勇壮な夢を、詩に託した。しかも、蝶々が海峡をひとりで「渡って行った」といい切るのである。

この詩集をぼくは中学校の図書室で見つけ、この1行詩を読んだ。

蝶のような、小さな生き物が羽をひろげて海原を飛んでいく姿を想像し、えらく勇気ある行動に、びっくりしたものである。安西冬衛の「軍艦茉莉」という詩集は、しかし読んだ記憶がない。この1行詩だけを読んだのかも知れない。それからずっと、この安西冬衛という詩人の名前を忘れずにいた。

 

鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし

三橋鷹女「白骨」より

 

この句をぼくは、「鞦韆(ブランコ)は漕ぐもの愛は奪うもの」と覚えていた。季語は「鞦韆」で、季節は春。中村汀女、星野立子はよく読んだほうだが、この作者、三橋鷹女についてはほとんど知らない。――そうだったのかとおもう。これには「――べし、――べし」と命令形で書かれている。ブランコは漕ぐものに決まっているが、愛もまた奪うべきものだというのである。奪われた愛は、すごいだろうな、とおもう。女の力づよさと、したたかな願望が伝わってくるようだ。

 

 妻をめとらば才たけて

 顔うるはしくなさけある

 友をえらばば書を読んで

 六分の侠気(きょうき)四分の熱

 

 恋のいのちを たづねれば

 名を惜しむかな 男の子ゆゑ

 (与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」より

 

これは、明治32年(1899年)12月5日、与謝野鉄幹が「伽羅(がら)文庫」に発表されたものだという。当時は「友を恋ふる歌」という題がついていたらしい。

ほんとうは女房をほしがっている女々しい歌なんかじゃない。

鉄幹は、山口県で教師をしていたとき、教え子を犯して子供をもうけている。教え子に手をつけるなんて、とんでもないというわけで、ふたりの結婚はゆるされなかった。彼は上京し、この詩が発表になってしばらくして、まさに詩に書かれたとおり、こんどは妻・晶子と結ばれた。事実婚として世間はこの夫婦をみとめたが、ふたりの籍は別々だった。

鉄幹は、この長い64行にもおよぶ詩でいいたかったのは、女の悲しさだったろうとおもう。「人を恋ふる歌」というのだから、遠い山口に残してきた教え子のことを思って書いたのかも知れない。

                                          ♪

ここまで書いたところで、Sさんがふたたび事務所にやってきた。空気入れを貸してやり、「どこかにお出かけですか?」ときくと、

「ちょっと、本屋まで」という。

きのうは、えらくパチンコで儲けたらしい。図書館へ行けばいいのにと思ったが、いままで読んでいた白川道の小説「天国への階段」(文庫本で全3冊)をちょうど読み終えたので、こんどは別のものを買ってくるという。読書は娯楽である。人をうきうきさせる。

ぼくが借りてくる図書には、ろくなものがない。「日本の詩歌」全集の別巻「日本歌唱集」が手元にある。それを読んでいて、明治大学の校歌を発見した。

ギター奏者の伴さんの話では、この校歌は世界の3大校歌のひとつになっているというではないか。知らなかった。「日本歌唱集」には、この校歌と法政大学の校歌しか載っていない。

 

  

   明治大学。

 

  白雲なびく 駿河台(するがだい

  眉(まゆ)秀(ひい)でたる 若人が

  撞()くや時代の 暁(あけ)の鐘(かね

  文化の潮(うしお) 導きて

  遂げし維新の 栄(はえ)になう

  明治 その名ぞ われらが誇り

  明治 その名ぞ われらが母校

  (作詞・児玉花外、作曲・山田耕筰

 

これは大正9年につくられた。この歌のリズムがむずかしい。譜面でみると、覚えていたものとは違っていた。最後の1小節が原曲と違っていたのである。最後の「~その名ぞ われらが母校」は、1オクターブ下がったところからクレッシェンドするように書かれている。たまには、こんな詩も読んでみたくなる。

句集「樽一樹」。――いろいろ感動的な句がある。

 「父在りて母在りてこそ冬木澄む」

 「一撃の出会いのごとし冬木立」

 「新しき闇に踏みこむ初詣」

 「野望など無き一生や野火放つ」

 「蒲公英の花輪編みたし病む妻に」

 「あと五年静寂貫く落し水」

――北海道で生まれた句には、独特のものがあるようだ。いま、山岸正俊氏の句に魅せられている。